(浦富海岸と鳥取砂丘より続く)

 

5日目 10月15日 弓ヶ浜を経ていよいよ隠岐へ

 

今日は雨がパラつくスタート。隠岐島へ渡るフェリーが発着する境港に向かう途中に弓ヶ浜へ立ち寄り、2月にお会いした鳥取県「弓ヶ浜・白砂青松そだて隊」の活動団体の一つ「和田町マツ守り隊」の安達卓雄さんに再会した。83歳とは思えない若々しい安達さんだが、2月に会った際は高齢化した活動への不安を話されていたのだが、今日は5月25日に開催された鳥取県などが主催する「第68回鳥取県植樹祭」に協力した話や、「日本海岸林学会」の米子大会がまもなく開催されるが現地視察の案内をすることになっている話などを含め、今後のことを目を輝かせて話されているので、「お元気そうでホッとしました」と話し前回よりも良い笑顔のポートレイトを撮影した。ここ弓ヶ浜は大山を背景にできる場所。アングルを探し歩き境港のフェリー乗り場へ向かった。

境港は水木しげる生誕の地であることをすっかり忘れていたが、JR境港駅は「鬼太郎駅」になっており、平日にも関わらずインバウンドも含む家族連れや若いグループなどで賑わっていた。

さて隠岐諸島である。まず調べ始めて隠岐諸島は4島からなることを知った。向かうのはサステナビリティ人脈では有名な海士町ではなく隠岐の島町。4つの島からなる隠岐諸島へのフェリーは、隠岐の島町への直行便だと2時間半なのだが満車で乗れず別の島を経由する4時間の船旅となったが空いていた。他の3島はマツクイムシ被害により松のある風景は壊滅的との情報もあり今回は隠岐の島町に絞ったのだった。着いてすぐに向かったのは恒例の日帰り温泉で「隠岐温泉GOKA」へ滑り込みで間に合う。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉、源泉は40.3℃、ぬめり感があってとっても癒された。島は雨模様だが夜中に上がる予想。明日朝の撮影を考え山中にポツンとある白島崎展望台の公衆トイレ付きの駐車場で車中泊とした。

 

6日目 10月16日 隠岐の民家で夕食

 

今日は夜明けとともに雨が上がり、予定通り隠岐の島町の銘木「唐傘の松」から撮影。中村海岸に近く隠岐の島町立北小学校の隣にある広場に1本だけ堂々と佇む。隠岐の島町教育委員会の看板によると、推定樹齢500年のクロマツで高さ16m、枝の張り最大25m。この松を中心とした広場は、島根県指定無形民族文化財で隠岐三大祭りの一つ「隠岐武良祭風流の祭場」で校庭ではなく独特の空間となっている。祭りの中で別々の神社から出発した太陽の神と月の神がやってきて松の周りを巡り参会するという。祭りの象徴的存在となっている松は、元来は防風林で植えられたもので、昭和15年の写真には「明神の松」と呼ばれた巨樹があり2本まとめて国の天然記念物に指定されていたが、「明神の松」が枯れた際に指定は解除され現在は隠岐の島町指定の史跡・天然記念物になっている。雨あがりの朝、背後の山々には霧がかかり澄んだ空気の中で、松の周りを巡りながらアングルを求めた。

国道485号線から島を周回する県道44号線を走り、今日の取材の場である「屋那の松原」に向かう途中、山の稜線にはアカマツが並び、海沿いの小さな漁村に降りていくとどの集落にも大きなクロマツが見えてくる。稜線のアカマツで松枯れが点在しているのが目に入ってくるが、なんとかまだこの島の松のある風景は耐えているようだ。その中で収穫だったのは「那久の集落」で見つけた風除け板のある赤瓦家の家の敷地内に佇むクロマツの巨樹だ。これこそ隠岐の島らしい松の風景ではないかと感じ入った。この旅の「松の名所」に加えたい。

10時に「屋那の松原」で保全活動をされている高宮守國さんと待ち合わせ。松原のすぐ近くにお住まいで今年80歳。高宮さんの話を思い出し書き起こしてみる。

平成8(1996)年に農地整備事業が始まりメンバーの一人となって補助金申請を担当する。夏の南西風から農地を守るため松枯れなどで荒廃した松原を回復させるため松原保全の補助事業を平成15(2003)年から開始し自ら推進した。植樹する際には島根県から抵抗性松を取り寄せたが、地元の森林組合に相談したところ自分たちで育てている抵抗性松を提供してもらうなど協力を得ることができた。その後は、町の補助金で下草刈りや竹藪の伐採などを毎年行ってきたが高齢化のため顔を出すメンバーも減り、自分の年齢も考えるとそろそろできなくなる。町は担当者が変わると今後どうするかと聞いてくれるので、これまでは補助金を継続したいと言ってきたが、そろそろ行政が直接施業してくれるとありがたいと思っている。松原には樹齢100年程度のものが最も大きいが、若い頃には釜谷神社にあるような巨樹もあった。海岸は玉石の浜が30mほど広がっていてワカメを干していた。干す場所はくじ引きで割り当てられていた。今は護岸工事をして浜はなくなってしまい松原の一部がいつの間にか残土置き場になってしまっていたが、平成25(2013)年ごろに住友林業が植林をしてくれることになり整地して1m間隔の密植をして現在に至る。といった感じだ。

松原の近くには隠岐特有の「屋那の船小屋群」があり、すぐ背後に高宮さんの話にも出てきた「釜谷神社」があり、集落を見下ろすように山岳信仰の「高田山」がそびえているのが見える。「釜谷神社」の鳥居の脇には2本の大きなクロマツがあるのだが、これほどの巨樹が仲良く並ぶのは珍しいのではないかと思う。このクロマツは記録によると1231年に神社を山から移築した際に植えられたとされているという。もしそうだとすると推定樹齢は800年を数える。生きた樹木の樹齢を特定するのは困難なのでなんとも言えないが、これまで多くの松の巨樹を見てきた経験から推察すると300-500年と言われても不思議はない大きさである。高宮さんも幼少の頃は神社の境内でよく遊んだそうなのでこのクロマツの巨樹の根元で撮影することにした。

隠岐に渡る前、海士町で「風と土と」を経営する阿部裕志さんに連絡をして教えてもらった「京見屋分店」に行くことにして西郷に向かう。お店に入って早々、とても気持ちの良い空間であることを肌で感じ、美味しいカフェオレを飲みながら店主の谷田晃さんと奥様の谷田一子さんと隠岐の島らしいゆったりとした時間を過ごさせてもらった。「日本の暮らしと松」をテーマに全国を旅して撮影をしている話をしたら、晃さんから大石芳野さんの写真集「隠岐の国」を勧められた。ページをめくってみたら、すべてモノクロで撮影されており抜群の取材力と写真力に圧倒された。住むように撮影していたそうだと聞き納得。本人の「あとがき」を読むと、撮影していた集落のはずれでおじいさんに声を掛けられ、家で食事を誘われたことがきっかけとなって隠岐に通うようになったというエピソードが書かれていたのが印象的。晃さん曰くこれが隠岐らしさだそうだ。

素敵な話だなあと感じつつ、さあ撮影を頑張ろうと島を周回する県道44号線を走り何ヶ所か撮影して、朝立ち寄った「那久の集落」に佇むクロマツの巨樹を夕暮れの光でも撮影した。撮り終えて、涼しい風に吹かれながら日没を待つようにくつろいでいたら、おじさんが歩み寄ってくれたので挨拶をしたらなんとはなしに会話が始まった。日本全国の松がある風景や関わる人の撮影をしていることを話し、「このクロマツの家の方ですか?」と聞くと隣に住んでいるという。一人暮らしをしていた方が最近亡くなって、親族はいるが今はこの家には誰も住んでいないことを教えてくれた。ならばお隣のこの男性を被写体にしようかなと思っていたら、「今日はどこで宿泊?」と聞かれ、背後に止めてある車を指差し「あそこです」というと、「車で寝ているならこの後は動きやすいだろうから家で食事をしていきなさい」と誘われた。

おや?これはさっき読んだ大石芳野さんのエピソードと一緒ではないか?!

とはいえさすがに急に準備も大変でしょうと遠慮したが、いやいや大丈夫だと結局は誘われるがままに家に招き入れてもらうと、すでに食卓にはご家族分と客人用も並んでいた。おじさんは安倍昭次さん77歳。食卓に並んだアジのフライは、安倍さんが昨日の夕方に目の前の港の堤防で釣ったもの。「大漁だったので近所にも配ったが余ったのでフライにしたんだよ」ということで進められるままにご飯もおかわりして4匹もいただいて満腹。もっと食べろと言われたがさすがに無理と断った。安倍さんは15歳でお父さんを亡くし大工見習いになって家計を支える大黒柱になった。15歳で家族を支えるのは並大抵ではなく民生委員に助けてもらうこともあったという。10年ほどで独り立ちして一人親方になった。仲間たちと仕事を都合付けて助け合ってきた。生涯で建てた家は島内で30軒ほど。いろんな施主や設計士がいたんだよと今は笑顔で話すが表情にその苦労が偲ばれる。

安倍さんの言葉で強く印象に残ったのは「生きることは耐えること。切れたらダメだすべてを失う。」と自分に言い聞かせてきたという話だ。これは教訓として心に深く染み入る。「もう引退して時々仕事を手伝うが、パソコンで囲碁をやったり、舟で釣りに行ったりしているんだ。ただ、海は山の山菜採りより天候を読むのが難しい。天気だけでなく風や潮も読まなければ思うように釣れない。危険もあるがそこが面白い。」朴訥とした話し方で一つひとつが印象深く耳に入ってくる。すると「あとはシャワーを浴びたら寝るだけだろ」と風呂まで誘ってもらったのだが、体調のためにも温泉は欠かせないため「どうしても温泉に入りたいんです」と遠慮して「明日の朝また来るので今日の御礼に写真を撮らせてください」と約束して「隠岐温泉GOKA」へ向かった。到着したら顔を覚えてもらっていて笑顔で迎えてもらえた。

隠岐の初日はこうして暮れていった。写真の神様が微笑んでくれたようだ。感動は大きい。

 

京見屋分店の谷田晃さんと一子さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

7日目 10月17日 今日も隠岐の島町

 

今日も夜明けとともに撮影開始。「屋那の船小屋群」で信仰の対象「高田山」を背景に「釜谷神社」の大松が朝の光で浮かび上がることを期待して粘ってみた。その後、昨夕ご馳走になった「那久の集落」の安倍昭次さんを訪ね約束通り御礼の撮影をした。

「写真はいい表情が作れないから苦手なんだ。」と言っているのを聞きながら、ご自宅にある大工仕事の作業場に差し込む光に浮かぶ姿を撮ると引き締まった良い表情をされる。作業場という空間がこの表情を作るのだろう。これは正直とても手応えのある写真になると直感した。するとお気に入りの舟で撮って欲しいと言われたので、リクエストはありがたいと港の堤防に停泊しているご自身の舟に乗った姿を撮る。背景には「那久のクロマツ」と安倍さんの自宅が入るアングルに固定して自慢げな笑顔をもらってシャッターを切った。最後にご自宅前で陸の愛車の前に立ってもらいすぐ背後に「那久のクロマツ」のあるアングルで撮らせてもらった。3箇所目は緊張も解れて満面の笑みをもらった。すると「まだ時間はあるか?コーヒーでも飲んで行きなさい」と今日も招かれ、豆から挽いた美味しいモカをいただいた。

この「松韻を聴く旅」は、「日本の暮らしと松」を求めて全国各地を移動しているため、一つの地域に通い詰めて取材を重ね撮影を重ねて作品づくりを深める作業と比べて、被写体との向き合いが表層的になってしまっているのが課題だと認識している。もちろん毎回1時間以上お話を聞き出し、話の流れからおもむろにお話に出た松の前で写真を撮りましょうなどとタイミングを考えて声をかけるようにしているのだが、今回の安倍さんとの出会いはその課題への一つの回答だったようにも思う。大石芳野さんは、こういった機会を積み重ねて島に住むように「隠岐の国」を撮り続けたのだろう。写真の神様が修行の機会を作ってくれたのだと感謝したい。すでに還暦を過ぎたというのに、20代の頃にバイクで野宿の一人旅をしていた頃に戻ったような感覚で過ごした。

昨日から島の西側の撮影ポイントを探索したことになるので、次は島の東側にある隠岐らしい景観の「浄土が浦」へ向かう。ここは大山隠岐国立公園のポイントにもなっていて、現在は営業していないがビジターセンターのような建物があり24時間使用可能のトイレとシャワーが完備されている。トレッキングコースは残念ながら崖崩れが修復されておらず、全てを見ることはできなかったが撮影ポイントは見つけることができた。ここは1965年発行の切手で第2次国立公園「大山隠岐国立公園」の絵柄にもなっている。

3時ごろ西郷にある「京見屋分店」へ行き、谷田晃さん一子さんご夫妻に昨日のエピソードを報告した。晃さんが引っ張り出してくれた、写真家の大石芳野さんの写真集「隠岐の国」の「あとがき」に会ったエピソードに似た体験をしたことを伝えた。写真集を見てから声をかけてもらうまでの時間が、写真の神様に導かれたのではないかと思えるような流れだったので、どうしても報告したかったのだ。「隠岐らしい経験をしましたね」と一緒に喜んでもらえ今日も楽しい時間となった。「京見屋分店」には、従来の島民も移住者も良い空気感を持って足を運んでいるようだ。今日も移住して自分の思いを実現しようとする人がいる。このお店にいるだけで隠岐の島町の強い引力を感じる。わずか2日の滞在だからか肌で感じる。

とても間接的ではあるが隠岐の島町で出会った松の物語に関わる人となった谷田夫妻を御礼も兼ねてお店の前で撮影する。するとすぐ近くにある西郷小学校の生徒たちが運動会帰りでワイワイとやってきたので流れで一緒に撮影する。これが谷田夫妻&「京見屋分店」の魅力なんだと感じながらシャッターを切った。きっとその空気感が充満している写真になっているだろう。

夕暮れは「中村海岸」にある樹齢を重ねた防風林を撮影。地図では松林があることを把握していたが全く情報はなかった。しかしクロマツたちの状態はとても良好で魅力的な景観だった。撮影していると目の前の家の女性が声をかけてくれたので少し話を聞いてみた。「この辺りの松は背が高いからか雷が落ちることもある。戦時中は松根油を取っていた。北西風が強い日は松林がないと大変。だから昔の人が植えたんだと思う。数年前はたくさんの松が弱っていたが、樹幹注入をしたからか最近は元気になった。」改めてネットで検索してもこの松林についての記述はなく、歴史背景はわからないため目測ではあるが、多くのクロマツは樹齢が数百年はありそうな印象なので、幕藩時代から松林はあったのではないかと思われる。女性の話を思い返しこの地域の暮らしを長年守り続けてきたクロマツたちを改めて眺め直し日没まで撮影した。

恒例の日帰り温泉は隠岐の島町で唯一の温泉施設「隠岐温泉GOKA」へ。これで3日連続だ。車中泊は昨夜と同様の中村海岸にあるキャンプ場周辺の駐車場。ここは新しく建てられたトイレ&コインシャワーが完備で24時間使用可能。月明かりで松のシルエットが浮かび上がり、今日の日中は25℃程度で今は22℃程度ありそう。とても気持が良いのでしばし夜間撮影を行った。

 

お世話になった安倍昭次さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8日目 10月18日 隠岐最終日

 

今日も夜明けととにも撮影開始。ネットで検索してもあまり情報が出てこない「中村海岸」の松林だが、この旅にとっては「松の名所」と言える素敵な場所なのだ。松林を抜けて少し歩くと、隠岐の島町の銘木である「唐傘の松」が佇む隠岐三大祭りの一つ「武良祭り」の広い祭場に着く。祭りは奇数年に開催されるが偶数年にも規模が小さい祭りはあるようで、数日前に刈られた草に火入れをしている人がいた。

初日に車中泊した隠岐の島町の最北端にある白島崎。灯台のある展望台からの眺望を松越しに撮影。ここも隠岐の島町に点在するこの旅ならではの「松の名所」になるだろう。そういえば「京見屋分店」の谷田一子さんが中村小学校(現在の北小学校)の教員をしていた時の話をしていたことを思い出し、考え方次第では「唐傘の松」にゆかりのある人になるので、本土へのフェリー受付終了30分前とギリギリだったが挨拶も兼ねて3日連続で「京見屋分店」に立ち寄った。

一子さんに改めて話を聞くと、「20年ほど前に中村小学校の教員をしていたが、学校には校庭がなく隣が「武良祭り」の祭場だったので、低学年の体育の授業は「唐傘の松」の周りで行っていて、高学年は近くにある農村公園を使っていた。運動会も農村公園だった。子ども達は唐傘の松の根元にある石垣に登って遊んだり、鬼ごっこの陣地にもなってた。」と松のエピソードを聞いていたら、一子さんの友人の澤幸子さんと野村睦美さんがやってきた。すると、なんと睦美さんは中村小学校の卒業生で「唐傘の松」がある広い祭場の目の前がご実家というではないか!そして陸上部の部活では「唐傘の松」の周りを走っていたとのこと。中村海岸の松林も合わせて大切な故郷の風景だという思いを聞かせてもらった。しっかりと松の風景が記憶に佇んでいるのだった。睦美さんに「唐傘の松」が全国でも有数の巨樹だと思うと伝えると喜んでくれた。こうした情報がシビックプライド、郷土愛を深めることになるだろう。松に限らず巨樹にその可能性を感じる。フェリー受付時間が迫って焦っていたが、「唐傘の松」にゆかりのある人として撮影。この旅では松にゆかりのある人のポートレイトのほとんどが各地で頑張る高齢の男性が多く、もう少し女性のポートレイトを増やせたらと思っていたので有り難い出会いとなった。

初めての隠岐の島町だったが、県道44号、国道485号、県道47号などを使って島を一周し、事前に得ていた松の情報と実走によって「松の名所」と言える景観に出会えた。そして感動的な出来事もあった。隠岐諸島の他の3島はマツクイムシ被害で壊滅的な状態となってしまったという話も聞いた。隠岐の島町は山の稜線や高度のある斜面にはアカマツ、海沿いの海岸林や集落にはクロマツが健在で事前情報より松が多く車窓が楽しい島だった。

ただ、ところどころにマツクイムシ被害と思われる赤く立ち枯れたアカマツが見受けらた。そうはなってほしくはないが確実に被害は広がるだろう。数年後に隠岐の島町でも壊滅状態になる可能性は十分にある。しかし、そうならないように行政がしっかり予算と人を付けて未然に防ぎ、知る人ぞ知る銘木や海岸林などが、これからの隠岐の自然遺産として脚光を浴び大切に維持管理されることを期待する。

この島に少し足を踏み入れる感動的な出来事。それは何より「京見屋分店」を教えてもらって足を運んだことが大きい。改めて教えてくれた海士町の阿部裕志さんに感謝。そして谷田晃さん一子さんご夫妻に感謝。

本土へのフェリーは直行便でキャンセルが出たので2時間ほどの船旅となり楽だったが相当な混雑だった。恒例の日帰り温泉は皆生温泉へ。皆生ホテルの日帰り施設「汐の湯」へ。泉質はナトリウムカルシウム塩化物泉、源泉は64.2℃で加水循環。少し塩味で柔らかいお湯に癒してもらえた。今日の気温は日中29℃、夜は24℃ぐらいあり湯上がりに海沿いの整備された道を歩くと、松並木がライトアップされ素敵な雰囲気だったので夜間撮影と相成った。

 

隠岐の島町の銘木「唐傘の松」(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(出雲から山口縦走へ続く)