松韻を聴く旅 七尾で等伯の松たちに会う
10月15日 七尾美術館で等伯の松たちを眺める
今年の2月に七尾美術館で長谷川等伯を研究されている北原洋子さんにお会いした。「なぜ等伯はあの松を描いたのか?」それを「北原さんはどう思われているのか?」この2つの質問をしたかったのだ。それに対して北原さんは「松の存在意義からの視点」「地域特性からの視点」「心象風景からの視点」この3つの視点で答えてくださった。詳細は2025年2月21日のブログに記している。「松韻を聴く旅」で撮り続けるコンセプトに重なるものがあり深く心に刻む大切な時間だった。北原さんとは同世代で同じ地域で生まれ育ったこともわかりとても親しみを感じたのだった。
その七尾美術館は、2024年1月1日の能登半島地震により休館が続いていたが、「七尾美術館開館30周年記念・震災復興祈念「長谷川等伯展〜帰ってきた国宝・松林図屏風」より再開館となった。9月20日から開催されていたのだが閉館1日前に観覧できた。開館直前には10名ほどの人が並んでおり多くの人は一目散に国宝「松林図屏風」に向かう。同じ展示室に重要文化財「老松図襖」があった。
「松林図屏風」は所蔵している東京国立博物館が毎年お正月に展示し撮影もできる。「老松図襖」は、南禅寺の塔頭の一つである金地院の茶室八窓席(小堀遠州作・重要文化財)に等伯の重要文化財「猿猴捉月図」と共にあり、事前申込や特別拝観で自然光の中で見ることが可能だが、太い幹が描かれた4面と長く伸びる枝が描かれた2面は部屋を分けて設置されているので6面続きでは見れない。それにそもそもこの絵は4面だと思い込んでいた。それが今回は「松林図屏風六曲一双」「老松図襖六面」が同じ展示室に並んでいるのだ。2作を同時に見ることができる機会はまず無いだけでなく全面を見る機会など次はいつ見れるのだろう。その状況だけでも感激した。
多くの人が立つ「松林図屏風」とは違い「老松図襖」にはほぼ誰もいない状態が続く。そのおかげで展示ガラスに鼻を付けるかの如く、右から左&左から右と何度も眺めることができたのだった。2010年に開催された「没後400年長谷川等伯展」のカタログに掲載されている「老松図襖」は4面。この時はまだ重要文化財の指定を受けていない。カタログ写真では見えていなかったが幹の手前に太い枝が根元から伸びている。そして何より見えてきたのは400年以上前に描かれた老松が襖の中では生きていたことだ。この絵全体は湿度を感じる柔らかな印象を受けるのだが、樹齢を重ねた幹が持つ独特の厚みと痛みの表現は乾いている。奔放に伸び疲れ果てたような枝もまだ生きている。根元に生い茂る笹は黒々と描かれ若い生命力を感じる。このコントラストが老松の樹齢を表現する助けにもなっているように感じるのだ。現物を見たからかカタログを見直してもそれが感じられるようになった。
それと忘れてはならないのが、等伯51歳の時に大徳寺三玄院の住職が留守の間に即興で描いてしまった逸話がある「松林架橋図襖」だ。この襖の特徴である雲母箔の剥落が甚だしく2年間の修復を経て2013年に公開されたもので、松林図に繋がる貴重な作品なのだが、これもやはり同じ部屋にあるのだ。「老松図襖」を右に左に見ては、「松林架橋図襖」と「松林図屏風」のわずか数メートルの間を行ったり来たりしたのは言うまでもない。等伯が描く「松」好きとしてはこの上ない幸せな空間となっていた。このような空間が次はいつ再現されるのだろう。果たしてされるのだろうか。もう二度と経験できないような気もする。
「松林図屏風」と「老松図襖」そして「松林架橋図襖」。この3つが鎮座する展示室で、幸いにも北原洋子さんにお会いできた。北原さんが大切にしているのは、地域の子どもたちに「松林図」を見せることなのだが、この時も地元の中学生たちに解説をされていたのだ。とても素敵なシーンに遭遇できたのだった。子どもたちへの説明を終えられて一人になったときに、挨拶をしてこの部屋の感激を伝えた。すると、「老松図襖はこれまで周年記念のたびに貸出の依頼をしたが実現しなかった。しかし今回は復興祈念だからなのか4面だけでなく6面の貸し出しが実現した」ということを教えてくださった。それに週末は1日で1,700人の入館があったそうだ。2月にお会いした頃にはすでに準備に取り掛かっていたが、ずっと全力で駆け抜けてこられたのだろう。撤収が落ち着いたらゆっくり休んでいただきたいと思う。
それとユニークな試みがなされていた。展示室から出たソファのある部屋の壁に「松林図」を反転させた図柄が壁面に展示されていたのだ。写真で言えばソラリゼーションの手法であり、とても写真的解釈ができる展示なのだ。これには魅せられた。後日、北原さんにこのこともお聞きしたいと思う。いずれにせよ長谷川等伯生誕の七尾で、これほど”等伯の松”に浸れたことは「松韻を聴く旅」において相当なる刺激を受けたことはいうまでもない。
さて、この日の撮影は夜明け前から七尾の松を探していた。和倉温泉の古い絵図には松しか描かれていない。しかし思うような松が作りだす景観はなく、旅の勘を働かせて七尾市の鵜浦海水浴場に向かうと数本の松のシルエットが美しく迎えてくれた。七尾美術館で等伯の松たちを眺めた後、再び鵜浦に立ち寄ってから千里浜に向かった。等伯の時代の松はないが、「松林図」を思わせる松林があるのだ。今日のようなクリアに晴れた日には思うような雰囲気のある写真にはならない。だが今日はどうしても眺めたくて足を運んだ。日帰り温泉は「千里浜なぎさ温泉 里湯ちりはま」で泉質はナトリウム塩化物泉、源泉50.3℃の掛け流し。とても良いお湯。

七尾市鵜浦(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
10月16日 能登の松たちに会いに行く
日の出前に移動開始。2月に雪化粧を撮影した機具岩とヤセの断崖に向う。機具岩の松は変わらず佇むが、ヤセの断崖の松が非常に厳しい。この夏のマツ材線虫病ででさらに数本が枯れ上がってしまった。震災復興が続く中で散布も樹幹注入にも手が回らないのだろう。能登金剛とうたわれた風光明媚な松が作り出す文化的景観が脅かされているのは心が痛む。2月には走らなかった海沿いの細い道を行くと能登らしい家並みに出会えた。志賀町赤崎だ。その背景につつましやかな松が数本並ぶ景観がありようやく能登家並みと松を狙えることができたのだった。ただしこの松たちにもマツ材線虫病の被害が及び始めていた。だからこそこの寄り道的時間が絶対に欠かせない。まだまだ掘り起こしを待っている松が作りだす景観が全国にあるのだ。この旅に終わりはないだろう。

ヤセの断崖(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
(へ続く)