(初夏の東北へ(2)健全なアカマツ林より続く)

 

11日目 5月20日 雨模様の中を福島まで南下

 

今日は小泉海岸からスタート。ここは高さ14.7m幅90mの巨大防潮堤によって暮らしと海が隔てられた場所。震災後の「海と田んぼからのグリーン復興プロジェクト」の取り組みの中で出会った阿部正人さん。何度か通ってこの浜で一緒に波乗りもした。支援としては何もできなかったが多くを語らったと思う。今日も小泉海岸を案内してもらった。防潮堤の完成時には砂浜は無くなっていたが、潮流によって今では数十メートルの砂浜が出現し、なんとハマヒルガオの群生も確認できる。その分、漂流物も多いようで定期的にビーチクリーンを行なっている。北側に移動すると防潮堤の内側にある断崖上には松が並ぶが崖下に実生発芽の小さな松の群生ができていた。以前見た時はここまで成長していなかったらしい。数年も経てば新たな松林となるだろう。自然の再生力は頼もしい。

しかし、南側に移動すると防潮堤の内陸で津谷川沿いに林野庁が植林したエリアには、山の土を使ったのか成長してきた松に蔓草が絡みついており、このまま放置すると陸前高田で見たクズ同様に松を枯らしてしまうのではと思う。この周辺は湿地帯となって多くの生き物が戻ってきているらしい。道路にあるBRTの陸前小泉駅から川を渡れず防潮堤を越えて海に向かえない不便さと、海にいる人が防潮堤を乗り越えて来ても内陸の高台への避難路が確保されていないのが現状。

震災前には小泉海岸に来たことがなく知らないのだが、写真を見る限り松林を抜けて砂浜にアプローチする風光明媚な場所だったようだ。阿部さんは、防潮堤から松林を抜けてBRTの駅に辿り着けるように津谷川に橋を架けるといいのではないかと思いつく。なるほど確かに1本でもルートを確保するだけで、随分と移動しやすい海岸となるのは確かだろう。人流が可能になることで松の植林エリアも手入れがしやすくなる。健全な松林へ育てると内陸からは巨大防潮堤が見えにくくなり、松林を抜けて海に向かうアプローチが復活する。松林と湿地帯が、防潮堤を挟んで砂浜と連なる空間をデザインをすることで、阿部さんが目指す環境教育と防災教育の拠点となるだろう。昨年7月から全国各地の松林事情を学んできたので、風景の見え方が全く変わってきたことを実感する小泉海岸だった。

次に向かったのは南三陸の神割崎。ここには口承が残る。それも大昔ではなく宝暦年間というから300年ほど前のことだ。浜辺に大きな鯨が打ち上げられ十三浜と戸倉の浜の住民はこれを喜んだが互いの土地だと主張し合い三日三晩も言い争い奉行にまで訴えた。すると三晩目に落雷があり横沼の岩が一文字に裂け磯の境界を示す形になっていた。両浜の住民は神業だと驚き、それを信じて仲良く鯨を分け合い、両村の境界と定めたそうだ。

今は、その岩の裂け目に波が打ち寄せ季節を選べば日の出が差し込む観光スポットとなって、今日のような平日の激しい雨の日ですら大型バスが乗りつけてくる。岩の上には松が生えているのだが被写体としては少々ひ弱な感じである。今日はロケハンとして季節を選んで再訪を考えたい。隣接する高台にはクロマツとアカマツが混在するキャンプ場があり、震災後は訪れる人も増えてきている。残念ながらマツクイムシ被害が広がっているが防除対策も進めているようだ。

今日中に福島県相馬まで辿り着きたいので先を急ぐ。先日は田植え前だった東松島市の「月観の松」は田植えが終わっていた。しかし撮影は風景との出会い頭の感動があってより強く印象に残る作品となると思っている。新鮮な気持ちで観れるかが肝心である。これも写真修行と言える。

2013年から5年ほど足繁く通って撮影した亘理町、山元町周辺の津波後に生き残った松たちに再会したく向かう。当然だとは思うがその多くの姿はない。この周辺は5mの津波が押し寄せたエリア。かさ上げした復興道路も完成し、以前走った道は途切れ途切れで脇道として残されている。記憶が薄れていく。しかし被災したまま取り残された民家がそのままあり、八重垣神社周辺では松が元気で佇んでいた。仙台平野の南端に位置し穏やかな気候でいちご栽培が盛んな地域だ。亘理町と山本町で191人の生産者が約52haで栽培。東北で最も生産量を誇るいちご王国として復興している。さらに良き発展をされることを願ってやまない。

恒例の日帰り温泉は、そうま温泉天宝の湯。泉質は弱アルカリ性ナトリウム塩化物泉で源泉は25℃ほどで加温。少しぬめり感のあるお湯で肌に良さそう。

 

田植えが終わった月観の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

12日目 5月21日 福島浜街道の松たち

 

午前中は、福島県松川浦の豊かな恵みを後世に伝えることに取り組む「はぜっ子倶楽部」の新妻香織さんとお会いする約束。2015年に国有林4,500平方メートル1,500本を植林する調印を行い「松川浦希望の森」と名付けて維持管理。福島大学の黒川先生の指導で外来種の駆除と園芸種の持ち込みは厳禁というルールも徹底している。10年近く経って背丈は低いながらも姿はすでに個性的で視点を低くすると楽しげな松林に成長することが想像される。植林地の土は山土の深い部分を持ってきているようで、蔓草などは全く見受けられず1年に1度の清掃活動で維持できているという。それにすでに海浜植物の種が飛んできているようでとても恵まれた植林地のようだ。

ところで、新妻さんはとんでもないエネルギッシュな方だった。お会いする前にプロフィールでは確認していたが、実際にお話して圧倒されるばかり。何事もさらりと話されるのだがどこからそのエネルギーが湧いてくるのかが不思議。大学を出てJTB出版事業局で「るるぶ」などの編集に携わっていたが、人生後悔先に立たずとばかりに30歳から5年間はアフリカで暮らし何と単独横断をしてしまうのだ。そのことは1996年に出版されたアフリカ横断記「楽園に帰ろう」(河出書房新社)に書かれており、第3回蓮如賞優秀賞を受賞されている。さらに旅先で現状を見て1998年に立ち上げたのがエチオピアの緑化と水資源開発を行う「フ―太郎の森基金」だ。「フー太郎」はアフリカ横断の旅でひょんなことから出会ったフクロウの名前だが、この取り組みで2010年に「平成22年度外務大臣賞」を受賞。前後するが2000年には故郷の松川浦に注ぐ川の汚染状況を知り、他の国の支援ばかりしているわけにはいかなと松川浦の環境保護団体「はぜっ子倶楽部」を創設。

長年の活動が実を結んで、なんと「松川浦」がラムサール条約の潜在候補地に選ばれる。そこで2012年にルーマニアで開催されるラムサール条約COP11を目指すため、2011年3月12日に「はぜっ子倶楽部」が主催で松川浦に関係する方々とシンポジウムを開催する予定だった。そしてシンポジウム会場が避難所となった。ご自宅は無事だったがご実家が流される。しかしアフリカに注いできたエネルギーを一気に故郷に向けるかの如く支援活動を開始する。5ヶ月後の8月から連続8回開催した「松川浦の未来を語るゼミナール」から出たアイデアから「一般社団法人東北お遍路プロジェクト」「一般社団法人ふくしま市民発電」を創設し共に理事長に就任。11月には相馬市議会議員選挙に立候補し初当選。2012年には第1回日本女子大学青木生子賞受賞。不屈の闘志というか次々と前に進み形にしていくのだ。今日はほんの片鱗を見せていただいただけである。後日「楽園に帰ろう」「よみがえれフー太郎の森」をお送りいただく。思わずのめり込んでしまう冒険譚だった。

パワフルな新妻さんにすっかり感化されたまま、午後は、南相馬市、浪江町、双葉町は何度も撮影に足を運んでいたので浜街道をゆっくり南下。以前に撮影した松たちの姿はほぼなくなり風景全体も印象が変わってしまっていた。それでも双葉町の元の海水浴場周辺には津波にのまれながらも生き残った松が今も数本佇む。「マリンハウスふたば」はそのままで朽ちるに任せている状態で周りを取り囲む松林もそのまま。誰もいない海には良い波が寄せていて一人で静かに過ごすには良い場所のように思えてしまう。しかし、津波の影響なのかマツクイムシ被害なのかは不明だが立ち枯れた松が何本もあり、新設された防潮堤の上には「ここから帰還困難地域につき立ち入り禁止」と書かれ現実に引き戻される。

夕方は富岡町に入り印象的な松のある風景と向き合う。何度も撮影した富岡町立第一小学校の校門の横にある松。その目の前に会社の先輩の香中峰秋さんが事務局長を務める「一般社団法人とみおかプラス」の事務所がある。町の新たな魅力創出、行政公共的組織の補完、町外応援の受け皿、移住定住の促進など、富岡町の未来づくりの窓口そのものだ。香中さんは会社時代はさまざまなアイデアを出して行動する人であり人を育てることに長けた兄貴肌の人だった。今の仕事はそんな香中さんらしさが存分に発揮できる環境というより、香中さんのための職場のようにも思う。お互いの近況を語り合ってエネルギーをいただき移動を開始。

恒例の日帰り温泉は、明日の郡山の打ち合わせのために内陸に向かい田村市にある針湯温泉。特に温泉表示はないが、冷鉱泉、単純泉のようで、ぬめり感のあるお湯で肌がスベスベ。

 

荒廃するマリンハウスふたばと松林(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

13日目 5月22日 郡山市の浄土松

 

今日は郡山市役所からスタート。8月に郡山市政施行100周年記念「東北SDGs未来都市サミット」で基調講演とファシリテーターを行うのだが、メールでそのやり取りをしていたら、郡山市には珍しい松の名所「浄土松」があると教えていただく。今日はサミット打ち合わせと松の視察となった。同行くださったのは政策開発課の遠宮昭則さんと河野将之さん。浄土松を案内くださったのは多田野本神社の安藤道啓宮司。現在は浄土松公園となって郡山市の公園管理管轄となっているのだが、安藤さんが案内役となったのは、この地域の歴史をくまなく調べ伝説が史実であることを突き止めるなど歴史研究家の一面もお持ちの方であるため。

安藤さんの話や逢瀬町のポータルサイトによると、この多田野本神社は1143(康治2)年に源義家の家臣である鎌倉権五郎景政が東北征伐の際、この地に住んでいた盗賊や大蛇をことごとく退治したことに感謝した村民が景政やその一族を合祀したと言われている。そんなことから昔から怖い神様と言われ「触らぬ神に祟りなし」とはそういうことが語源ではないかと安藤宮司。権五郎景政の亡き後、その子孫がこの地を支配することとなり、姓を「多田野」と改め館を築いて浄土松を庭園としたと言われている。また河野さんが用意してくださった資料や安藤さんの話によると、幕藩時代の郡山は二本松領だったのだが、二本松のお殿様丹羽光重は度々ここへ足を運び月見の宴や紅葉狩りを楽しんだという。その際にこの奇岩と松の美しさは松島にも劣らないと「陸の松島」と呼んだとも言われている。

ところで安藤さんの少年時代の学校の授業では、雪が積もればこの浄土松の山道を木製のスキーを使い、まるでアルペンスキーの如く滑っていたという。もちろん歯止めが効かず激突する生徒もいて怪我が絶えなかったらしい。なかなかワイルドな体育の授業で随分と時代を遡るのかと思いきや同世代とわかりびっくりである。安藤さんは、この多田野本神社や周辺の地形が類似する場所が、源義家の河内源氏の本拠である兵庫県川西市の多田神社だと突き止めており、伝説のように語られていることの根拠を見つけ史実として証明していこうという意欲をお持ちなのだ。このように地域の歴史、浄土松や逢瀬町に関する話からご自身の少年時代の体験まで溢れるように話されるのでインパクトは秀逸だった。このように多岐にわたる話を聞けば聞くほど見えてくる風景が変化してくるのだった。

午後は、郡山市から東北道、磐越道、常磐道と一気に走り茨城県の五浦海岸へ至る。岡倉天心が晩年を過ごした天心邸や六角堂は大切な松の名所。老松たちが海からの風を抑え、芝生の庭を眺める平屋建て。そして丘の舳先のような場所に瞑想空間の六角堂は津波で流されたため、天心が建てた明治38年当時の設計図通りに復元。この全体が憧れの空間なのである。2021年に出版した写真集「松韻を聴く」に掲載したアングルを再撮影しようとポイントに立ってみたら、常緑樹が繁茂して眺望がなくなっていた。これは残念と思っていたら、施設の方がたまたま通りかかったので声をかけて説明すると管理している茨城大学と相談してもらえることになった。自分で見つけたアングルはそっとしておきたい気持ちと、施設の魅力を増してほしい気持ちとが入り乱れたが、やはり施設の魅力を増してほしい気持ちが勝った次第。今後の対応について連絡があることを期待したい。閉館まで眺めた後、立ち去りがたい思いもあり恒例の日帰り温泉は天心邸に隣接する五浦観光ホテル別件大観荘にした。泉質はナトリウムカルシウム塩化物泉で源泉は71℃の掛け流し。大きなホテルで施設も美しく、潮騒を聞きながら松林のシルエットを眺める。時間帯が良かったのか内湯も露天も1人でゆっくり浸かり本当に癒され心にもゆとりが。「松樹から湯船を揺らし昇る月」

 

浄土松公園(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

14日目 5月23日 唯一無二の景観「村松晴嵐」

 

今日は五浦の天心邸の朝の光を確認してから、北茨城在住の画家で毛利元郎さんのご自宅へ。毛利さんとは同世代で2007年からのお付き合い。鵠沼海岸のギャラリーで毎年GWに個展を開催されている時に知り合った。それ以来、時々お会いして刺激を受けている。ご自宅は2018年のGWに撮影旅の途中で立ち寄らせていただいて以来となる。毛利さんはイタリアのペルージャで腕を磨き、奥様の玲さんが毛利さんの世界観にマッチした額を製作され作品が完成するという素敵なご夫婦なのだ。今日も話が尽きず作品作りのためになる刺激を受ける時間となった。

午後は東海村にある「村松晴嵐」へ。15時半に東海村役場で農業政策課の照沼光譲さんと清水正太郎さんにお会いして再び「村松晴嵐」へ。愛林組合の宮内昇さんと合流する。

水戸藩第9代藩主徳川斉昭公(1800-1860)が藩内に選定した水戸八景の一つがこの「村松晴嵐」。「晴嵐」という言葉は、180年前に斉昭が村松海岸の美しさに心打たれ「真砂地に雪の波かと見るまでに塩霧晴れて吹く嵐かな」と詠んだことに由来する。直筆の石碑「村松晴嵐」が現地に立つ周辺は景勝地として古くから多くの人が訪れた。特に海岸から大神宮や村松山虚空蔵堂まで1kmほどの白砂の八間道路は、全国各地で松原を見てきたが唯一無二の景観かもしれない。斉昭が船出した場所だとも言われ、天保年間(1831-1845年)に始まったと言われる十三詣りは近年までは大変に賑わったようで昭和30年代の写真が残る。

景勝地として名を馳せていたが、その一方では周辺の集落が一夜にして砂に埋まったという「千々乱風」伝説がある。その集落が2003(平成15)年に、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(JAEA)と大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)が共同運営する大強度陽子加速器施設(Japan Proton Accelerator Research Complex = J-PARC)建設の際に砂の中から発見されている。なお、この八間道路はこのJ-PARCと日本原子力研究開発機構安全研究センターの巨大な敷地に挟まれており、毎日頻繁に4WDの巡視車が走っているため車の深い轍が多数あるのは仕方がないようだ。それにしても、これだけの施設の間を貫く八間道路がよくぞ残したと思う。民間の声もあったと思うが施設側も地域の史跡として重視したのは間違いない。

強風と飛砂の被害は続き、大正時代には幅400~600メートルの広大な砂丘地帯が形成されたという。危機感を抱いた村松村長が茨城県知事に工事の嘆願書を提出し、大正7年に国の「海岸砂防林造成に関する試験地」に選定されるに至る。担当者に選任された河田杰農学博士の指導のもと、35年の歳月をかけ延べ23,000人の村民の力によって約184haにも及ぶ防砂林が完成。ここで確立された造林法は「茨城式」と呼ばれ近代の海岸林造成のモデルとなった。

ところが、20年ほど前からマツクイムシ被害が壊滅的となったため、防除に尽力し現在のリジェネプロジェクトへと繋がる。このプロジェクトは東海村、日本原子力研究開発機構、愛林組合が中心となり、807年に空海によって建立された「村松山虚空蔵堂」、茨城のお伊勢さんと言われる「村松大神宮」、東海村観光協会、県農林事務所などのアドバイスを受け地域のボランティアの協力を得て令和元年から開始した。東海村のHPにはこのプロジェクトが詳細に記録され資料もpdfでダウンロードできるようになっているが、これは清水さんの尽力だとわかる。

改めて照沼さん、清水さん、宮内さんと一緒に八間道路を歩く。このような白砂が深く起伏があって幅広い道路が海岸から内陸に向けて残っている場所はないだろう。個性豊かな景観。宮内さんの思い出話を聞きながら歩くと、見えてくる風景が変化していく。昔は参詣道のような場所だと思っていたこと。今は木が成長して見えないが遠く海が望めたこと。例年の十三詣りの頃には屋台が出て人が溢れかえっていたこと。家族連れも多く、みんな思い思いに砂に座って過ごしていたこと。今は大きな施設に挟まれ静かに佇む八間道路だが、史実や宮内さんの話からイキイキとした景観として立ち上がってくるように感じる。

「村松山虚空蔵堂」の駐車場に戻ってくると住職の奥様で原晃子さんとお会いできた。原さんの記憶では、家庭の燃料はもちろん、芋畑の苗床にも使うため、女性たちがカゴを背負って「松葉さらい」をして松葉を持ち帰ったそうだ。明るく綺麗な状態を維持した松林では、あみたけ、はつたけ、しょうろ、きしめじなどを採集できたという。これは遠い昔の話ではないのだ。そういえば、水戸黄門の映画の旅立ちのシーンは八間道路で撮影したらしい。夕暮れの涼しい時間に気持ちがホッとするお話を聞くことができた。

恒例の日帰り温泉は大洗市の潮騒の湯。泉質はナトリウム塩化物強塩温泉で源泉は25.2℃。確かに塩っぱいお湯でジンジンと温まり汗ばんだ1日を癒してもらった。

 

村松晴嵐の八間道路(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

15日目 5月24日 茨城の海

 

今日も茨城県を北へ南へ移動。勝手ながらの”松の名所”を確認すべく「鵜の岬」や「大洗海岸」を確認。特に「大洗海岸」は松林が濃く、キャンプ場や複数ある駐車場に車を停めて周辺を歩くが、気象条件を考えじっくりと地理勘も養って自分らしいアングルを探す必要がある場所だ。今回はロケハンと考える。

そして午後は神栖市の「波崎砂丘」へ向かう。まず驚いたのは圧倒的なスケールの砂丘地帯であるということだ。鳥取砂丘、遠州灘砂丘、鹿児島県の吹上浜、青森県の屏風山と並ぶ日本有数の砂丘地帯で、単一砂丘としては日本一だという。何より他の砂丘地帯との違いは現在も剥き出しの砂丘でその距離は20km。延々とその砂丘地帯を市道(通称シーサイド道路)が貫くが、一部道路が私有地にあたるため飛砂で埋まった道路の整備ができず2023年7月に17年ぶりに全通したという状況。波崎漁港の護岸が新設されたことでさらに砂が堆積しているようだ。現在も風が吹けば大きく砂が動き砂丘の地形が変化するエリアでその規模が圧倒的だ。その砂丘に沿って延々と美しい松林が続いていたようだが、20年前から一気にマツクイムシ被害が広がってしまいほとんどの松が失われた。

この松だが、意外と詳細な史実が残っていないようなのだ。わかったことは、どの作物がよくできるのか、年貢をどうするのかなど、農作物のことが多く記録されている。たぶん、砂との戦いは途方もなく内陸での耕作地を確保して確実に石高を上げることや、砂丘地帯で収穫できる作物を出荷することに注力されてき他のかもしれない。

神栖市教育委員会の「地域の歴史シリーズ」によると、その昔この辺りは陸続きではなく島で構成されていた地形だった。その島にはアカマツが自生していたようだ。陸続きになってからは砂丘地帯となり、砂の丘陵地のことを「うずも」と呼んでいたらしい。近年までサンドスキー場があり有名だったようだ。この「うずも」ができた背景だが、鹿島灘の沿岸流と利根川の堆積作用で砂が寄せ集まって陸地ができ、潮の流れに沿って次第に銚子方面へ砂の陸地は伸びて「波崎」となった。波崎は当初 「刃先」と呼ばれたようで、刃先のような形をした砂嘴(さし)が だったようだ。この周辺にはクロマツしかない。砂の陸地を農地にするため、唯一根付いたクロマツを地域の人々が植えていったからだという。「植松」という地名は言葉通り松を手植えしたことに由来する。江戸時代初期に和歌山県の漁師が移住してきたが、農地などの土地利用は皆無であったという。享保年間になり新田開発が始まり松の植林も小規模ではあるが明治、大正、昭和と断続的に行われてきたようだ。戦後になって砂地にサツマイモ畑が盛んになりデンプン工場が各地に作られ活発化したという。歴代植えられてきた松も高度経済の頃には波崎地域全体を覆っていたようだ。

その松がやられたことで今日15時にお会いする「神栖市美化運動推進連絡協議会=(美推連)」会長の才賀秀樹さん、事務局の安藤和幸さん、田山雅一さん達の活動が始まった。ちなみに3人とも地元の会社の代表者だ。構成団体は「かしまJCシニアクラブ波崎支部」「波崎愛鳥会」「NPO法人Sea WINZ」「NPO法人波崎未来フォーラム」「波崎ロータリークラブ」「波崎水産加工業協同組合」「波崎旅館業協同組合」「神栖市商工会」「一般社団法人かしま青年会議所」「波崎漁港をきれいにする会」「波崎漁業協同組合」と、地域の経済団体から市民団体まで多彩で圧倒的である。この組織力を駆使して、幼少の頃に豊かな松林で遊んだ記憶を持つ才賀さんたちが、地元の農家と連携して松の苗木を千本単位で用意して、神栖市と10年間の協定を交わし市長も巻き込んで数百人単位のボランティアを集め毎年植樹活動を続けている。

才賀さんたちは植樹した幼樹の松笠から取った種を育てて苗にして植樹もしている。つまり抵抗性松ではなく地域の松でマツクイムシに挑んでいるのだ。ダイナミックな風景に育まれた人たちだからか活動も実にダイナミック。安藤さんは多くの人たちと一緒に楽しみながら活動しているので続けることができていると言う。ちなみに美推連は40年前に神栖市の環境保全を目的に地域の団体が結集して設立された組織。

美推連のHPも動画などもあり充実しているが、これは田上さんが社長業の傍らデスクワークを奮闘しているから。動画の制作も田上さんが行なっている。企業人による完全無欠の地域貢献なのであった。

地元で松の苗を手配できるのは、神栖市は正月飾りの「若松」や「千両」の出荷が日本一!でもあるからだそうだ。「広報かすみ」などによると、東京都中央卸売市場で茨城県産の「若松」は80%近いシェアを誇る。神栖市で「千両」や「若松」の栽培が活発になった背景だが、まず「千両」の栽培が大正時代に一軒の農家から始まった。様々な努力を重ね一定の出荷量を確保できるようになったが、立ち枯れの病気が広がったことを機に松の栽培が一気に普及。いずれも正月用の花材なので販路が同じで収穫時期も同じ。生産・販売効率が良い。「若松」は砂地で路地栽培されており波崎に最適な作物。膝ほどの松畑、腰ほどの松畑、栽培されているのはクロマツで葉の締まった良い松が育つという。製品としての質を高めるため10cm間隔の密植をすることが大切なようだ。次回は「若松」農家を取材したい。

さて恒例の日帰り温泉は、北浦のほとりにある行方市の北浦荘へ。昭和の香りムンムンの地域の人に愛用される銭湯の世界。常連さんの世間話を思わず笑いながら聞く。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉の鉱泉湯で源泉掛け流しの黒褐色湯。夏の気候で汗だくだったが、湯上がりの肌はスベスベ。

 

美推連の安藤和幸さん、才賀秀樹さん、田山雅一さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(初夏の東北へ(4)最後の夜は松島で語らうへ続く)