松韻を聴く旅 冬の東北紀行第1弾(3)庄内砂丘で海岸林の現在を学ぶ
9日目(12月25日)梅津勘一さんと語らえば日本の海岸林が理解できる
今日は「出羽庄内公益の森づくりを考える会」副会長の梅津勘一さんと10時にお会いする約束。
由利本荘市の「道の駅にしめ」から、気になる松のある風景を探して寄り道しながら約40kmを南下。国道7号を走っていて、バイパスと旧道が分かれるところがあるとできるだけ旧道を選ぶ。
この辺りは羽州浜街道で、芭蕉が奥の細道の目的地である象潟に向けて歩いたであろう風景を想像しながら走っていると、松のある風景に呼ばれたと思って車を停めたくなる。何の縁もないだろうが松が呼ぶのだと寄り道の言い訳をしながら進む。
特に象潟周辺は、2022年のGWに初めて走った際に呼ばれた風景が連続する。「九十九島」の眺望も、ふと目に入ってその存在を知ったのであった。「象潟漁港」は松林の向こうに鳥海山が望めるのだが雲に隠れているので先を急ぎ、象潟町川袋釜ノ上は立ち枯れた松林の向こうに鄙びた佇まいが見える。
その先の、象潟町小砂川大田の田畑を守る松林が全滅している風景にもやはり呼ばれた。象潟町小砂川中磯の辺りは海を背景に黒い瓦の家が多く目につく。
秋田県と山形県の県境にある「三崎峠」には、往時の石畳が残り芭蕉の時代に想いを馳せる。このように、この周辺はなぜか呼び止められ気になる風景が連続するのだ。
ようやく待ち合わせ場所の「サンセット十六羅漢」に至る。梅津さんと合流し、早速向かった先はなんと梅津さんのご自宅であった。
玄関を入ると、薪ストーブが暖かいリビングで木の良い香りが漂う。眺望が素晴らしく、これまで雲に覆われていた鳥海山が晴れ渡り目の前に全貌を見せてくれた。
壁には、EAGLESのHotel CaliforniaやBEATLESのAbbey Roadのレコードジャケット。好みが全く同じで、年齢をお聞きするとちょっと先輩。木の家づくりからウェストコーストサウンド、そしてようやく松の話へと入っていく。
梅津さんから学んだことの結論からいうと、「庄内砂丘の海岸林」の現在に至る成り立ちを把握すると、日本の海岸林の問題の全てが理解できるだろうということだ。
この巨大な海岸林に名称がないためここでは「庄内砂丘の海岸林」とする。梅津さんは長く山形県で森林行政を勤め上げた後、森林組合で庄内砂丘全域を管轄し、現在は個人で動く。
「庄内海岸林施業管理指針」の立案に関わるだけでなく現場で実践をしてきた人で、この海岸林を築き上げた多くの先人達を継承し、歴史、文化、技術、植生、そのすべてに精通し現場作業から講演執筆までこなし、海岸林の将来への展望を伝える特別な人なのだ。
庄内砂丘は、長さ約30km、最大幅は約3km、砂丘全体の面積は7,500ha、最大高は70m、そのうち海岸林が2,500haで砂丘の規模は日本最大級。日本で最も砂に苦しめられてきた土地である。
ちなみに、これまで撮影した大規模砂丘は2ヶ所ある。鹿児島県の「吹上浜」は長さ47km、最大幅5kmあり、海岸林は20km、最大幅3kmで面積1,700ha。青森県の「屏風山」は長さ30km、最大幅4kmで面積は7,500haあり、松原は長さ30km、最大幅600m、面積は3,000haである。
現在の庄内砂丘の下には「古砂丘」が存在するという。その頃は自然林が防砂の機能を果たしていたそうだ。しかし戦国時代の戦乱や製塩のための薪需要などで自然林は失われ、当時は砂防ダムもなく河川の上流部の木材需要や開墾が盛んでそのまま海に流れる土砂も多かったため、自然林が作り出した腐食層の上に「新砂丘」が出来上がった。
この「新砂丘」の飛砂を抑えるため、阿部清右衛門、曽根原六蔵、佐藤藤蔵、堀善蔵、本間光丘など、多くの篤志家が私財を投げ打ったり、庄内藩からの命を受け自ら住まう地域で植林事業に打ち込む。また「新砂丘」の下に腐食層があるおかげで地下水があり、そのため現在の砂丘農業の発展につながったと梅津さんはいう。
この時代背景を知ることで、なぜ江戸時代の頃から全国で同時多発的に植林事業が始まったのかが理解できる。その後は全国的な問題だが戦中戦後の燃料不足で乱伐が続き、再び飛砂の被害が続発する。
特に庄内砂丘は酷く、安部公房の小説「砂の女」の舞台となるほどで、砂が侵入するため家の中で番傘をさして食事をしている1960年代の写真が残る。ようやく1975(昭和50)年ごろになって約300年にわたる植林事業も落ち着いた。
しかし1979年にマツクイムシ被害が始まる。これは、高度経済成長によるエネルギー変革により地域の人が松林に入らなくなったことも、被害に気づかず拡大させてしまった遠因として考えられる。
そして今シーズンは過去最悪なほどのマツクイムシが発生している。地球沸騰化と言われるほどの過去10万年で最も暑い夏であり、10月まで過去最高温度を記録し、昆虫の活動期間が長くなったことも要因の一つであろう。
梅津さんは、これまでの植林事業の写真も数多く記録されており、いずれも人の動作のタイミングが素晴らしい。この写真をより厚みのあるものにしているのが、先人である須藤儀門さんの写真の存在だ。
第二次世界大戦後の混乱期から始まった「庄内砂丘の海岸林」の植林事業をつぶさにモノクロ写真に焼き付けているのである。やはり言葉や文字だけでなく写真の力によって理解が行き届く典型例である。須藤儀門さんは民俗学の著書が多いが、その中に1980(昭和55)年に刊行された「防砂林物語」がある。現在は加筆して復刊されたものが入手可能だ。
これまでの「松韻を聴く旅」で、多くの現場を見て人の話を聞いて学んできたことは決して間違いではないのだが、今日は、自然植生や遷移を踏まえた未来を展望するために必要な知識を学ぶこととなった。梅津さんとの出会いは、これまでの理解を超えた多様な視点を与えてもらえる強烈な機会となった。
「サンセット十六羅漢」でランチを済ませて、梅津さんに「庄内砂丘の海岸林」の歴史や特徴がピンポイントで理解できる場所を案内してもらう。
「西浜海岸」の「阿部清右衛門」の石碑、「本間光丘」の名前が由来の「光ヶ丘」、やはり「本間光丘」が防砂のために多くの職人を雇用し土嚢を積み上げた「日和山」。ここには「本間光丘」が御祭神の「光丘神社」があり、光丘を讃える石碑の「松林銘」がある。松を植えることで酒田市10万人が安全に暮らせる基礎を作った人物なのだ。
最後に酒田市出身の写真家である土門拳を顕彰した「土門拳記念館」の近隣で、梅津さんが24年に渡り小学生を指導して植林育林を続けている場所へ。梅津さんに、初めて植林をした子どもたちを写した写真を持ってもらい、現在の状態と比較できるよう撮影した。
2022年のGWの際は、「土門拳記念館」にも来て周辺にも松林があることに気がついたのだが、これが「庄内砂丘の海岸林」の一部だとは思い至らなかった。つまり「庄内砂丘」とは現在の酒田市の市街地そのものなのだ。
これは、「海岸林」によってこの地域が安全となり様々な営みが可能になった証なのである。この規模感をどのように写真で表現するのか、このあと大いに頭を悩ませることとなる。
ここで梅津さんとは別れ、山形県の指定文化財になっている「払田の地蔵の松」に会いに行くことにし広大な平野を走る。推定樹齢は400年、幹周りは4mを超え、枝の広がりは約25mもあり、集落の端の広場のようなところに佇む姿は壮観であった。
さて、恒例の日帰り温泉は、梅津さんからも教えてもらった金浦温泉「学校の栖」がやはり良さそうなので向かった。泉質は単純硫黄冷鉱泉(低張性、中性、冷鉱泉)。硫黄の香りに癒された。
明日は象潟の「九十九島の松を守る会」会長の氏家さんにお会いする約束なので、「道の駅象潟」で車中泊。
梅津勘一さん、光ヶ丘にて(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
10日目(12月26日)九十九島の松をまもる会
今日は象潟(きさかた)の郷土資料館で「九十九島の松をまもる会」会長の氏家完次さんと9時半にお会いする約束。「まもる会」の事務局は郷土資料館が担っているため、「にかほ市教育委員会」文化財保護課の阿部真也さんも同席いただいた。
お会いする前に、雪ではなく雨が降ったり止んだりの天候で積もった雪がどんどん溶けてしまう中、2022年のGWに訪れて多少土地勘ができている「九十九島」の撮影。
「九十九島」は、紀元前466年に起きた鳥海山の山体崩壊で生まれた、巨大岩塊の集積「流れ山」による海に浮かぶ多島美の地形であった。当時から松を冠していたのか、「東の松島、西の象潟」といわれた景勝地で「奥の細道」の最北の地である。
芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠い、晴天だった松島と対比し雨の中で訪れた象潟を、中国の悲劇の美女に例え心境を表現しているという。
現在の九十九島は、1804年の「象潟大地震」で2m隆起したことによって、陸地となり水田に島が浮かぶような地形となっている。約24haに103の島があり、その小さな島々には樹齢を重ねた松が多数残っている。
氏家さんたちの資料によると、1991年に九十九島で初めてマツクイムシ被害を確認。1999年に氏家さんたち地元の人たちによって「まもる会」が設立された。「象潟の島々に育成する松を守り、九十九島の美しい景観を後世に引き継ぐ」ことを目的としている。熱烈な郷土愛なのである。
具体的な活動は、島の松の樹勢調査、下刈りや枝払いと、景観のモニタリング調査。6月に作業実施と定期総会、秋に視察研修会などを行なっているという。
会員は105名ほどだが実質稼働しているのは20名弱となり、やはり高齢化と若年層の不在が課題で、今年83歳の氏家さんも「そろそろバトンタッチをしたいのだが」というのは各地で聞く話と一緒である。
氏家さんは「田んぼに水が入っている季節だと美しいのだが、最近は減反政策や高齢化で水が入らないばかりか、草が育ってしまうので、九十九島をいくら手入れしても全体が美しくならない」と嘆く。この地に若者の就農者が増えることを願うばかりだ。
阿部さんは九十九島は芭蕉の奥の細道の目的地でもあり、日本ジオパークに指定された「鳥海山飛島ジオパーク」に編入されていることからも、多くの人が認知している観光名所という前提で話す。確かにインバウンドの誘引には持ってこいの材料だ。
ちなみに九十九島は、昭和9年に国指定天然記念物となっており、「鳥海国定公園」の特別地域に指定されている。このため、複数の法規制のもと活動を工夫しているであろうことは「象潟の景観形成過程と保全に関する研究」という論文から類推する。
氏家さんのポートレイトと、せっかくなので若い阿部さんとも並んでもらったポートレイトを、やはり雨が降ったり止んだりの中で九十九島で撮影した。ただ残念ながら鳥海山は雲に隠れており、氏家さんのいう田んぼに水が入った季節に再訪することも考えたい。
午後は、そろそろ南下して帰路を考えねばならないため昨日巡った酒田市に向かう。宿題と考えていた「庄内砂丘の海岸林」の規模感を表現することを探求する。写真の修行である。
いつの間にか豪雨の中を移動することとなり、小降りとなっては撮影しを繰り返し日没を迎えた。出羽大橋の袂からだと松による海岸林がパノラマ眺望できるのだが、まだ納得できていないので再訪したい。
明日は内陸に入り山形県長井市の赤松の巨樹に会うため山形道を走り、程よいところでインターを降りて地道を走りながら行き先を絞り立地から大江町に定めた。選定のポイントは、「道の駅おおえ」に大江町産業振興公社という第3セクターが運営する温泉施設「テルメ柏陵健康温泉館」が隣接していたからである。
温泉施設は期待以上で400円とは格安。泉質は含硫黄ナトリウム・カルシウム塩化物温泉(高張性中性高温泉)で、今日も硫黄臭に癒された。
これはあとで知ったことだが、大江町は観光&産業振興のため来夏には道の駅を拡充リニュアルを進めているようである。その立地から吸い寄せられた利用者として納得の動きである。
氏家完次さん、九十九島を背景に(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
11日目(12月27日)山形の里山で老松に会う
今日は今回の撮影旅の最終日。最上川が作った山間の平地を走る国道287号線はとても走りやすいドライブコース。1時間ほどで長井市にある「芦沢の千年マツ」に到着。気がついたら雪のない景色に変わっていて、全く雪の気配がない里山の交差点に佇んでいた。
千年と名がついているが推定樹齢は400年以上で幹回りは約4m。長井市の天然記念物に指定されている。気持ちのいい青空のもと、朝の光であらゆる方向から魅力的な構図を探求。
少し気持ちが落ち着いたので、数百メートル離れた山の稜線にある「上伊佐沢のホウキ松」にも、なんとか雑木をかき分けてたどり着くことができた。この松も長井市の天然記念物に指定されている。樹齢は不明で少し迫力に欠ける樹幹だったが樹形は魅力ある松だ。
ここ長井市には推定樹齢1200年と言われている国指定の天然記念物「伊佐沢の久保ザクラ」があるなど巨樹の宝庫のようだ。
区切りをつけて、自宅を目指そうと再び山間の道を走り始めたのだが、心残りがありUターンして「芦沢の千年マツ」に戻って再び魅力的な構図を探求。日差しが変わってきて先ほどよりも納得でき今度こそ撮影終了。
30分ほど南下して「道の駅米沢」で遅めのランチ休憩。東北中央自動車道を走り出し、栗子トンネル周辺で左右の山々の広葉樹が全て葉を落とし稜線や斜面には赤松だけが立ち並ぶ光景に気づく。
マツクイムシの被害が見当たらず、あまりに美しい光景に見惚れてしまいチェーン装着パーキングで車を停めて撮影。この周辺の人には当たり前の風景かも知れない。願わくばもう少し雪の多い季節にゆっくり撮影に訪れたいと心に刻む。
茅ヶ崎の自宅には23時に到着。今回の走行距離は2,853kmで、無事故無違反トラブルもなく無事に終えることができ、7月からの走行距離は20,000kmを超えた。
使用ガソリンは350リットルで、今回も「南三陸の森林フォレストック認証」による1トンのCO2クレジットを購入しカーボンオフセットした。来月も雪国へ向かう。
芦沢の千年マツ(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)