(冬の東北紀行第1弾(1)いよいよ雪国へより続く)

 

6日目(12月22日)五能線と絡み合う深浦町の景観

 

雪雲が晴れ絶好の撮影チャンスと考えて、浅虫温泉の森林公園に隣接した国有林に育成している推定樹齢700年の「馬場山の赤松」にトライ。駐車場に車を止め、階段と思われる斜面を登り始めたら膝ぐらいまで雪に埋まり思うように進まず、倒木もあって前に進む気力が段々と削がれてしまい、誰でも登れるハイキングコースで数百メートルほどの距離だと思うのだが、初めての場所で一人で向かうリスクを考えて断念。必ず再訪する。

気持ちを入れ替え、明日の秋田での撮影取材に備えてJR五能線と絡み合う国道101号線に向かう。五所川原市やつがる市では吹雪の津軽自動車道を走る。深浦町に入ると積雪が多い割には降雪はなく寄り道だらけの移動となった。

「千畳敷駅」では、海が見える駅だと思って車を止めて振り返るとビックリ。駅の丘側は一面が氷壁で、その上に1本松が佇んでいるという願ってもない風景が目に飛び込んできた。まさにモノクロの世界である。

続いて道路に沿って老松が並んでいる光景が目に入り、車を止め看板を見ると「釜屋の森」とある。古くから塩の産地として知られ、江戸時代にはこの辺りに塩釜があって製塩されていたようで、この松たちはその頃から佇んでいたのかもしれない。

カーブを曲がるたびに、荒ぶる日本海と陸側の光景が力強く展開され、歓声を上げながらどこを撮影するか迷いながら止まっては走りを繰り返し、松もポイントになる風光明媚な弁天島などを通過してしまった。結局、最初の目的地である深浦町の「森山地蔵様の松」に到着したのは13時。NAVIの指示通りに寄り道せずに走れば10時半には着く予定だった。

この松は、深浦町の文化財に指定され、町の資料では、幹周6.15m、樹高18m、馬頭観音を祭る小堂が鎮座するとあり、地表50cmほどで3本に大きく枝分かれしている。道路から雪で埋まった畦道らしきところを歩いてできるだけ近づいてみると、とてもダイナミックな姿で感慨深い。青森の樹木医でもある木村公樹さんが「どうやら青森では三又の松は大事にされたので枝分かれした巨樹が多い」と言っていたのを思い出す。

「東北巨木調査研究会」のサイトに、東北地方の木こりやマタギの人たちは幹の途中から三本に分かれている「三頭木」は「山ノ神」が宿るとして伐倒しなかったとある。

「深浦町」を初めて走ったが、雪化粧した海沿いの景観や集落に松が存在感を発揮しており、単線で非電化の五能線の存在も魅力的で、本来あった日本の風景の縮図のようにも感じた。再訪したいと思う。このペースでは、次の目的地と考えている能代市に日没までには着けそうもないため寄り道をグッと堪えて先を急ぐ。

秋田県に入ったあたりから雪が降り始め、どんどん激しくなり視界も悪くなる。まだ15時過ぎだというのに日没が近いような薄暗さになって、前を行く車が徐行するからか交通量も増えてきた。雪が激しく降る中、なんとか撮影できる時間に能代市檜山地区の追分集落にある「羽州街道の松並木」に到着。

この松並木は、1681(天和元)年に佐竹藩が整備したもので、のちに補植を行ったとあるので現在の松は補植されたものだろう。推定樹齢は200年とされており、当時を今に伝えるものとして秋田県指定史跡となっている。背景は降りしきる雪で霞み、松たちの立ち姿は個性豊かで願ってもない撮影条件。Patagoniaの衣服を全面的に信頼して我を忘れて全身雪まみれになりながら撮影。

頭をよぎるのは円山応挙の国宝「雪松図屏風」である。雪の翌朝の明るい光のもとに描かれた印象を受ける屏風絵だが、写真の場合は背景を省略するには霧か降りしきる雨や雪を頼りたい。日没が迫っているが、光が暗がりにも行き届く今この時が絶好のタイミングと考えたのだ。完全に日没となり、ようやく安堵して撮影終了。撮影していた時間は16時過ぎからから16時半前の20分ほどで、もっと長く感じるとても濃密な時間だった。

早めの夕食を近くのお蕎麦屋さんで済ませて、恒例の日帰り温泉は「羽州街道の松並木」から30分程度の「森岳温泉ホテル」へ。忘年会で賑やかだったがお風呂は貸切状態。

森岳温泉は、昭和27年に石油採掘中の田んぼの中から突然湧き出し、長く秋田の奥座敷として親しまれてきた。湧出当時、八郎潟の干拓事業の時期であったことから、職人たちが労働の疲れを癒しに、あるいはその歓楽のため毎夜のように訪れ、毎日がお祭りのように盛り上がっていたそうだ。

泉質はナトリウム・カルシウム・一塩化物泉で日本でも屈指の強塩泉で「しょっぱい温泉」。源泉掛け流しで400円。心なしか体も浮きやすく、広い湯船に浮かんで来た。撮影で痛めた指先の肌の療養には最適の温泉だった。相変わらず吹雪く中、稲光が走り雷も鳴り出したが、明日の目的地に近づくため森岳温泉から15分ほど南下したところにある「道の駅ことおか」で車中泊。

車中泊の睡眠体制だが、車はセカンド&サードシートが完全にフラットになり、その上にMagniflexの「イタリアンフトンII」を敷くので自宅の睡眠環境とほぼ同じ。この上にテント使用で氷点下12℃が快適温度の「Snugpakスリーパーエクスペディション II スクエアライトジップ」で寝ると全く寒さを感じず目覚めも良い。

ひと晩エンジンを切っているので、寝起きに別電源で稼働するFFヒーターを25℃でタイマーは30分に設定し、着替えて朝ごはんを食べ始めてから出発に備えてエンジンを掛けてエアコンを入れる。そうすればウインドシェードを外す頃にはフロントに積もった雪も溶けている。

 

雪の中を佇む羽州街道の松並木(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

7日目(12月23日)炭やきで夕日の松原まもり隊!

 

今朝は秋田も地吹雪のような天候だが、のどかな道を走ってみたいと思い幹線道路から農道に入るとフロントガラス一面真っ白。突然目の前に対向車が現れるような感じで全く見えないのだ。これには雪道初心者として危険を感じ、できるだけ幹線道路か市街地を慎重に走ることにした。

9時半に秋田県立大学の秋田キャンパスへ。キャンパスは「夕日の松原」の中にあり、2002年から活動が続く「炭やきで夕日の松原まもり隊」の撮影取材。大学に入ってもこの天候だからかあまり人影もなく、事務局の本田隆志さんと電話でやりとりして迎えにきてもらえてホッと一安心。松原の中に炭やき広場がありすでに何人かの人が集まっていた。早速、事務局長で秋田県立大学森林科学研究室の星崎和彦教授と会長の佐々木隆さんからお話を聞く。

マツクイムシ対策は、根本的には薬剤の空中散布や地上散布、樹幹注入などで防除するのが主流だが、最も大切なのは、被害木をいち早く見つけ林内から早急に運び出し焼却して拡散を防止すること。佐々木さんや星崎さんの取り組みは、薬剤を一切使わずに自分たちで被害木を見つけ出して伐倒し、その被害木を単に焼却するのではなく炭焼きにして再利用をするというものだ。

松炭は、黒炭で柔らかく多孔質のため調湿脱臭効果に優れ、火力が強く火がつきやすく維持しやすい。また柔らかい特性から砕きやすいので土壌改良にも適しており、微生物の活性化を促し堆肥の熟成や悪臭除去など農作物の育成を手助けする。このように再利用材として多機能で優れているのが松炭といえる。

この周辺の松原では30年ほど前から被害が出始め、21年前に森林科学研究室初代教授の故小林一三名誉教授がこの活動を開始。佐々木さんは、定年前に小林教授に講演をお願いしてこの活動を知り市民ボランティアとして参加して以来の生え抜きのお一人。事務局を継承した星崎さんは小林教授のサポートをしていたが活動を重ねるごとに熱意が増していったという。

2019年には全国森林病中獣害防除コンクールで「林野庁長官賞」、2022年には秋田県知事「環境大賞」、そして今年2023年、循環型社会の形成の推進に資することを目的として2006年度より環境省が表彰している「循環型社会形成推進功労者等大臣表彰」を受賞されるなど、ここ数年で急激に行政から注目されているがロングランで筋金入りの活動なのだ。

2002年から始まったこの活動、毎年11月ごろからマツクイムシの媒介者となっているマツノマダラカミキリが成虫になる6月まで実施して3週間のサイクルで炭を作っているが、「通算200回」を超えた。今日も、この吹雪にも関わらず市民ボランティアでベテランの方から初参加で自己紹介される方、大学の研究室の学部生に院生も合わせて20名ほどが参加。大学には「炭をつくるサークル」があるのだ。

2005年には、この活動で実践している駆除方式を秋田県に提案し、現在では秋田県の海岸松林の松枯れ被害防除に適用され「秋田方式」と呼ばれている。この活動の成果として2010年ごろには被害を徹底して抑えることに成功し、これまでその成果を維持してきていた。

しかし、このところの明かな気候変動の影響による平均気温の上昇に伴うのか、マツクイムシと呼ばれるマツノザイセンチュウの媒介者であるマツノマダラカミキリが晩秋まで生きられるようになり、生き続ける限り産卵する性質を持つので、以前よりも増して媒介時期も媒介者も圧倒的に増えてしまい、被害が拡大し始めていると星崎さんはいう。

佐々木さんは、松林が生活の中にあったことを知る70代、80代の人生の先輩たちが中心となったボランティアの世代交代が課題だという。これは全国で耳にする話であり、高度経済の恩恵にあやかり松林に家庭の燃料を頼っていたことなど全く知らない60代である我々が、この危機感をどう自分ごと化して解決策を模索し次世代にバトンを渡すかが大きな課題なのだ。佐々木さんの行動はその模索の一つともいえる。

ここ数ヶ月巡ったこの旅で、これは何も「松」に限った話ではなく、日本の社会構造の課題を具体的に捉える機会だと気づいたので、まずは気づきの入り口として全国で「松」に関して取り組む人たちの想いを伝えたいと改めて考えるようになった。元来、この写真プロジェクトは「日本人と松」をテーマとし、その中でも松と人間の関わり方の象徴的な存在である「松原」での取り組みを大切に考ようと開始していた。「松原」は環境保全という上辺の理解と行動では解決せず、地域の「経済循環」の一つに組み込む根本対策を必要としていると考えていたためだ。

加えて、政府が旗振りしている「インバウンド」がさらに活性化してくれば、「松の国・日本」の観光資源として各地の「白砂青松」「松原」は欠かせない。何よりも「松原」は地域の暮らしを守る「社会インフラ」であり、官民や産学民が連携したボランティアはもちろん、産学が連携した経済循環、つまり松原に産業が入り、地産地消の資源としての活用と人材の雇用の場となる可能性を秘めているはずなのだ。

この「松韻を聴く旅」はそのヒントを探す旅でもあるのだ。つまり日本独自のSDGs「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の目標設定と、その達成に向けた解決策を探す旅なのだ。環境=松原保全、経済=資源循環、社会=防災減災、保養資源。地域の健康を増進し体力を強化することがSDGsの本質なのだ。夢物語や夢想家と言われても問題ない。良い未来は夢想しなければやって来ない。

さて、写真家としての旅である。前半の吹雪く中での撮影は苦労したが、とても雪国らしい人の動きを捉えることができたように思う。終盤は雲が切れて日差しが出て来てその効果を狙うなど動きやすくなった。参加した皆さんと一緒にお昼ご飯をご馳走になる。これが抜群に美味かった。今日もみなさんからとても親切に接していただき、松に関わる人たちは継続する強さと自然や人への優しさを持った人たちであることを改めて実感する。この旅では、どこに行っても嫌な思いをすることなく出会う人を好きになれる。

明日は「風の松原」で取り組む方の撮影取材のため、再び北上して能代市内へ。今回の旅で初めてのコインランドリーに行ってから夕食を食べ、恒例の日帰り温泉は、能代温泉「湯らくの宿のしろ」へ。泉質は「低張性アルカリ性単純泉」でヌルッとした水質で荒れた肌を癒してもらった。

車中泊は能代温泉から10分程度北上した八峰町にある「道の駅みねはま」へ向かい、毎晩の日課である24インチモニターを車内に設置してその日に撮影したデータの現像処理を行う。疲れから船を漕ぎながら作業して睡眠不足が続くが楽しくてやめられない。今夜も強風で大粒の粉雪がバチバチと窓に吹き付けてくるが雪国にいる実感が深まるばかりなり。

車内で使用するモニターは「EIZO ColorEdge CS2400R」で、移動中は折り畳んだフトンに挟み込み振動を抑える試みをして使用する際にモニターアームに設置する。これまで約20,000kmを移動し、雪国では相当ガタガタの道を走っているが今のところは快調である。これに「Macbook Air 13インチ」を接続してmac純正のキーボードとマウスを使うと自宅の作業環境とほぼ同じとなる。

電源は車から取ることもできるが、ECOFLOW「DELTA2」を活用ている。走行中に100%充電しておけば夜の作業やカメラ、スマホ、タブレットのバッテリー充電は余裕でこなせる。キャンピングカーそのものが災害対応となるが、このバッテリーも心強い存在である。

 

炭やきで夕日の松原をまもり隊(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8日目(12月24日) 風の松原からメリークリスマス

 

今日は秋田県能代市で活動されている「風の松原に守られる人々の会」会長の桜田隆雄さんと事務局の成田憲太郎さんに10時に「サン・ウッド能代」でお会いする約束。その前に2時間ほど「風の松原」を撮影散策。この地は2022年のGWに、このプロジェクトを構想するため初めて訪ね、松原の存在意義やその維持管理を現場で体感し資料で学んだ。

参考になったのは「風の松原に守られる人々の会」が2012年に発行した「守られて300年 この緑を未来へ」である。また「私たちの風の松原物語」では能代市で砂に向き合っていた暮らしを語っている。長きにわたる飛砂と向き合いで現代の能代市の安定があるのがわかる。

「風の松原」では、昭和に入って3つの団体が活動していたそうだが、桜田さんや成田さん達の会はそんな歴史を継承し2001年に設立され「林野庁官賞」など数々の賞を受けている。日本の五大松原にも数えられ、由緒ある団体を取りまとめるお二人からお話を伺うのを楽しみにしていた。

「風の松原」は、長さ14km、幅1km、面積764.6ha、約700万本の黒松からなる海岸防砂林である。1700年ごろに飛砂で住まいや田畑が埋まる被害が続き秋田藩が植林を開始。財力のある廻船問屋の越後屋や庄屋の越前屋も植栽。1800年ごろには藩士栗田定之丞や賀藤景林が防砂林を造営。

「栗田定之丞」は秋田藩の砂留役兼林取立役として海岸林の造成を成した人。砂丘に寝泊まりしながら徹底した観察を行い、古草履が砂留めとなって小さな苗が育成できていることを発見し、その後の植林事業を大成させたことを描いた「タダ之丞と古ぞうり」という物語が、1982年に出版された「保安林物語」の巻頭に記されている。特に秋田から山形にかけて冬場の半年間は強烈な西風が吹き飛砂の災いが続いた。その多くの砂丘地帯に各地で篤志家たちが財を投げ打ち人生を賭けて海岸松原を造成した。司馬遼太郎の「街道をゆく秋田県散歩」に詳しい。

今日は現在の活動のポイントとなっている植林地帯を案内いただき、歴史に名を刻む4人が植えたとされる松に案内してもらえた。老松たちは現在の松原の中ではなく、もっと内陸の住宅街の小学校や公園などに点在していた。つまり当時の松原は現在の市街地を含む約4kmの幅があったようだ。これに「風の松原」に設けられたコースも含め「風の松原物語エクスカーション」ともいうべきプログラムとしてガイドブックにすべきだと感じた。

午後からは、改めて歴史に名を残す人たちが植えた松を巡る。「栗田定之丞の植えた松」は、推定樹齢が220年で出戸公園の小高い丘に佇み美しい樹形を見せてくれた。

賀藤景林は1822(文政5)年から1833(天保4)年までの12年間に松を植えたといわれ、渟城南小学校に推定樹齢が200年の「賀藤景林の植えた松」が1本佇んでいる。

越後屋渡辺太郎右衛門が江戸時代中期の1711(正徳元)年から1738(元文3)年まで砂山林立を私費を投じて始め以降3代に渡って松を植え続けたが、当時の面影を伝える老松「越後屋渡辺太郎右衛門が植えた松」が「風の松原」の最古の松と伝えられている。

同じ時代に海岸防砂林の植林に私財を投じた「越前屋村井久右衛門の名残の松」が自宅跡の道路に佇んでいる。

日没近くまで「風の松原」の中に設けられたコースは雪をかき分け撮影散策。雪がなければサイクリングコースとしても楽しめるが、今日は歩いた足跡のほかにクロスカントリースキーの跡もあり、季節に応じた楽しみ方がある。

最後に松原に沿って並ぶ神社仏閣の裏通りを撮影して日没を迎えた。これだけ神社やお寺が松原の前に多く並ぶのは、砂に埋まる生活の中で神様や仏様に祈りを捧げることを大切していたからなのではないかと想像が膨らみ、その思いを込めてアングルを決めた。

明日は山形県の「出羽庄内公益の森づくりを考える会」を訪ねる約束。由利本荘市まで秋田県を一気に南下。再び雪が降り始めたので、これ以上の先を急がず車中泊を「道の駅にしめ」に定め、恒例の日帰り温泉は道の駅から10分程度で行ける明治に開湯された「安楽温泉」にした。泉質はナトリウム塩化物強温泉。塩分が多く心なしか体が浮きやすい温泉。今日も雪で荒れた肌を癒してもらった。

今夜は牡丹雪が降り続き雷も鳴っている。気がついたら今日はクリスマス・イブ。そんな日にも関わらず「良い写真を存分に撮って」と、メッセージを送ってきてくれたパートナーに感謝しかない。メリー・クリスマス。

 

「風の松原に守られる人々の会」桜田隆雄会長(左)と成田憲太郎事務局長(右)(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(冬の東北紀行第1弾(3)庄内砂丘で海岸林の現在を学ぶへ続く)