松韻を聴く旅 九州紀行第3弾(1)福岡の松原を巡る
11月12日、神戸からフェリーへ九州へ
7月から始めた毎月2週間ほど出かける撮影取材の旅も、これで5回目となる。
前回は、茅ヶ崎から1日で壇之浦まで900kmを走って翌朝九州に至ったが、今回は茅ヶ崎から神戸の六甲アイランドに向かい、夕方出発するフェリーに乗って翌朝に門司港に上陸する行程とした。そこで、昼前に故郷の芦屋に到着し、前回予定が合わなかった母親とご先祖様の墓参りをと思ったら、多忙の弟が予定を合わせてくれて一緒に墓参りができたのだった。
そして、母から疎開先で「松葉かき」をした話を初めて聞いた。もちろん風呂焚きなどのために小学校の低学年だった母も松葉をかいていたという。当時は「こくばかき」と言っていたようで、「落ち葉かき」の意味でもあり、兵庫県の「松葉かき」の方言でもあるようだ。それに「松露」はもちろん、「しばはり」も採って大人たちから大いに褒められた、と言うので調べてみたら「アミタケ」のことで、松茸並みに高価な食材だったようだ。ということで、思いがけず最も身近な家族の聞き取り取材からスタートとなった。それもキャンピングカーの中で聴かせてもらった。この話は改めて深掘りしたいと思う。
今回も事前に各地の方に連絡をして取材を受けていただけることになっている。今のところ11か所の撮影予定地があり、そのうち7か所で取材の予定だ。今回もさまざまな風景や人との出会いを楽しみたい。
2日目(11月13日)「日本松保護士会」代表と語らう
まず向かったのは北九州市八幡西区の黒崎駅近くにある長崎街道「曲里の松並木」。長崎街道は東海道をはじめとする五街道に続く九州唯一の脇街道で、出島のある長崎から多くの物資や人や情報が流通する街道でもあるため、世界に通じる道として重視されていたようだ。現在は図書館や大型店舗などに挟まれ町の中心部に江戸時代が佇んでいる。強い朝日に照らされる石段と松並木をオーソドックスに撮影した。
この松並木は公園として管理整備され、八幡西区役所のまちづくり推進課が管轄しており、熱心に担当されている福山係長と松本さんにお話を伺えた。このセッティングは、この後お会いする日本松保護士会会長の沖濱さんの紹介で、北九州で造園業を営む三宮洋さんが繋いでくださったのでスムーズにことが進んだ。
さて、「曲里の松並木」だが、福山さんが用意してくれた資料によると、1965(昭和40)年の図面によると現存松は15本。1937(昭和12)年から1959(昭和34)年の西部地区土地区画整理事業で現在の公園の地形になった模様。当時は現在の松並木内に仮説住宅や動物小屋などがあった。その後、住宅地区改良事業などにより古い住宅などが整理される。
1971(昭和46)年に北九州市の史跡に指定。1974(昭和49)年に公園設置公告。1978(昭和53)年頃までに造成工事や松の植栽が行われる。1988(昭和63)年に曲里地区都市再生事業に合わせて往時の地形を生かしながら自然石の石積みによる景観整備を行なって現在に至っている。
2019(令和元)年時点で植栽された松は557本、以降、間伐や災害を未然に防ぐため道路側を伐採するなどで毎年20本程度を減らし、現在498本となっている。この中に江戸時代からの街道松は2本である。区役所が公園として管理を徹底できているのは、熱心に保全活動を行う地域住民の方々と本音で議論を重ねて事業を進めているからという話は、とても心地良いものだった。
続いて、福岡市の中心地にある百道松原へ。
ここでお会いしたのは一般社団法人「日本松保護士会」代表理事の沖濱宗彦さん。「日本緑化センター」が認定する松保護士は全国に250名のメンバーがいる。これまでの撮影取材で感じた松林に関する課題や解決策を話してみると同意をいただき、実地でファインダーを通して感じたことや学んだことの受け止め方は間違っていなかったことが確認できたことは自信につながり有り難い。
沖濱さんからは「松保護士とは何の仕事をする人?」と聞かれてシンプルに答えることができないと言われたので、「一言で言うと”松の専門医”でどうですか?」と返したら納得してもらえた。
ちなみに、正確には、「松保護士とは、全国に流行してマツを枯らしているマツ材線虫病について幅広い知識を持ち、被害現場に適した防除対策を考え、実際に作業指導を行う専門家(一般財団法人日本緑化センター受験申請文書より)」である。
これからますます松保護士の存在は重要であり、各地でスキルを発揮していただくためにも存在意義を知らしめていく必要はこれまで各地を見てきた者として喫緊の課題と感じる。この撮影プロジェクトの都合からいえば、全国各地で松に関する取り組みの情報を把握したり関係者に会いたいので松保護士のネットワークは貴重な存在。ぜひ連携していきましょうと盛り上がったのは言うまでもない。
やはりこのタイミングで、撮影取材「松韻を聴く旅」を行うのは大正解である。
撮影で冷えた体を「ヒナタの杜小戸の湯どころ」で癒してから、糸島の芥屋海水浴場の駐車場で車中泊とする。
「日本松保護士会」代表の沖濱宗彦さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
3日目(11月14日) 茅ヶ崎と福岡新宮町の縁
満点の星空のもと目覚め、今日は取材の予定がなかったので、福岡市内を抜けて前回撮影していなかった福津市の「勝浦海岸」「宮司浜」などに向かう。宗像市と古賀市に挟まれた立地で、一つの海岸線にいくつもの浜の名前がついている。「芦屋浜」から始まり、「三里松原」「さつき松原」「勝浦海岸」「白石浜」「津屋崎」「宮司浜」「福間海岸」「花見海岸」「楯の松原」「三苫海岸」「奈多海岸」そして「海の中道」へと至る玄界灘を直接臨む松原が連続するエリアだ。「勝浦海岸」は無名の松たちの海岸風景に反応し、「宮司浜」は大王松の松ぼっくりが多数あり反応した。
その後、10月にお会いした「楯の松原」で活動する「筑前新宮に白砂青松を取り戻す会」事務局長の近藤暢也さんから再訪をお願いされていたので連絡を取り合うと、「楯の松原」で活動する「がんこ本舗」代表取締役の木村正宏さんとも時間調整してくださった。まず昼過ぎに近藤さんと「楯の松原」に行き、前回とても気に入った「浜の四本松」を雲の変化を楽しみながら納得いくまで再撮影。これがとても良い時間でいつまでもこの場所に居て松との語らいを続けたかった。
太陽が傾き始めてから「がんこ本舗」に向かった。本店となっている茅ヶ崎で事業をスタートさせここ新宮町は製造工場がある福岡本店。商品は洗剤を中心として全て自然循環を基本とする企業理念。「企画部まつぼっくり課」があり、ここ「楯の松原」で回収したまつぼっくりで洗剤を作っている。まさに松原の中で経済循環の模索が始まっているのだ。SDGs宣言を行って地に足のついた事業を営んでいる。よくある表層的な宣言ではなく、日々商品改良というか研究をしながら経営している志のある社員が集まっている。会社のウェブサイトはそんな情報が満載。当然ながら木村さんをはじめ社員のみなさんと意気投合した気持ちの良い会社である。
この「松韻を聴く旅」は、「環境保全」「社会基盤」「経済循環」と多様な視点から、各々の形で「松」と関わり持続可能な社会に向けて行動する人に出会う旅となってきた。良い感じ。
近藤さんと夕食を共にして、古賀の内陸にある「薬王寺の湯偕楽荘」で疲れを癒し福間海浜公園の駐車場で車中泊。
大王松が多い宮司浜(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
4日目(11月15日)はかた夢松原、百道浜と海の中道
今日は「はかた夢松原の会」事務局長の井上嘉人さんとお会いする約束。百道松原でお会いするとスーツだった。普段は行政書士として活躍されているが、「はかた夢松原」には、NPO法人(特定非営利活動法人)の認可を受けた2000年から事務局に従事され、現在は事務局長の任を預かる。
「はかた夢松原の会」は、百道浜が1980年代に埋め立てられ人工海浜公園として造成される際に、防風防砂には南国のパームツリーではなく白砂青松が欠かせないと、 昔の人たちのように「自分たちの手で松を植え、白砂青松の美しい松原を復元しよう」と 女性達を中心とした市民運動によって1987(昭和62)年に設立された団体。今から考えると画期的であり先進的であり本質的であり素晴らしい行動であるのでもう少し詳細を以下に記す。
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福岡市シーサイドももち海浜公園によみがえった見事な松原は、博多湾西部の広大な埋立て地に造られた人工の砂浜にある。総延長2.5キロ。この地で1989(平成元)年アジア太平洋博覧会が華やかに開催。夢松原の構想が生れた1986(昭和61)年当時、そのアジア太平洋博覧会に備えてシーサイドももち海浜公園予定地一帯には、南太平洋のイメージを盛り上げようと椰子類を植栽する計画が進められていた。
福岡市緑のまちづくり協会の評議員をしていた小山ムツコさんはこの計画を知って疑問を持ち、地域活動など幅広い運動を手掛けているいけばな玄雅会会長の川口道子さんに話した。百道はもともと白砂青松の浜、南国の樹木ではどこか似合わないし、玄海灘から吹き付ける厳しい北風には耐えられないだろうという2人の思いから芽生えたのが「夢松原」の運動であった。
夢松原実現に向けての行動は迅速かつ着実に進み、縁のまちづくり協会からも積極的に応援するという励ましを得る。市長以下市当局もシーサイドももちの海浜公園に市民の手で松を植えることなど会の趣旨を理解し承諾。1987(昭和62)年、約20人が集まり「夢松原市民の会」を開催。会の基本的な考えを以下の三点に絞った。
①筑前海岸の松の多くは江戸時代に人の手で造られ大切に育み守られてきたもの。
②その松原が今日都市の爆発的拡大とマツクイムシそして環境汚染によってみるみる破壊され衰滅の一途を辿りつつある。
③人々は白砂青松を愛しその保全や再現を熱い思いで願っている。
(公益財団法人明日の日本を創る協会より抜粋)
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これまでに、百道浜では市民の募金やボランティアを募り4万本を植えてきた。現在は、海の中道でも活動をされている。今日は井上さんにその両方をスーツ姿のままご案内いただいた。
最初に案内してもらった「海の中道青少年海の家」は広大な手入れされた松原の中にあり、野外活動を行う多くの子どもたちがいるこの風景は一つの理想だと思う。続いて「海の中道公園」の中にある広大な砂丘地帯の植林現場に行く。玄界灘の吹きっさらしで苗の育成状況は多様で実証実験をしながら前進させる地道な活動とも言える。
海の中道はとても広大な砂丘地帯が広がり、先月の撮影取材の際はつかみどころがなく撮影できなかったので、今日は詳細にお話を聞きながら撮影が実現し、ひとまず求めていた福岡の松原を巡ることができた。しかし、この広大な海の中道の風景の中で特徴的なのは砂丘の中をJR香椎線が走っている光景かもしれない。この路線は糟屋炭田から軍艦用の石炭を西戸崎に運ぶため施設されたもので、線路には常に砂が流れ込んできているため防砂が欠かせない。
その防砂機能を高めるために今日も大型重機による土木工事が行われているが、松も防砂機能の一つであることはいうまでもなく、その植樹や維持を行っている民間団体は「はかた夢松原」なのだ。貴重な海岸植生の保全を優先する自然保護団体との利害を調整することも行っており、多様な知識と経験が求められる高度な活動と言える。
日本の象徴的な景観として松のある風景の表現を探求しているが、被写体をどこまで広げていくのかまだまだ地域に関する学習が足りず掘り下げる必要があることに、その土地を離れてから気付く。いずれにせよ、福岡県は黒田藩の歴史を継承した松原保全のメッカであり、多くの熱心な取り組みがあることが把握できた。
明日はいよいよ唐津東から壱岐にフェリーで渡るので、虹の松原の内陸にあり施設の雰囲気が良い「野田の湯やすらぎ荘」に向かう。天然温泉ではなかったが疲れを癒して虹の松原で車中泊とする。
「海の中道青少年海の家」から海に出る(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)