松韻を聴く旅 いよいよ北海道(2)
1月22日 江差に至る
新冠町から夜明けとともに走り出す。海沿いを走る廃線となった日高本線の鉄路を気にしながら日高道に入りしばらく走ると牧場が広がる風景の中にアカマツが並ぶ様子が目に飛び込む。次のインターで降りて場所を特定して向かう。日高大洋牧場であった。広大な敷地がどこも美しく手入れされ愛情たっぷりの環境の中で競走馬を育成しているようだ。そんな風景の中にアカマツが佇んでいるのが嬉しい。
道央道を一気に進むと曇天から雨が降り出す。意気消沈する。雪ではなく雨である。積もっていた雪がみるみる溶けていく。北海道の冬らしい作品を撮りたいという気持ちが不可抗力により消えていく。落部インターで降りて八厚やまぶきライン道道67号で江差町に日没前に入り「土方歳三嘆きの松」に着く。ここまで新冠から350kmほど。北海道は広い。綺麗な洋館の旧檜山爾志郡役所 (江差町郷土資料館)を背景に嘆きの松を撮っていたら雨がボタン雪混じりになる。今夜は少しでも良いので雪が積もって欲しいと願う。
恒例の日帰り温泉は上ノ国町にある町営の「花沢温泉」。泉質はナトリウム炭酸水素塩・塩化物温泉、源泉は59.2℃の掛け流し。少し白く濁っていて滑り感がある。施設も新しく湯船は内湯は40℃と42℃、露天はもう少し高め。とにかく快適な温泉で200円にはびっくり。お気に入りにランクインである。
道の駅上ノ国もんじゅではしきりに雨が降っている。
旧檜山爾志郡役所の前に佇む「土方歳三嘆きの松」(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
1月23日 雨とカメラトラブルと
夜明けとともに上ノ国漁港からの眺望を撮影と思ったら、なんと2台目のCFV II 50Cのモニターが反応しないトラブル。撮影不可となってしまった。茫然自失とはこのことをいうのか。昨日の日没前に土砂降りの雨の中を撮影した際に雨が侵入したのだろうか。思い当たる原因は他にない。もしものことを考えて今回の撮影に合わせて急遽ユーズドで購入した3台目のCFV II 50Cに助けを求める。もうあとはない。今後は吹雪はもちろん小雨でも濡らしてはダメだと考えざるを得ず撮影そのものに不安が付きまとう。吹雪の中で撮影して得た作品は多いのだ。
初めての北海道の撮影取材の旅は、雪ではなく雨が降り加えてこの機材の不具合とダブルパンチ。この中で納得のできる作品を探求する。江差町の中心部から北に向かうと「砂坂海岸林」が広がる。これを海岸線から広大な風景として捉えたいのと、海岸林の背後に広がる農地を俯瞰で捉えたいと考え撮影ポイントを探した。この「砂坂海岸林」は、日本緑化センターの資料によると、江戸時代は自然林が広がっていたがニシン豊漁の明治初期に伐採され明治中期には丸裸の砂地となり、冬のシベリアからの烈風が砂を巻き上げ平地の奥へと運ぶため、田畑は荒廃し70軒ほどの集落は移転を余儀なくされた。昭和9(1934)年、砂丘化した場所は国有林となり防砂林の基礎調査と試験植林が始まるが造成は困難を極める。しかし先人の苦労が実りクロマツの美林が維持され砂の害もおさまって田畑もよみがえり、離散した集落も戻り穀倉地帯へと発展したとある。
北前船で賑わった江差の港はかもめ島の存在抜きには語れない。島には松が見えたので空振り覚悟で向かうが思うような撮影アングルは得られず。日本遺産に指定された江差は松前藩がおさめ幕末の歴史が色濃く残り、北海道には珍しい命名松がある。昨日撮影した「土方歳三の嘆きの松」の他に「慶喜の松」と「芯止めの松」が地図に示されているので向かう。
「慶喜の松」は砂坂海岸林の近くにあるが、ほとんど整備されておらず撮影は厳しかった。この松は、江戸時代末の松前藩家老蠣崎蔵人が、江戸幕府15代将軍徳川慶喜から拝領した松だと伝わっている。
「芯止めの松」は江差町の観光情報にも記されていたので期待して向かう。看板によると、新政府軍と旧幕府軍の武士が愛宕神社前の街道で斬り合いになったが、勝っていた方の武士が「お互いに何の恨みもないのだから、無駄な殺し合いはやめよう」と路傍に生えていた若い松の頭を切り悠然と立ち去っていったことから、この松は「首切りの松」とも「芯止めの松」とも呼ばれている。
明日の取材先である七飯町に夕刻に着きたいと考えていたが厳しい時間となった。「芯止めの松」が佇む道道5号江差ー木古内線は天の川に沿って走る。とても整備されていて集落も点在するので驚いていたがよく見ると道路にそうように廃線が走る。2014年に廃止された江差線である。この鉄道によって山深くとも生活ができていたのだと理解する。とても良い風景の中に赤い鉄橋が残る。松があるわけではないが思わず撮影したくなる。日が暮れ始め、木古内に近づくと松のシルエットが目に入り始めるのが気になった。道路と距離を置いているが並行するように松が続くのをみて海風から鉄路を守る鉄道林の名残だと思えた。
恒例の日帰り温泉は七飯町の「ななえ天然温泉 ゆうひの館」。泉質はナトリウム・カルシウム・塩化物・硫酸塩泉(含石膏・食塩泉)、源泉は62.5℃で掛け流し。
砂坂海岸林と背後に広がる田畑(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
1月24日 北海道の赤松街道
7時半から行動開始。赤松街道である。七飯町から函館にかけて14.3kmに1,000本以上のアカマツが佇むのは壮観である。しかし雪がない。加えて雨が降り出し赤松街道を視察がてら走り続けると五稜郭まで来てしまう。近くの駐車場に停めていると牡丹雪になってきた。箱館奉行所の周りには大きなアカマツが何本も佇む。七飯町の赤松街道より少し前に植林されたものだ。しかし雪がない。降り続く牡丹雪に期待してシャッターを切る。
赤松街道は国道5号線でもあるため交通量は多いが赤松公園周辺がアカマツの詰まり具合が良くここに定めてアングルを求める。しかし雪がない。15時半に七飯町役場で環境生活課自然環境係の古矢悠太さん、七飯町歴史館学芸員の山田央さん、「赤松街道を愛する会」会長の澤田考平さんにお会いする。
七飯町は天正年間には和人が暮らし始めており、アイヌのコタンはもっと北にあったと考えられている。ちなみに知内温泉は開湯800年である。17世紀から18世紀にかけてロシアなどの外国船が姿を現すようになると、松前藩だけでは防衛することは厳しいと考え、寛政11(1799)年に幕府は箱館奉行を設置し直接管轄するようになった。幕府は漁業だけでなく農業による内陸の開発に力を注ぐ。七飯町、函館市、北斗市は一つの扇状地の中にあり、五稜郭にあった箱館奉行によって治められた幕府直轄の地だったのだ。
七重村在住の農民である倉山卯之助が、文化5(1808)年に官地を借り受け、スギ・マツを育成し始める。育てた苗木は箱館山に植栽して北海道の植林事業の先駆けとなる。箱館奉行所は幕府直轄の農園「七重村御薬園」を設け苗木の他に薬草を植えた。一説には函館に洋式の病院建設の計画があったためと言われている。
江戸末期の安政5年(1858年)に当時の箱館奉行組頭、栗本瀬兵衛が佐渡からアカマツの種子を取り寄せて育成し、まず最初に大きくなった苗を五稜郭周辺に植樹していたようだ。これは奉行所の威厳を示すためだったと言われている。その後、明治9(1876)年に明治天皇が七重勧業課試験場に行幸される際、まずお迎えする建物の周辺にアカマツ(落葉しない・神を待つ)を植林し、行幸された後で記念して札幌本道、現在の赤松街道と呼ばれる国道5号線沿いに五稜郭から相当数を移植したようだ。明治14(1881)年にも行幸され七飯町から函館に向かった際、明治10年以降に植えたアカマツ並木が天皇を迎えたと言われている。
このような北海道開拓を物語る歴史背景から七飯町の町の木はアカマツなのだ。町のシンボルとなっている。昭和20年代の七飯町では松葉かきをしてリヤカーで運んでいたようだ。昭和61(1986)年に「日本の道百選」に選ばれ、平成2(1990)年には道の日の愛称募集で「赤松街道」と名付けられ、平成8(1996)年には歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を持つ道路であることを示す「歴史国道」にも選定。そのシンボルであるアカマツも、保護が徹底される前には開発により減少したが、本数が多く最も美しいのは七飯町の大中山から鳴川町までの約2kmほどの区間のようである。
「赤松街道を愛する会」は、平成17(2005)年に前会長の寺沢久光 氏によって設立され、事務局が七飯町役場に置かれており、赤松街道を所有・管理する北海道開発局を含めた3者の連携で活動が実現されている。北海道開発局が予算を付けて管理する赤松街道を保全するため、国交省「ボランティア・サポート・プログラム」を利用した「こも巻き」や「こも外し」体験会を開催している。これに合わせて美化活動も行うなど、3者による官民連携の体制が整っているのだ。
七飯町役場のウェブサイトに「赤松街道を愛する会」のページがあり、市民による情熱的なステートメントが記述されているのはこの体制のなせる技で好事例と言えるのではないだろうか。また、沿道住民の要望や道路工事等で、アカマツの伐採・移植・補植等の必要が生じた場合、その措置についての意見を述べることもある。
恒例の日帰り温泉は七飯町健康センター「アップル温泉」。泉質はアルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)、源泉は54.4℃で掛け流し。肌がスベスベしたように感じる。
赤松公園から望む赤松街道(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
1月25日 函館の街路樹は黒松
今日は夜明けから始動。赤松街道に再挑戦。藤城地蔵堂の並びある旧家の前に佇むアカマツは他の街道松とは比較にならない太さと存在感。七飯町歴史館学芸員の山田さんの見立てでは明治9年の行幸以前のものだろうとのことだ。七飯町には天正年間から本州から和人が住み始めていたことを考えると、本州にある松の巨樹と同じように数百年に渡って守られてきたのだろう。もしかしたら故郷の苗を植えたのかもしれない。
朝日を受ける赤松公園からの街道松を眺め五稜郭へ。まるで春の装いだが良いアングルを探る。次に五稜郭から海に向かい湯川温泉にある黒松林へ足を運ぶ。ここ湯川地区は明治10年代に温泉浴場が開設し明治30年ごろには温泉保養地として富裕層の別荘が建ち並んだらしい。しかし津軽海峡から吹き付ける強い海風に砂が舞い上がるのが課題となり、函館の豪商である渡辺熊四郎が私財を投じ10年以上かけて造林を行い北海道最初の防風防砂林となった。函館市の石碑によると「明治22年から防風防砂のため、渡辺孝平氏が故郷の沼津から20万本のクロマツの苗木を船で運び苦労を重ねて植林したもの」とあり、その心境を「植えおきし われは冥土にかえるとも 千代まで栄え まつのみどりを」と歌に残している。
それにしてもこの雪のなさに途方に暮れるばかりだが、せっかく函館に来ているので、八幡坂周辺の観光エリアに松が佇んでいないかと思って探すと、とても美しい重要文化財の旧函館区公会堂にウツクシマツの樹形で佇むアカマツを発見。古い旧函館区公会堂の写真にはこのアカマツは存在しておらず、比較的近年に植えられたものだろうか。
意外だったのは函館の街路樹にクロマツが多いことだ。多くの観光客が目指す八幡坂の5本隣の護国神社坂の両側にもクロマツが並ぶ。それならばと市電が走る道路を探すと谷地頭駅に至る道は松であった。今日、海峡を渡って青森を目指すか迷いに迷ったが、明後日から雪が降る予報なので明日は休養日にして明後日以降に備えることにして北海道に止まることにした。ちなみに北海道内の自治体の木を調べてみたら、クロマツとアカマツを指定する自治体が複数あった。
北斗市:ブナ&クロマツ、松前町:マツ、七飯町:アカマツ、長万部町:クロマツ、厚沢部町:クロマツ。果たして七飯町のようにシンボル的な景観はあるのだろうか。
恒例の日帰り温泉は函館市の太平洋側にある「川汲温泉」。泉質はアルカリ性単純泉、源泉は46.1℃で掛け流し。2つの温度の違う湯船からお湯が流れ出している。とても感じのいい施設でゆっくり癒してもらえた。そのまま南茅部の集落に降りて先に行くと「函館市縄文文化交流センター」と道の駅が併設されている。周辺で出土した北海道初の国宝である「中空土偶」が常設展示してある。この「中空土偶」は1975年に函館市南茅部地区(旧南茅部町)で発見され2007年に国宝指定されている。
旧函館区公会堂とアカマツ(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)