(九州紀行第2弾(2)松葉の堆肥化を学ぶ編より続く)

 

10月21日、8日目。日本で唯一の特別名勝に指定された松原

 

夜明け前に起床し明るくなると共に、いよいよ日本の三大松原で日本で唯一の特別名勝に指定された松原である「虹の松原」の撮影である。松原に数カ所ある駐車場を起点に歩くこととし、まずは「森林浴の森公園」の駐車場に停めて歩き始めて早々に樹齢を重ねた松たちに迎えてもらえた。

9時に「国民宿舎」の駐車場で、松原の保全活動の事業受託している「NPO法人唐津環境防災推進機構(KANNE)」理事長の藤田和歌子さんとお会いする約束。早速、周辺を歩きながらお話を伺うが、何より冒頭、今は秋の松露シーズンといって探し始めるではないか。これだけ松原の撮影をしているのに、松露は思い出話で聞くだけで見たことがないため興奮状態となるが、残念ながら今日も縁がなかった。

「虹の松原」は長さ約4.5kmあり、昔は二里の松原と呼ばれていたのが転じて「虹の松原」になったと言われている。幅は約500mで面積は約214haある。唐津藩初代藩主の寺沢広高が防風防潮のために黒松を植林したことが始まりとされている。この「虹の松原」でさえ、高度経済成長と共に置き去りにされ荒れてしまっていたが、昔を知る人々が立ち上がり2006年にKANNEが設立された。2007年に林野庁の「虹の松原保全・再生対策基本計画」が策定され、団体や個人の活動を推進するため唐津市長が会長を務める「虹の松原保護対策協議会」において2008年に「虹の松原再生・保全実行計画書」が策定され、KANNEはその実施母体となって多くのボランティア活動をマネジメントをしながら、多様なアイデアで松原に関心を持つ人を増やす活動を行なっている。若いボランティアが命名した松樹の位置もわかる「ふらーり虹の松原マップ」が撮影でも頼りになった。

ここで、「虹の松原再生・保全実行計画書」の第1章虹の松原の概要にある「虹の松原の変容」から引用する。

「虹の松原は、江戸期から明治期にかけては、マツの生長とともに緑の色彩が強まり、松葉掻きが行われていたことから林床は白く、その調和による景観が形成されていた。大正期から昭和期にかけて、その景観価値は高まり、緑のマツの色と白い砂の色の対比(白砂青松)、マツの樹間越しの沖合いの島の景観、マツ林の湾曲形状の俯瞰、奇形を呈したマツの樹幹と枝振りが評価されるようになった。しかし、昭和30年代前半以降、燃料革命と生活様式の変化により、松葉掻きが行われなくなると、紅葉樹や草本類の侵入・繁殖が始まった。このため、色彩と調和と樹間越しの景観が失われ、マツ林の湾曲形状の俯瞰とマツの樹幹と枝振りのみが今日の景観価値となっている。」(「虹の松原における松林の景観価値の生成に関する研究」渡辺、2005、日本沿岸域学会)

これは「虹の松原」に限らず、全国の松原の変容を見事に描き切った文章である。多くの人にこのことを理解してもらい、松という樹種は人の手が入らないと滅んでいくということ、松原は明るく下草がない清潔な状態が健全であるということを知ってもらうことが、日本における一つの大切なSDGs達成に向けた第一歩なのである。

この虹の松原保全・再生対策に向けて、佐賀大学海浜台地生物環境研究センターの田中明さんが2007年に記した「虹の松原保全・再生対策の基本方針について-白砂青松再生100年計画-」が現状把握と再生事業に向けたポイントが非常にわかりやすい。この中でゾーニングについて解説されている。

保全実行計画の肝となるのはこのゾーニングで、海側は松の単層林、内陸は中下木に広葉樹か松の稚樹が散見されるエリア、最も内陸の縁となるエリアは松を駆逐した広葉樹となっており、海側を徹底して松葉かきができる白砂青松を目指している。この作業をアダプト方式を活用し多くの企業・団体の参加を実現している。この取り組みはKANNEの「虹の松原再生保全活動」のページを見ると非常にわかりやすく説明されているが、これまで各地で教示いただいた松原再生計画の中で、組織体制の実施状況や活動の幅広さなどを踏まえると最も充実したものだと感じる。やはり松原唯一の特別名勝である自負と責任がこの行動に表れているのだと感じる。もしかしたらこれを題材に全国の松原保全に関わる人たちとのネットワーキングと情報共有により、再び日本中の松原が地域の経済循環の一部となって社会基盤のポジションを取り戻すことができるのではないか。時間はかかるかもしれないが世代を超えてこの思いを共有する妄想を抱き続けることを諦めなくていいのではないかと素直に感じた。

さて、松原の中に「虹の松原」にちなむ「松原おこし」の麻生本家があり、藤田さんと一緒に4代目の麻生節子さんを訪ねる。やはり話は松露から。地面に埋まった白い松露を「米松露」地面から出てしまって茶色くなったのを「麦松露」といって、子どもの頃は花カゴいっぱいに松露を取ったが、できるだけ「米松露」を探してばら寿司にして食べたという。新たな食し方である。お店の横にあり道路沿いで存在感を放っていた「大老の松」が枯れてしまって伐採後が残るのだが、その「大老の松」の実生発芽の苗が成長する様を我が子のように語る麻生さんの笑顔が素敵で、松への想いや愛情がとにかく深いのだ。

肝心の「松原おこし」だが、これはなんと太閤秀吉まで遡る。この時代に松原があったということなのだが、松原を通り休息した折に、近くに住む鏡大宮司の娘が糒(干飯)に黒糖を混ぜ合わせたものを献上したところ殊の外喜んで賞味されたことが起源とされていると、麻生本家「松原おこし」を包む薄紙に書かれている。ちなみに「松原おこし」は、干飯を煎り松の花をイメージし、それに水飴と生姜を入れて松ヤニのイメージを作り、松の幹をイメージして黒糖をまぶし、切って山型に積み上げるのは、虹の松原を俯瞰できる背後にそびえる鏡山をイメージしているという。この「松原おこし」はここ周辺でしか買うことができない。お店は元日以外は営業されているようで、「虹の松原」愛に溢れたお菓子なのである。

この旅では、多くの個性的な松樹たちとの出会いも気分が上がるが、訪ねる先々で松をこよなく愛する人々と出会えるのが嬉しいし、何より撮影取材を継続するエネルギーをもらえる。やはり思いを共有できる人との交流を重ねることが、物事を持続可能にしてくれることを実感する。

今回の旅に出ると、茅ヶ崎館の館主の森さんから佐賀に行ったら必ず「洋々閣」を訪ねてほしいとメッセージが入っていたので、森さんに訪ねる旨の連絡をしてもらい午後に伺った。明治からの家族経営で伝統を守り通してきた素晴らしい宿で、松にこだわった日本庭園で五代目の大河内正康さんと語り合う。するとそこに四代目の大河内明彦さんも来てくださって親子に挟まれてお話を伺う。美しく手入れされた松の中には樹齢450年になるものもあり、虹の松原に隣接する日本旅館としてのこだわりを感じる。

明彦さんには、庭を見ながら縁側に座りお茶までいただきながら、これまでのゲストブックを見せていただきインバウンド受け入れの先駆者の話を聞かせていただいた。箱根宮ノ下の富士屋ホテルでホテルマンを経験した話も伺うなど、古き良き時代の香りを楽しませていただいた。宿泊客でもない車中泊の無名の写真家にも関わらず、また大変にお忙しい時間帯にも関わらず、丁寧にお話をしてくださったこと自体に感謝である。

夕方の日差しを受ける松原を俯瞰してみようと鏡山の展望台に上がって見下ろしてみると扇状に羽を広げたような松原が一望できるのは気持ちがいい。これも「虹の松原」の魅力を倍増させる重要なポイントであることを理解する。その後、再び松原に入り撮影をしていたら、俯いて何かを探している女性がいるなと思ったら藤田さんだった。声をかけると、なんと松露を探してくださっていたというではないか。しかしやはりまだ縁がないようで見つけられなかったが、そのお心遣いに感激である。日が暮れて撮影も終了。明日の日曜は多くのボランティア活動があり、KANNEの初代の理事長の宮崎さんにもお会いできるというので、これはありがたいと撮影のお願いをさせてもらった。

夜ご飯に思わず「唐津バーガー」を買った。この「虹の松原」の駐車場で40年続いている。ランチはとても混雑していたので諦めていたが夜はガラガラだったので引き寄せられてしまった。

「松露」について、大阪浜寺の「松露だんご福栄堂」のサイトにわかりやすくよく調べられた解説があったのでここに転載する。全くの余談だが、全国の松にまつわるお菓子を把握したい、と思った。

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松露(ショウロ)は、松林の地中に発生する卵形のきのこである。皮は最初は白いが、しだいに褐色になり、触ると赤く変色する。肉がまだ白いものは米松露、淡黄褐色に変色したものは麦松露と呼ぶこともある。それ以上成熟して中が変色したものは食べない。また成熟すると一部が地表に現れることもある。美味のきのことされ、古くから食用にされてきた。中国の菌譜(陳仁玉、1245年)には、麦蕈の名で「渓辺の松の砂壌土中に多く生える。俗に麦丹蕈ともいうが、(名前の由来は)よくわからない。味は殊に良く、きのこの中で最も優れている。」と載っている。日本でも江戸時代頃からの文献には、必ず登場している。菜譜(1704年)には「松林の白砂に生じる。二色あって、そのうち白いのが良い。茶色は次である。春秋冬に生じて、暑い月には生じない。毒は無いが新しいのが良く、日を経たのは悪い。新しいものを日に乾したり、あるいは塩につけても良く、遠方に送ることができる。」とあり、和漢三才図会(1713年)には「傘、柄はなく、形はむかごに似ていて円い。外側は褐色で内側は白く、肉は柔らかくて脆く、味は淡泊で甘く香りがある。傘のまだ開かないマツタケの風味に似ている。」とある。ショウロの成因について本朝食鑑(1695年)では、「松の津気が凝結してできたもので、それで松露というのである。(中略)茯苓(ブクリョウ)のまだ年を経ていない幼稚なものだと言われている。考えると茯苓は伐られてから多年を経過した松根の気味であって、抑欝がまだ絶えず、精英がまだしずまらず、精気の盛んなものが外にもれて茯苓となるのである。すると松露は小茯苓と呼んでよいだろう。」としている。興味のある栽培のことだが、ショウロは菌根性きのこのため人工栽培ができない。土壌に炭を入れるとショウロの生育に良いとされるが、量産には至っていないようだ。さてショウロはだんご形のきのこであることから腹菌類に所属させているが、最近のDNA解析技術の結果、アミタケにとても近縁であることが判明した。進化の過程で、地下にきのこをつくるようになったとされている。このようなきのこは、他にも多くが知られていて、ヨーロッパで人気のあるトリュフ(西洋松露)はチャワンタケのなかまである。これらのきのこが、なぜ地下生化したのか解明されていない。

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虹の松原(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

10月22日、9日目。虹の松原で地球を一皮むく

 

今日も夜明け前に起床し明るくなると共に撮影開始。モノクロで柔らかいグラデーションで表現したいため、松原に太陽が差し込まず光が回る時間が貴重なのである。

8時半に虹の松原の中間あたりにある公衆トイレがある駐車場で、虹の松原の保全再生の先駆者である宮崎孝則さん、宮崎千鶴さんご夫妻とお会いする。ボランティアグループ「ホワイトブルー虹」の白砂青松への清掃活動がある。KANNE理事長の藤田さんが宮崎さんとのお引き合わせのためお休みにも関わらず参加くださった。地元メンバーの方が次々とお越しになり集合写真。このKANNEのブログはその時のものだ。

作業が始まると、ウズウズしてきたので軍手を借りて手伝い始める。地を這う蔓草などを剥ぎ取っていくが、しっかり根を張っている草もあり鋤(スキ)で剥いでいく。確実に根も抜かないとすぐに成長して砂地にすることができないのだ。この作業のことを「地球の一皮剥いていく」と声が上がる。なるほどである。こうして地球の一皮を剥いて良い地球にしていくのだ。昼前にお茶休憩。その雰囲気が良かったので撮影。みなさん楽しくて明るい。このタイミングで抜けさせてもらい撮影に向かう。

強い日差しが差し込む松原の撮影は極めて難しいが力強い松の姿を強調して収めることができる。しかしながら、被写体となる巨樹たちが佇んでいても、その光の当たり方次第で撮影できないことが多い。なかなか難しく集中力(精神的体力と肉体的体力)を要する。これは撮影の積み重ねによって乗り越える技を身につけることも出来ると思うと、修行そのものと言える所以なのである。しかしこれは苦行ではなく楽しい修行で喜んで行っている。真夏は熱中症対策が欠かせないが、この季節は心地良くなってきている。

気分転換にと、先日、宗像大社で駆け足で観た神宝館特別展「国宝と現代の名匠 三右衛門」で気に入った中里太郎衛門さんの松の絵柄の作品を探しに、唐津駅周辺にある唐津焼の中里太郎衛門窯に行ってみる。大皿や壺にダイナミックな松の絵柄があったが、意外と手頃な価格で松の絵柄が入った湯呑みを買う。独特の絵柄で縁起のいい「根引松」というらしい。

夕方の日差しとなり日没に向けて再び松原で撮影。これだけ広く樹齢を重ねた松たちが折り重なるように遊歩道に佇むと、その迫力や広がりの表現に大いに悩む。一本の迫力と全体の構成、これを1枚で表現することの難しさをまだ超えることができていないように思う。修行が足りない。

明日は、先日日程が合わなかった岡垣町「三里松原」の撮影取材のため、日帰り温泉は宗像市にあるダイワロイヤルホテルの「玄海さつき温泉」に入ることとして一気に向かい「道の駅むなかた」で車中泊とした。

 

 

集合時間にいらしたホワイトブルー虹のみなさん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(九州紀行第2弾(4)芦屋から芦屋へ編に続く)