松韻を聴く旅 北海道から能登半島へ(1)
2月11日 仙台港へ
7時に家を出て仙台港を目指す。途中、常磐道のサービスエリアで休憩中にいきなり2024年5月23日に撮影した東海村の「村松晴嵐」の撮り方を思い付き、マップで検索したらここのETCインターで降りるのが最寄りだった。導かれるように向かうと年中行事ではないが「村松虚空蔵尊」は大変な賑わい。ここは平安時代の807年に弘法大師によって創建されたお寺。伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊、そしてここ「村松虚空蔵尊」に虚空蔵菩薩が三体あり、人生初の厄年である十三歳に参拝すると知恵と福徳が授けられると伝えられる。ここから海へ至る松林の中に砂地の八間道路があるのだが全国唯一無二の景観で印象深い場所なのだ。現在は両側にある原子力施設の保安パトロールの車の轍が走る砂地である。今日は地元大学のトレーニングが行われていて落ち着いて撮影できる雰囲気ではなかったが思い付いたアングルを試すことはできた。改めてゆっくり再訪したい。
次に福島の「泉の一葉松」に向かう。南相馬市原町区泉の見晴らしがいい水田地帯に佇んでいるが、東日本大震災ではこの周辺も2m近く冠水し民家も流され、付近にはテトラポッドが打ち上げられたという。周囲の田畑は塩害の影響を受けたようだが、この「泉の一葉松」は耐え抜いて原形をとどめている。見事な生命力なのだ。しかしその後、衰弱が見られたため南相馬市から住友林業に支援を要請するなど対策は続いているようだ。推定樹齢400年の松。生き延びてほしい。
2カ所の寄り道でちょうどいい時間に仙台港に入り乗船。前回の大洗からだと約17時間45分の船旅だったが、今回は15時間20分だ。金額も個室で32,800円だった。やはりしっかりと睡眠を確保している間に北海道に行けるのは有り難い。大浴場も空いていて快適な船旅を楽しませてもらっている。
2月12日 再び北海道
北海道らしい松の風景を前回の撮影を踏まえて考えると、物語のあるえりも岬の緑化事業で植林されたクロマツ、五稜郭の周りに植えられたアカマツ、そして松前城の城門前に佇むクロマツではないかと捉えている。この3カ所で納得できる雪化粧が得られたらと願う。苫小牧港は前回の方が雪があったがまだ残っている。3時間で襟裳岬に到着。雨である。明日の朝にはさらに雪は溶けているだろうから撮影ポイントに急ぐとオジロワシが悠然と佇んでいた。嬉しい歓迎である。しかし雪は前回の方が明らかに白かった。灯台の灯りが回り始める。エゾジカが集団で移動している。先月来たばかりなのでずっとこのあたりにいたような錯覚に陥る。襟裳岬での車中泊はパターンができていて過ごしやすい。日帰り温泉は前回同様の田中旅館。宿のご主人にも顔を覚えてもらっていた。
えりも岬から百人浜を望む(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
2月13日 襟裳のキタキツネ
やはり雪はかなり溶けてしまっている。灯台の灯りに合わせてシャッターを切ることはできたが、襟裳の雪化粧は先送りとなってしまった。しかしさまざまな生き物たちを見ることができた。断崖の上に佇むオオワシ。海辺で重たい羽ばたきをするオジロワシ。構えたカメラの前を横目で走り去るキタキツネ。道路を横断するエゾジカの集団。持ち合わせの機材ではなかなか撮影は厳しいのだがキタキツネだけは近くで狙えた。
さて、雪のある風景である。天気予報では明日は函館で雪が期待できるため一気に向かうこととする。七飯町の赤松街道と函館市の五稜郭のアカマツ。いずれを優先するのかを考える。体は一つだけに1度のチャンスをどちらで過ごすか。北海道らしい景観の松を考えると五稜郭だと判断。
途中、先月走り去って気になっていた浦河町の日高本線の鉄路が残る場所に立ち寄った。えりも町から散見される砂利浜が広くその中を鉄路が貫かれている。砂利浜の小石の空間は、ほどよい通気をもたらすため乾燥を促すだけでなく、浜風によってじっくりと昆布にうまみが凝縮されるという。最盛期の7月から9月には一面昆布が干されているのだろう。そんな中を日高本線は走っていたのだ。昭和30年代にはC11蒸気機関車が走っていたという。ここに松はないが時空を超えた旅をしたくて撮影した。風は強いが暖かい日差しが優しかった。
さらに進むと日高地方の雄大な牧場風景は前回よりも雪化粧しているため「日高大洋牧場」に立ち寄り雪の具合を見るがほぼなかった。日が暮れてから七飯町に到着。日帰り温泉は1月にも入った七飯町健康センター「アップル温泉」。泉質はアルカリ性単純温泉、源泉は54.4℃で掛け流し。
2月14日 雪の五稜郭
まだ暗い夜明け前に五稜郭へ。雪化粧である。ようやくこの風景を見ることができた。撮影を始めると雪雲が迫り吹雪く。しばらくすると青空が広がるが再び雪雲が迫る。何度もこの天気を繰り返してくれる。前回は多くの観光客が来ていたが、この天候だからかほぼ観光客もなく9時半ごろまで3時間以上撮影したが、結果的にはその極めて恵まれた気象条件を活かし切ることはできていない。吹雪く中で機材を守りながら撮影することへの慣れが必要で、もっと撮れたはずだが未熟さを痛感する。
続いて旧函館区公民館と谷地頭駅に向かい先月よりは雪化粧をした状態で撮っておく。北斗市と木古内町の境あたりの崖には松が点在するのが1月に来たときから気になっているためとにかく撮影しておく。
夕方、雪化粧した「松前城」に辿り着く。五稜郭から約98kmで2時間弱の距離だ。時々吹雪いてくれるが明日以降は晴天の予報なので急ぎ撮影する。三の丸から見る三本松土居と搦手二ノ門の背景に天守閣。松を主役にした城の風景としてとても特徴的だと考えている。
改めて「松前城」。松前家は内紛を抱えた状態で旧幕府軍に敗戦。江戸後期に幕府の命で海上防衛の基地として再整備したが北側の構造が弱点を抱えたまま土方歳三たちの軍に攻められて落城している。しかし北海道で唯一の古城で、国内最後に築城されたものであり語られることが多い城だと感じる。
日帰り温泉は「松前温泉」。藩政時代の記録に残る温泉らしい。泉質はナトリウム塩化物硫酸塩泉、源泉は37.2℃。
雪の五稜郭(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
2月15日 松前城の夜明け
とんでもない突風の中を海辺で車中泊。車は絶えず揺れ続け時々爆音と共にゆすられる。日の出前から松前城の撮影。昨夕より雪は減っている。
七飯町に向けて動き出す。やはり知内、木古内の海側にクロマツは多い。松の佇まいを探す。念のため五稜郭の雪の状態を見にくと愕然とするほど雪がなく美しくない。北海道であっても雪は1日で消えるのだと知る。昨日、五稜郭と松前城を優先した行動を選んで良かったと安堵する。夕方、七飯町内で松の佇まいを探すが、やはり赤松公園周辺の松並木で工夫するしかなさそうだ。
恒例の日帰り温泉は1月にも入った七飯町の「ななえ天然温泉 ゆうひの館」。泉質はナトリウム・カルシウム・塩化物・硫酸塩泉(含石膏・食塩泉)、源泉は62.5℃で嬉しい掛け流し。
2月16日 七飯町の歴史と赤松街道
夜明けとともに「赤松街道」の撮影。先月も撮影した藤城地蔵堂の並びある旧家の前に佇む樹齢300年はありそうなアカマツ。明治天皇の行幸を記念して植樹された樹齢150年ほどのアカマツ並木。雪は残っているが道路の汚れが目立ちあまり美しくない。「襟裳岬」とこの「赤松街道」は宿題を残してしまったようだ。
11時に七飯町歴史館に学芸員の山田央さんを訪ねる。1月24日に訪ねた際、赤松街道のことを理解するには七飯町の歴史をもっと理解しなければならないことが山田さんの話から見えてきたので、山田さんの勤務先である「七飯町歴史館」でゆっくりお聞きしたいと思ってお時間をいただいたのだ。やはりこの時間が今回の北海道でのハイライトとなった。山田さんに館内展示を案内してもらいながら話を伺う。現物を前にするのでとてもわかりやすい。
まず歴史的、地理的な背景を各種資料から引用し記しておく。道南に和人が住み始めたのは14世紀から15世紀に遡り、アイヌと和人の戦である「コシャマインの戦い」が平定されたのち和人の移住が増えて七飯町に和人が定住したのもこの頃とされている。
現在この地は、函館市、北斗市、七飯町の2市1町から構成される木地挽山付近を水源とする久根別川(アイヌ語のクンネ・ペッに由来し「kunne-pet 黒・川」の意)の流域に位置し、土地利用は約60%が山地で占められるが、中・下流域はは水田、畑、住宅地とし利用され、七飯町は日本における近代西洋農業発祥の地、北斗市は北海道水田発祥の地となっている。この近代西洋農業発祥の地となった恵まれた土地柄であることが七飯町の町木がアカマツになっていることにつながっていく。
幕府が直轄していた文化5(1808)年、七重村の倉山卯之助という農民が岩手から杉や松を取り寄せ苗畑を開き、同じ頃に松前奉行も朝鮮人参を栽培するため七重村に畑を設けるなど下地ができ始める。安政元(1854)年、日米和親条約が締結され箱館が開港されると、七重村は外国人が自由に行動できる地域に指定され住民が西洋文化に触れることとなる。そして箱館に入港する外国船が必要とする牛肉や野菜を供給するため西洋農業がいち早く始められた。開拓と革新の風が七重村には吹き始めたのだ。
箱館奉行は直接経営する農園「お薬園」を設け苗木や薬草を育成。栗本鋤雲の管理で経営が順調に進み、佐渡から松や杉の種を毎年取り寄せ苗木を増やし五稜郭を始め流域内の道路に松を植え始める。幕府は蝦夷地開拓と警備のため志願者を募り八王子同心も多数移住するが、この中に現在の七飯町の名称の元となる七重の農業の発展に尽くした飯田甚兵衛もいた。
明治維新、箱館戦争を経て、明治新政府は開拓使を置き開拓のための農業を盛んにするべく、北海道の気候や土地が似ているアメリカの農法を導入するため、東京で試してから全道に広げることとなり、東京、七重、札幌、根室に試験農園である「官園」が設けられた。七重官園は明治3(1870)年に設置され、育成する農家を住まわせ農具や家具なども支給した。雑穀、野菜、果実、加工品の製造、そして樹木、酪農から養蚕まで多様に行い、明治9(1876)年に名称を七重勧業課試験場と改め、この年に明治天皇が行幸される。
まずお迎えする建物の周辺にアカマツ(落葉しない・神を待つ)を植林し、開拓使長官となっていた黒田清隆から杉、ひのき、アカマツを適所に植えるよう指示があるなどで、行幸された後で記念して札幌本道、現在の赤松街道と呼ばれる国道5号線沿いに五稜郭から相当数を移植したようだ。明治14(1881)年にも行幸され七飯町から函館に向かった際、明治10年以降に植えたアカマツ並木が天皇を迎えたと言われている。
七飯町は北海道開拓だけでなく日本の殖産興業の礎を作った町だったのである。その一つの証として「赤松街道」が今に残っているのだ。七飯町の町木がアカマツである所以である。なぜ北海道に「赤松街道」があるのか?という疑問はこのようにして七飯町の歴史を知ることで解決していった。本州の街道松は徳川幕府の命を受けた各藩が街道を整備する事業として植林していったが、七飯町の赤松街道の成り立ちは箱館奉行から開拓使へと時代が移り変わる架け橋のような数年間の歩みの中で生まれた景観であったのだ。
山田さんが勤務する「七飯町歴史館」の役割は、七飯町の歴史を伝えるだけでなく日本近代の殖産興業の歴史も伝える大きな役割がある。持続可能な未来社会を考えるためには過去の歩みを知ることは大事であり、100年前に近代日本を礎を築いた七飯町の存在意義がもっと広く知られる必要性を感じた。「赤松街道」をきっかけにした有難い出会いである。
さて北海道を後にして次の寒波に合わせて能登半島を目指すこととする。函館17:30に出航する津軽海峡フェリーで21:10に青森港に着く。青森市内は温泉銭湯が多く何軒かは夜遅くまで営業しており非常に有難い。その中で23時まで営業している「出町温泉」に向かう。泉質はアルカリ性単純温泉で源泉47.1℃の掛け流し。湯船の向こうには三保松原と思われるタイル絵。先を急ぐため東北道の津軽サービスエリアで車中泊とする。
七飯町の赤松街道(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)