Monochrome Works

The Voice of the Waves Through the Pines(2021)

松韻を聴く

日本の海岸の防砂林は、伝承では1000年以上前から、史実では500年前から、本格的には江戸時代から植林されてきた。海岸林として松が砂浜の背後に並ぶ「白砂青松」と謳われる風景は人の手による風景なのである。

松とはクロマツとアカマツをさすが、「白砂青松」は主に潮に強いクロマツが砂浜に沿う風景を指す。沿岸の耕作地や新田開発を飛砂や塩害から守るためであり、時に津波被害を最小限に食い止める防波堤の役割も担ってきた。松を植林して防砂林を作るのは、松の性質を理解した長い年月に渡る自然観察の積み重ねからもたらされた知恵だと言われている。

僕の生まれ故郷の芦屋も、海が埋め立てられる前は松の風景の向こうにささやかな砂浜が広がっていた。その名残のように老松が芦屋川沿いや僕が卒業した小学校の校庭に残っていた。松韻を聴きながら遊んだ体験によって、音を伴った松の風景が心に刻まれている。茅ヶ崎に住む今も、防砂林として植林された松に暮らしを守ってもらっている。僕が常に恩恵を受けてきたのは松のある風景なのだ。そんな松のある風景が心の拠り所になっている人はきっと全国各地に多くいる。

東北は松のある海辺の風景がことごとく破壊されてしまった。陸前高田の松原は、これまでの津波では被害を軽減させる働きをしてきたが、今回の津波の破壊力は比較にならないほどで、7万本と言われた松は奇跡の一本松を残して全て流された。この松原は仙台藩時代の植林事業によって造られた。藩祖である伊達政宗は、仙台入城の頃に「入りそめて国ゆたかなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいのまつ」と和歌を詠み、松林で守る国づくりの基幹事業「潮除須賀松林」は現代に継承され、仙台平野では総延長65kmの海岸線に1,000haとなっていたが、その多くは失われた。

2011年以前にはほとんど訪れたことがなかった東北の太平洋沿岸。国土地理院の浸水範囲概況図を頼りに、本州太平洋沿岸の砂浜最北端の集落である青森県の尻労地区から茨城県の高萩市までを、2013年から2019年にかけて巡った。今はGoogleMapsでどこにいてもロケハンができる。ストリートビューを使えば、各地に残る一本松も見つけることができる。それでも思いがけず松のある風景に出会うときめき。起伏や風向を想像してその場に向かう。

2016年5月に福島第一原発に最も近く帰宅困難区域にある双葉海水浴場に立てた。その脇に原発への1本道があり交通規制のゲートがある。命を終えた松が墓碑のように何十本も立っていて不気味なほどに無人。良い波が打ち寄せる海岸にも誰もいない。内陸も遠くまで見通せるが走る車もない。聴こえてくるのは自然の営みだけ。マリンハウスふたばの時計は15:35を指したまま止まっていた。

歳月をおいて同じ海岸に立ったこともあった。ある浜では、津波を耐えた松林が伐採され防潮堤が建設されていた。そこにあった石碑は味気ない場所に移転され存在意義を失っていた。またある浜では、大人たちが拾った松笠から種を取って苗に育て、子ども達のためにと植林をしていた。その熱意に多くの人が心を寄せ、全国に活動が広がるのを目の当たりにした。

津波前の風景を想像できない場所に、圧倒的な存在感で立つ枯れた松や生き残った松。これが今のこの地の風景であり、人が手を加えない限り急激に変化することはなく、子ども達にとってはこれが故郷の風景として心に刻まれる。暮らしを守る風景とはどうあるべきなのか。今や東北の海岸線の多くが、松林の向こうに白い防潮堤が見え隠れし海は完全に見えなくなり、「白砂青松」という“情緒”から「白壁青松」という“構造”になった。

参考文献 『よみがえれ千代の松原』公益社団法人宮城県緑化推進機構委員会/2016年『海岸線は語る』松本健一/ミシマ社/2012年『海岸林をつくった人々』小田隆則/北斗出版/2003年