(九州紀行第1弾(3)宮崎をゆく編より)

 

9月24日、8日目。大隈半島を走り桜島を周回する。

 

 朝焼けの「くにの松原キャンプ場」駐車場で起床。東京ドーム1個分もあるキャンプ場を撮影散策して、昨夜意気投合した堀之内さんに事務所でコーヒーを淹れていただき松原談義の続き。

松原を健全な状態で維持する唯一の方法は極めてシンプルで、それは”定期的に行う松葉かき”。多くの松原で自治体や民間による松葉かきが行われているが、集めた松葉のその後が重要で、これを集めてペレットのような固形燃料にするなど再生可能エネルギーにできれば、松原は循環型社会のインフラとしての機能がさらに向上する。防潮防砂林としての”基盤”としての役割と、再生可能エネルギーの生産現場としての”機能”としての役割。さらには癒し効果としての”価値”。日本全国の松林を健全にすることは持続可能な社会づくりに欠かせないという共通認識を堀之内さんと深める。そんな堀之内さんのポートレイトはキャンプ場内の特徴ある松を選び、昨夜ご一緒したお仲間のテントを背景に撮影させてもらう。

すると大型のブロアーや芝刈り機の音がし始めたので、向かってみると町役場から委託を受けている「大崎町しいたけ同好会」の皆さんが一斉に松原の掃除を開始していた。堀之内さんが両手を振って走り寄り作業を止めてくれて、全員の集合写真の撮影が実現。昨日撮影した美しい芝生公園はこの作業によって維持されている。こういう方々の写真こそが大切だと思いながらシャッターを切った。男性も女性も実にいい笑顔なのである。感謝。

「くにの松原」のイメージをもう少し撮影するため堀之内さんとは再会を約束し、松原の小道から海岸に出て納得のできるポイントを発見。海は良い感じで波が立ち数人が入っているが、湘南では考えられない極めて少ない人数。思えば四国の入野松原に続き波乗りしたい症候群が出そうになりつつ、松原に戻ってみると波乗りから戻った人たちが着替えてバーベキューをしていたので、声をかけて波乗り談義をして気を紛らわせた。

都城市から20年ほど通っている50歳の男性は、宮崎市内に行くかここに来るか同じような距離感なので、空いている「くにの松原」がお気に入りとのこと。思ったほど沖に出るカレントはキツくないけど、サイズアップするともちろん要注意。最近、ここから流されて都井岬の沖合で27時間ぶりに救助されたサーファーがいたらしい。それと通い始めた当初は、松林は全体的にもっと人が立ち入れる状態に整備されていたという。確かにキャンプ場周辺は「大崎町しいたけ同好会」の頑張りで維持されているが、広大な松原全体を維持管理するのは”清掃委託事業”ではなく、”燃料生産事業”として行う必要があると思う。

次の撮影地へ向かう。事前に調べていた、大隅半島の錦江湾側の中ほどにある浜田海水浴場が想定以上に松がとても良い感じで、松を主役に桜島を遠景に捉えるポイントと、開聞岳を遠景に捉えるポイントがあるのを発見し撮影。かなり納得できたので今後の日程を考え桜島に急ぐことにした。桜島では、大正の噴火や昭和の溶岩流による被害を受けたエリアでは、松が先駆植物(パイオニア植物)であることがよくわかる風景が広がっていると考え撮影ポイントに選んだ。

先駆植物(パイオニア植物)とは、できたばかりの地面からコケ植物や地衣類が侵入し、保水力や養分を含んだ薄い土壌ができると1年生の植物が繁茂する。やがて多年生の植物であるススキやチガヤの草原が出現し、土壌環境が整ってくると、最初は強い光を好み乾燥に強い陽樹が出現し、陰樹が生育できる環境を整えた後、減退・消滅する。この陽樹の一つが赤松や黒松なのだ。(「森林・林業学習館」より抜粋参照)

向かってみると、期待通り溶岩帯には一面松の樹海が広がっている。しかし、なんと半分ほどはマツクイムシ被害で赤茶色に変色している。何も考えずに眺めると、赤と緑で配色的には美しく感じる人もいると思うが圧倒的に恐ろしい光景である。大正溶岩原にある「有村溶岩展望所」で撮影していると、火山灰の影響なのか段々と喉がイガイガ鼻がムズムズしてくる。続いて「湯之平展望所」にも立ち寄り、周回して最後に「昭和溶岩展望地帯」へ。ここでは無人の荒涼とした風景にパイオニア植物としての松の姿を捉えることができるためグイグイと中へと分け入った。三脚を立て噴煙をあげる桜島をバックにまだ数年の松に向けてピントを合わせる。ふと立ち上がって目を閉じると聞こえてくるのは「松韻」のみである。

結局は太陽が傾く時間まで桜島を一周した。明日の夕方に重富海岸に伺う約束をしているので、このまま一気にえびのまで行って明日の早朝からえびの高原の赤松群を撮影することにする。途中、ロードサイドにあるレストランで食事をして日課となっている日帰り温泉を検索し評判がいい温泉「富の湯」に行く。確かに人も少なく綺麗な温泉銭湯で、心から1日の疲れを癒すことができる。この撮影取材の旅を通して地域の日帰り温泉フリークになっている自分に気が付く。車中泊は駐車場も広くえびの高原へのアプローチにも適した「道の駅えびの」にした。すぐ隣にコインランドリーがあることを把握していたので洗濯し撮影した作品の現像作業と備忘録を書く。

 

桜島有村溶岩展望所(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9月25日、9日目。えびの高原の虹。

 

えびの高原の駐車場に7時前に到着。濃い霧と横殴りの雨の中をカッパに長靴で撮影散策。点在する赤松のほとんどがマツクイなのか火山性のガスによるのか松枯れしており、緑の葉で元気な赤松は見当たらない。ここまで酷い状態とは想像もしていなかった。そう長くない先に全ては白骨化のように立ち枯れ伐採されるのではないか。えびの高原の風景は変わってしまうだろう。

とはいえ、また立ち姿は魅力的でモノクロだと判別はできないと考え悲しみをこらえての撮影。ところが、ムード満点の霧は晴れてしまうが雨は降り続け、ついには日差しまで差し込んでも雨は上がらず、全身ずぶ濡れのまま撮り続けていると、三脚を立てカメラを向けていた真正面に虹が浮かび上がってきた。そのままシャッターを切れば良いという完全な独占状態である。悲しむ男を励ましてくれるというのか、これこそ写真の神様の存在を実感し感謝するしかない。

えびの高原における悲しみと感動の両方の体験を胸に霧島市内に降り姶良市の重富海岸に向かう。桜島を臨み大隅半島が一望できる爽快な風景を眺めることができる美しい松原である。「くすの木自然館」の代表理事である浜本麦くんに十何年ぶりかでの再会。生物多様性を探求している頃に環境教育系の人脈にいた20代の麦くんに会っていた。姶良市の管轄である重富海岸の松原に環境省のビジターセンター「なぎさミュージアム」が設置され、その指定管理者になっている背景を、松原を散策しミュージアムで語り合ったあと、麦くんおすすめで町中にあり良い味わいを出している「重富温泉」を堪能してから、まるで学生時代に戻ったようにファミレスで待ち合わせ、深夜までじっくりと語り合う。

幼少の頃、毎年遊んだ記憶がある松原が荒廃しているのを大学時代に見つけ、同じ思いを持つ人がきっといると信じて、地域の資産として守ることを決意し地道に手を入れ始める。当初はなかなか理解を得られずにいたが、徐々に賛同者が増え行政や市民も巻き込み保全の仕組みが出来上がっていき、誰もが親しめる松原への再生の道がひらく。恵まれた立地であることはもちろんだが、そうした活動基盤があったので、環境省の錦江湾での拠点探しのニーズにもマッチしてビジターセンター設立に至った。これは、自然をこよなく愛する青年の郷土愛が原動力となって、官民を巻き込んだ一つのモデルといえる。

今日も、臨時休校の小学生、親子連れ、ジョキングする男性、散歩する女性たちのグループ、犬の散歩、老夫婦の散歩まで、本当に多彩な市民が足を運び親しんでいるのだ。また、今年の春には、ご自身もハンデキャップを持つ石神愛梨さんを職員に採用し、当事者目線を大切にしたバリアフリービーチにも本格的に取り組むなど、ユニバーサルで誰もが親しめる海岸の実現を目指している。こうした地域愛が原動力となった一つひとつの行動が、地域の官民の行動変容を促し、ネットワークが広がり、確実に地域を変える影響力を発揮している。地域の郷土愛が、日本の将来を作るためのモデルを生んでいくという素敵な実例だと思う。

麦くんが推進するSDGs教育も、ステレオタイプに教え学ぶのではなく、重富海岸での体験に基づいた話から参加者の自分ごと化を引き出すことによって、地に足のついた具体的なオリジナリティ溢れるアイデアと行動が生まれている。また、重富海岸は錦江湾で最大の干潟でもあるため漁業組合との連携を実現していたり、流域の視点を大事にしているため林業の振興にも言及している。松原を起点とした、地域における持続可能な自然共生の社会基盤モデルを重富海岸から発信してほしいと切に願う。麦くんの話は、日本のサステナビリティへの知恵と行動は、地方から都市へ伝わる構造が、空論ではなく本質を具体的に捉えているので望ましいのだ。

 

浜本麦くん、重富海岸にて(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9月26日、10日目。開聞岳を見上げる。

 

重富海岸の対岸にあるなぎさ公園あいらで車中泊。朝日の中で重富海岸の撮影をしていたら、浜本麦くんが今日の環境学習の準備をしていたので少し話して再会を約束して別れる。

まず向かったのが鹿児島市内にある島津家ゆかりの仙巌園(磯庭園)。昔の絵には松が多く描かれているが、現在はそれほどでもない。御殿の前に少し古いが相当大きな松と思われる切り株があり健在だった頃に想いを馳せた。隣接する集成館は海外にいち早く目をつけた島津家の富国強兵、殖産興業の原動力になった場所で、日本の文化に生き西洋の理解を進め両立させる当時を思う。次に気になっていた鹿児島市内の本家本元の天保山。やはり島津家によるもので薩英戦争の砲台があった場所。周辺には商業ビルやマンションが立ち並ぶ中心地ではあるが、多くの老松が健在で文字通り当時の生き証人だ。

鹿児島市を南下して指宿に向かうと、観音崎の松並木に歓迎されたので撮影。すると眼下にも松並木が目に入ったので向かうと、「隼人松原」とあり大きな老松が何本も立ち並んでいる。ここは篤姫の今和泉島津家の跡地であり現在は今和泉小学校となっている。これは撮影地として欠かせないと思い撮影していると、今和泉小学校の子供達と先生が出てきて松原で散策を始めた。こうして松原に自然体で触れる体験が大人になった時の感性に活かされることを期待する。学校に戻る先生と生徒たちと気持ちよく挨拶を交わした。

指宿市内を抜けて南九州市の頴娃町に入ると再び大きな老松が海岸線に並ぶ。ここ瀬平公園が松と開聞岳の撮影ポイントのめ名所であることを知る。平成23年に建てられた看板に樹齢360年とあるので今は370年ほどの老松ということになる。薩摩半島の南端は、思った以上に老松が多く意外であったがこれは開明的な島津家のなせる技なのだろうと想像する。重富海岸をはじめ平野部に松原が残るのは、島津家が塩田開発のため防潮林の機能と火力を頼ったためと言われており、松原は自然環境と人間社会と地域経済の循環の中に大きく存在していたのである。

指宿から開聞岳の周辺は、とても広々とした風景でおおらかな気持ちになれる。日が暮れてきたので、せっかくだからとすぐに行ける距離にあった日本最南端のJR西大山駅に行ってみると、プラットフォームと夕日に光る単線の向こうに開聞岳のシルエットが浮かぶとっても魅力的なビューポイントであった。ここは青春18きっぷの撮影場所でもある。

日没まで駅で過ごし、日帰り温泉を検索して近くの徳光温泉へ行ってみると、なんとも味わい深い昔ながらの温泉銭湯。これまで行った銭湯の中で最も味わい深い場所と言える。洗い場にシャワーはなく、源泉と水の蛇口が別々にあり洗面器を使って温度調整をする要領である。更衣室のロッカーはボックス式で鍵はかからず入浴料は120円と極めてお安い。お風呂屋さんに聞くと今日は26日のお風呂の日だからとのこと。普段150円だというがそれでも安い。またご利用くださいと言ってもらえたのがなんだか嬉しかった。

 

瀬平公園(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9月27日、11日目。最終目的地の吹上浜へ。

 

朝焼けの起床。気温が高いままの夜だったので、見晴らしがよくて風も抜けやすく、施設も清潔な「道の駅いぶすき」で車中泊。昨日から気になっていた、開聞岳と遠方に松の海岸林が臨める日本最南端の西大山駅近くにある踏切の撮影にこだわってみる。

いよいよ東シナ海に面した「吹上浜」に至る。圧倒的なスケール感の松による海岸林で、これこそ松の樹海と言える。いつもの通りgoogle mapで欲しい風景が得られる可能性を感じた場所へ向かう。「吹上浜海浜公園」から細い道を進むと少し高台になった砂浜に至る。真夏のような気温と陽射しのもと、ここからの眺望が惚れ惚れするほどのスケール感があるのだ。引き潮の時間帯だったため大きな地紋が広がり、ますますその印象を強めていた。

次に向かったのは「入来浜」と隣接する「赤フン海岸」。特に「赤フン海岸」が撮影に没頭できるポイントであったが、今日はこの猛暑のもと鹿児島大学の学生たちが測量の実習で賑やか。すると、お会いする約束をしていた「森と木の研究所」代表理事の大坪弘幸さんから電話があり、たまたま撮影していた入来浜がお会いするのに都合がいいとのこと。なんとこの入来浜は、大坪さんたちの活動を理解するには一番わかりやすいそうだ。吹上浜は南北約47kmもあるので、たまたまここで撮影していたことを驚かれていた。

入来浜の近くにある「吹上浜渚のあま塩館」がとても気になり、ランチ用に各種の塩パンを購入してから大坪さんにお会いするとさらに驚かれてしまった。どうやこの塩パンは、ここで製塩しているあま塩で抜群に美味しいとの評判で、大坪さんも奥様に必ず買ってきて欲しいと言われており今日も買って帰るとのこと。この撮影プロジェクトは、素直な気持ちで前進することで、天気も風景も人との出会いも全てが好転しており、これもそんな事象の表れのではないかとやわらかい気持ちになる。

大坪さんは、鹿児島県の職員の時代から森林保全を仕事とされていて、吹上浜でマツクイムシの被害が一気に広がった際に対応したこともあり、退職後の2011年にNPO法人を立ち上げご自身の思いのままに行動できるようにされた。メンバーは、設計士、プレカット工場、土木関係など、この団体に必要なスキルを持ったメンバーで構成されており、まさに専門家集団なのである。しかし自分たちだけで活動するのではなく、必ず地域の住民主体になるように対話を行い、あくまでも専門家集団として協働支援するという方法で行っている。

大坪さんが県の職員時代に、熱血上司の方と20年かかって商品化したという抵抗性黒松「スーパーグリンさつま」。これは全国から3万本の苗を集め、テストを繰り返して母樹を選定し、そのタネを商品として扱っているという。宮崎の林田樹苗に続き、抵抗性マツについてインプットを受けた。各地で様々な人が奮闘しているのだ。

ここ入来浜でも、その抵抗性黒松の植樹、シャリンバイなどの常緑樹の植樹、雑木などによる風除け、県産材を使ったベンチが松の木陰にあり、若宮神社がある高台にはガッチリと設計された県産材による見晴台がある。確かに入来浜に来れば大坪さんの活動が手に取るようにわかるのだ。

その松の木陰にあるベンチに座り、大坪さんと話していたら家族連れが木陰を求めて来られたので、席を譲ると大坪さんが「松の木陰のベンチを求めて来られたのでぜひ撮影を」と耳打ちされる。大坪さんは、このような使われ方を期待して活動されているのでなるほどと気持ちが伝わってきたので声をかてみると、ようやく得た涼風だったからか笑顔でお返事いただき撮影させてもらった。松の木陰での素敵な笑顔。大坪さんが求める笑顔である。確かに、この写真はこのプロジェクトにとって大切なエッセンスとなるだろう。大坪さんに感謝である。

若宮神社に設置された見晴台には、県産材の杉を使い鹿児島県と日置市の助成を受け、入来浜自治会と森と木の研究所の協働によって設置されたと看板にある。この見晴台で大坪さんのポートレイトを撮影したが、吹上浜で一番幅があるエリアが背景となった。この辺りの松原はなんと海岸から約4kmの幅があるらしい。

大坪さんと最後に足を運んだのは吹上浜中原地区の海岸。ここは1978(昭和53)年にカップルが北朝鮮に拉致された現場である。今は平和に若いグループや家族連れ、老夫婦など多様な人が思い思いに集まっている。大坪さんと波打ち際まで出ると、遠く松原が海岸近くまで伸びているのが見えたので、かなりの距離であったが二人で語り合いながら歩いて近づいてみた。

吹上浜の白い砂に幾重にも波の作った跡があり、ゴミらしいゴミがなく落ちているもので目立つのは貝殻。そして遠景には人工物が見当たらず理想的な白砂青松と言える風景が広がっている。普通ならあって当たり前のように佇む護岸を固めるコンクリートや消波ブロックがない。全く自然のままの地形で波によって削られた土手があり、その上を這うように広がる海浜植物と背後に広がる松原。思わず「美しい!」と連呼しながら撮影をした。このような風景を探して旅をしているのだ。この興奮を文字にするのは難しい。撮影も手が心なしか震えている。

大坪さんもここまで歩いたのは初めてとのことだったのでポートレイトを撮影。車を止めたポイントまで再び語り合いながら波打ち際を歩いたが、その時間のなんと豊かなことよ。大坪さんがなぜ退職後に非営利法人を立ち上げたのか、熱き思いが海風に乗って伝わってくるのだ。真夏のような快晴の青空のもと、誰もいない巨大な風景の中でお互いに松に対する熱き思いを海風に乗せて語り合えた時間。とても得難いものであった。生涯忘れることができないであろう。

大坪さんとは再会を約束してここで別れ、今日の日帰り温泉と食事と車中泊の場所を特定してから日没まで赤フン海岸で撮影。日が沈み、風が涼しくなり、誰もいない砂丘から松原の上に月の出を眺める至福の時間。今日の日帰り温泉は吹上温泉にある「ふくずみの湯」でアルカリ単純硫黄泉で肌はスベスベで疲れもすっかり癒すことができた。願わくば、吹上浜の駐車場で車中泊をしたかったのだが、拉致被害の看板があまりに生々しく感じられ、吹上浜のすぐ背後にある国道沿いの「道の駅きんぽう木花館」の駐車場に向かった。

 

吹上浜(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9月28日、12日目。吹上浜から志布志へ。

 

広大な吹上浜を北上し、日置市の北側にあるシラス崖が屏風のように連なる江口蓬莱まで行く。約47kmの吹上浜で風景としての魅力を感じた松原は、やはり入来浜周辺で特に赤フン海岸からの眺めが印象深い。松林を抜け海へ向かう小径。砂浜と松原が一望できる丘からの眺め。それにしても赤フン海岸の地名が気になるが、ネットで調べても明確な理由は分からずだが、2013年に始まった赤褌祭りの会場だからとの説をここでは記しておく。それと、大坪さんと歩いて見つけた小野川河口周辺の波打ち際からの眺めは格別であった。

ちなみに、2018年に発表された論文「The State of the World’s Beaches」によると、世界の不凍海岸線の31%が砂浜だと判明している。世界の海岸線の長さは、CIAウェブサイト「The World Factbook」によると356,000kmあるとされ、海岸線の長さの国別ランキングのtop10は、カナダ、インドネシア、グリーンランド、ロシア、フィリピン、日本、オーストラリア、ノルウェー、アメリカ、南極大陸である。

国土交通省の令和3年版の「海岸統計」によると、日本の海岸線は35,277kmあり、その13%の4,651kmが砂浜で、そのうち背後に保安林があるのは砂浜の長さの34.7%の1,662kmとなっている。もちろん海岸林だけでなく、内陸の巨樹や松に関わる縁も対象としているが、どうやら日本各地に伸びる総延長1,662kmに被写体を求めて旅をしているともいえる。吹上浜のダイナミックな海岸風景を眺め想いを募らせる。

さて、今回の撮影取材はここで気持ちよく切り上げ、志布志のフェリーターミナルに向かう。30日には帰宅する必要があるがギリギリまで撮影時間を確保するためフェリーを利用することとした。志布志を17:55に出発すると大阪には翌朝7:40に到着。寝ている間に陸を走れば約900kmを進むことができる。乗船早々に風呂に入り、食事をして9時には就寝。出航してすぐに電波環境が厳しくなり、朝4時ごろ紀伊水道に入ったら接続可能になった。

 

9月29日、13日目。大阪南港に着岸。

 

大阪南港から西名阪自動車道で奈良市へ。「入江泰吉記念奈良市写真美術館」で開催中の百々俊二の写真展を観る。博報堂関西支社時代に大阪写真専門学校の夜間部に通ったのだが、その時の校長先生が百々さんだった。卒業制作の評価では写真がまだまだ甘いと、周りの担当の先生を差し置いて厳しくご指導いただいたことが今も頭に刻まれている。また、震災後に撮影した作品を展示した大阪での個展会場に足を運んでいただき「ビジュアルアーツギャラリー」での企画展を決めていただいた。すっかりお世話になったままなのだ。

写真学校の卒業後は、百々さんが発表された作品は欠かさず観ていたつもりだが、デビュー作から現在までの作品を一気に観るのは当然ながら初めてである。圧倒的な写真家人生。グイグイと地域を歩き、時に8×10という大型カメラで、静かでありつつ、鋭く被写体を見抜いてシャッターを切る呼吸は、百々さんの自然体のなせる技なのだろう。全く指向する世界観は違うが、被写体との向き合いや距離感など学び多き展示である。まだまだ甘いぞと言ってもらったように感じる。

日没後に自宅に到着。10年ぶりに開催のサザン茅ヶ崎ライブ2023は、今日は中日の休みとあって混雑もなくスムーズ。最後の最後まで、とても順調に過ごすことができたというか、たとえば欲しい時にだけ雨が降るという恵まれすぎた撮影取材の旅であった。旅で出会ったすべての人、すべての松、すべての風景に感謝。

明日から2日間はライブで大変なことになるので、夜の散歩で徒歩5分のところにあるライブ会場に行った。ここは松林に囲まれた野球場なのだ。翌朝、10年ぶりのサザン茅ヶ崎ライブ会場となった松林を撮影しておいた。我が人生そのものが、松を探求する旅となってきたようだ。

 

(九州紀行第2弾(1)芦屋釜と元寇防塁を知る編へ続く)