(長野で松茸収穫より続く)

 

3日目 10月13日 明鏡洞を経て浦富海岸そして鳥取砂丘へ

 

伊吹山の麓から夜明けとともに走り出し、若狭湾に面した福井県高浜町にある「明鏡洞」に立ち寄る。ここは永禄8(1565)年に逸見昌経が築城した高浜城の跡地で、現在は城山公園として整備され、日本海の荒波に洗われた「八穴の奇勝」と呼ばれる八つの洞穴がありいずれも岩肌に松が佇む。「明鏡洞」はその中でも水平線が美しく望め室町幕府三代将軍・足利義満も訪れたと伝わる。この旅における「松の名所」である。まだまだ掘り下げたい。

鳥取県岩美町「浦富海岸」に13時ごろに到着。山陰海岸ジオパークでもダイナミックな岩場でハイライトとも言えるロケーションに松が佇んでいて、いずれも撮影を重ねるというか撮影修行したい場所。ここもこの旅における「松の名所」といえる。「鴨ヶ磯海岸」「城原海岸」「千貫松島」そのいずれもが日本海の荒波に揉まれて花崗岩が侵食され奇岩や洞門そして砂浜が広がるのだ。

夕暮れ時に鳥取砂丘に到着。今日は朝から海風で砂丘には風紋ができているが3連休ということもあり多くの足跡で撮影には厳しい。明日は鳥取砂丘のレンジャーを取材する目処が立ったので連休明けに隠岐の島に渡れるように調整を進める。

恒例の日帰り温泉は山陰最古級の岩井温泉にある「岩井ゆかむり温泉」へ。泉質はカルシウム・ナトリウム硫酸塩泉で源泉49.8℃が駐車場の一角から湧いていて、湯船でちょうど適温になっているようで掛け流し。380円の共同浴場で地元の人が多く、ここだけはゆっくりと地域の時間が流れているような感じ。またお気に入りの温泉が増えた。

 

4日目 10月14日 鳥取砂丘のレンジャー

 

今日は夜明けとともに浦富海岸で撮影してから、9時に「鳥取砂丘ビジターセンター」へ。施設は環境省・鳥取県・鳥取市の三者による管理運営協議会が運営しているが、常駐しているレンジャーは鳥取県の職員。お会いしたのはリーダー玉野俊昌雅さんで鳥取県生活環境部の方である。

鳥取県は、砂丘に書かれた巨大な落書きを見た観光客から残念だとの声を受けるなど多様な課題に対応すべく、「日本一の鳥取砂丘を守り育てる条例」を策定した。その基本理念は「鳥取砂丘の保全と再生は、その固有環境の貴重さと、砂丘利用者の行動が本県の経済、文化等に及ぼす影響を勘案し、地域の健全な発展との調和にも配慮しながら、砂丘利用者の理解と協力の下に協働して推進すること」としている。このためレンジャーは、砂丘の維持管理から観光客の安全管理まで、そして砂丘にまつわる自然、文化、観光、歴史などありとあらゆることを理解して行動するのが仕事。現在は職員5名と臨時職員2名で業務にあたっている。

玉野さんに鳥取砂丘の暦年の空撮を見せてもらった。昭和20年代は千代川の両岸に現在の4倍ほどの砂丘が広がっているが、戦後の食糧難に対応するため農地として開拓され昭和30年代後半には現在の鳥取砂丘の規模まで縮小。そして昭和40年代に入って飛砂から農地や暮らしを守ってきた松の砂防林が要因で草地が広がり、1991年には砂丘の42%ほどが草地になってしまう。それ以降、重機を使って根こそぎ草を抜いていたが、生息する昆虫などの生き物を保全するため人力に切り替えて多くのボランティアによって支えられている。

そのボランティア活動は砂丘に関わる官民の組織による「鳥取砂丘未来会議」が支援しているが事務局は玉野さんたち。この会議体は観光、環境、経済などの民間団体、地権者、研究機関、行政の19組織からなり「鳥取砂丘グランドデザイン」を定め、「『100年後も砂の動く生きている砂丘』と『4つのエリアの目標』の実現に向けて、様々な主体と協働し、鳥取砂丘の優れた環境を次世代に確実に引き継いでいくとともに、鳥取砂丘の多面的価値を時流に応じて高め、鳥取砂丘及びその周辺地域の活性化に資することを目的とする」としている。

ボランティア除草はアダプト方式を導入しており、地域の企業や団体が参加、特に山陰合同銀行は砂防林内の除草も行なっている。松がれ被害が増えている砂防林は、令和に入って道路に飛砂の被害が目立つようになり、砂丘入り口付近に新規に植林を行ったエリアがある。その際に肥料木として秋グミを植えているようだ。それが以下の再掲にある2019,2020年の砂防林造成である。このエリアは除草や松葉かきをするなどして散策できる明るい砂防林を目指したいとしている。

以下は2024年2月22日に鳥取砂丘に訪れた際のブログから再掲する。

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報文「鳥取砂丘の開発と保全」によると、層序は古砂丘、旧砂丘、新砂丘、現砂丘に分けられる。縄文から室町時代の土器や五輪塔などが出土しているため、飛砂が抑えられ植生で覆われた砂丘で生活が営まれていたが、それ以降は砂丘の動きが激しく生活できなくなった。想像だが、全国各地と同じように戦国の混乱期に鳥取砂丘の海岸植生も伐採などで荒れたのはないかと考えられる。そして、やはり江戸時代に入って新田開発や砂防林の植林も始まり、様々な作物を生産する砂丘開発が手がけられる。

とはいえ、広大な砂丘の大部分は不毛のままで、明治時代から第二次世界大戦後まで陸軍の演習地として利用されるなど、自然のまま放置されていたようだ。戦後の食糧難に対応して、1953(昭和28)年には全国25万haの砂丘を対象に「海岸砂地地帯農業振興臨時措置法」が制定され、砂防造林、砂丘開発が大規模に行われ、現在見ることができる全国各地の海岸林の松は、この時期に植えられたものが多い。

鳥取砂丘も松に守られた作付け地は野菜、たばこ、果物の産地へと進化していくが、この事業によって砂の動きが止まり海浜植物などで砂丘の緑化が進んでいった。しかし広大な砂丘を観光資源とするために緑化を食い止め、1955(昭和30)年に天然記念物に指定され山陰海岸国定公園にも指定され日本有数の観光地となっていった。

砂丘という名称だが、明治以降に地学や考古学で使用されていたが、有島武郎が鳥取砂丘を訪れた際に「浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしきわれを見出てけるかも」の歌を残し1ヶ月後に心中したことがきっかけのようだ。

鳥取砂丘では、大きくはこのような歴史を辿ってきているが、現在の植林地に立つ看板には、大正から昭和と意外と近年になってから今の鳥取大学農学部の原勝教授らによって考案された松の植樹方式によって現在の安定した砂防林が育成され現在に至る。しかしその砂防林もマツクイムシ被害が広がり大量の砂が道路や建物を覆うようになったため、2019、2020年に砂防林造成したと書かれていた。時流に応じて砂丘開発や砂丘維持など揺れながら現在に至るが、地元住民にとって砂との戦いは進行形なのだ。

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玉野さんたちレンジャーは、砂丘の植生、生息する動物、鳥、昆虫、オアシスと呼ばれる砂丘の中にある池、砂丘に何ヶ所かあるすりばち、阿蘇の火山灰を含む地層、縄文時代の暮らしの痕跡などなどの知識から観光客へのレスキュー活動まで、本当に幅広い知識を要する仕事であることが数時間の会話だったが理解できた。玉野さんのポートレイトを砂丘背景に撮影して再会を約束。

用語で気になったことを記しておく。「堆砂垣(たいさがき)」と「静砂垣(せいさがき)」である。日本海岸林学会の用語で調べると、「堆砂垣」は「林帯に吹き寄せる飛砂を捕捉する。砂草帯の役割。風力を弱め、また障害物となってそこに風の運んできた砂を落とさせ、堆積させる。堆砂垣が砂いっぱいになる頃には材料交換も兼ねてたまった砂を重機で海側に押し戻す」と定義され、「静砂垣」は「垣内の風速を弱めて飛砂の発生を防ぎ、この垣内に植栽されたクロマツ幼齢木等の植栽木を守る」と定義されている。「堆砂垣」に守られた位置にあるのが「静砂垣」と理解しておくが、画像での説明がないため、恥ずかしながら現場で判別ができない。

鳥取砂丘で最も樹齢を数えている松は、鳥取城から一里に植えられた「一里松」だと言われている。この松は2本だと思っていたが、玉野さんから砂が堆積して2本に見えるが元は1本と聞いて納得できた。それぞれの幹だと100年程度に見受けられるのだが、これが1本松だとすると200-300年程度の巨樹ではないかと推察される。

隠岐島に渡る明日の午後のフェリーを予約。できるだけ境港に近づこうと考え恒例の日帰り温泉は三朝温泉の起源と言われている「株湯」へ。泉質は株湯2つの混合泉で単純弱放射能温泉、源泉は49℃、湯船はとっても熱くて44℃近い感じ。地元の方の利用は多いようだが、空いていてゆっくり癒してもらった。とっても良い感じの温泉でお気に入りがまた増えた。今日の鳥取砂丘は26℃、就寝時間の今は22℃。長野でヒーターを付けたのは一昨日。難しい気候である。

 

鳥取砂丘レンジャーの玉野俊雅さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(隠岐の国での物語へ続く)