(松と富士残雪より続く)

 

 1日目 4月18日 松島の桜に間に合わず

 

茅ヶ崎を昼前に出て松島まで来た。期待した西行戻しの松公園の桜は散っており数日早ければ良かったようだ。松島では桜前線に間に合わなかった。残念。海沿いを走る国道45号線にでて小石浜の駐車スペースに車をとめ七福神の名がつく島々の夕景を撮影。今日は黄砂がひどいのだが写真には良い効果を見せてくれている。

恒例の日帰り温泉は「松島元湯湯の原温泉霊泉亭」。ここは平安時代に瑞巌寺のお坊さんが重病を癒したことから命名されたとあり今の施設は創業200年。建物も浴室も木造で味わい深い。泉質は単純冷鉱泉、源泉加温。柔らかいお湯で肌がスベスベになり癒された。

これから数日は久しぶりに東北太平洋側の松や復興支援で知り合った方に会える。

 

 2日目 4月19日 松島、浄土の風景に松

 

夜明け前から雄島の最寄りの駐車場に車を停めて撮影開始。平安時代、この島に見仏上人が12年間もとどまり法華経60,000部を読誦し多くの奇跡を起こした伝説がある。このため100を超える岩窟が掘られ、平安時代から明治時代まで極楽浄土の入り口として死者供養が行われ、多くの人骨が残る。特に女性は汚れがあるため浄土に行けないといわれていたため多くの女性の板碑が立つ。

松島は霊場であり観光を目的として訪れるようになったのは芭蕉が変化のきっかけとなり明治時代に入ってからと言われている。見仏上人の再来と言われた頼賢は雄島に22年とどまり生を終え、その徳行を後世に伝えるために建てられた頼賢碑が立つ丘からは、海に浮かぶ大小の島々には松が青々と茂るのがみえ、昔の人はこれを極楽浄土の風景と見たのかと思うと、日本人の心の拠り所になる風景には松が欠かせないとなる。このほか撮影したポイントは萱野ヶ崎、福浦島、馬の背、五大堂周辺。誰もが知る日本三景をいかに捉えるのかが課題であり、それは松がある風景を撮るということに尽きる。

昼には「みちのく伊達政宗歴史館」で、南三陸の佐藤太一くんと6年ぶりに再会。この施設の社長をはじめ、南三陸の林業会社である佐久の専務などの要職に就き様々な事業を手掛けている。2013年に東北大学や環境省の皆さんと議論しながら支援活動をしていた「東北グリーン復興」の一環で南三陸町に初めて訪ねた時に出会って意気投合し、南三陸の国際森林認証FSCの取得に向けて取り組んだ。「山さ、ございん」という委員会を立ち上げ普及啓発のプラットフォームも構築し「山のものづくり」「山のものがたり」を考え南三陸らしい魅力発信をした。複数の企業を誘致したり町の鳥であるイヌワシの保全活動まで多彩であった。その流れで戸倉漁協の皆さんと牡蠣養殖では日本で初めての国際認証ASC取得まで手伝い、「海さ、ございん」という委員会を立ち上げ普及啓発のプラットフォームも構築した。それを「南三陸さ、ございん」というウェブサイトで統一した。それが種となって様々な事業に発展しているようで嬉しい限りだ。太一くんとの出会いがなければあれほど南三陸に関わることはなかったろうし、自己成長を実感できる取り組みはできなかった。

 

明日は閖上、荒浜で取材予定のため、恒例の日帰り温泉は新しくできた施設アクアイグニス仙台の「藤塚の湯」。この辺りは2013年から2019年まで通ったエリア。何枚かの作品を2021年に出版した写真集「松韻を聴く」に収めているが、津波で流され荒地にポツポツと松が残っている光景だったが、このような施設ができてこのエリアが新たな魅力を発信していることに我がことのように嬉しく感じた。泉質は塩化物炭酸水素塩泉でぬめり感があり肌に良さそうである。

 

松島にて浄土の風景を想う(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

3日目 4月20日 閖上生まれの松

 

6年ぶりの名取市閖上だ。すっかり区画は整備されていて記憶の風景とは違った新しい顔を見せてくれている。日和山は変わらず佇み、津波の被害に会いながらも生き残った松の巨樹も変わらず佇んでいた。この松は2018年に撮影したものを写真集「松韻を聴く」に収めた。大切な被写体だ。

そして、本当に久しぶりに「ゆりりん愛護会」の大橋信彦さんと再会。津波に飲まれた閖上の松の松笠から取った種を取り、今は亡き小川真さんの指導の元で苗を育てている頃によくお会いした。荒浜地区や岩沼地区で植樹された現場も何度か連れて行ってもらったし、小川真さんが指導された松川浦の植樹活動にも一緒に参加させていただいた。あの頃の幼き苗は大きいものは背丈をはるか超えてすっかり樹木らしい姿になっていた。成長した松は宮城県が管理することになっている。健全な松林が維持されることを願う。

当時育んでいた大橋さんの松苗は地元の閖上地区に植えることができなかった。行政は出生地にはこだわらず抵抗生松を名取市の海岸線の長さ約4km広さ約10haに植樹するとしたためで、抵抗生松だと特定できない大橋さんの苗は里帰りが叶わなかった。行政の無情を感じたものだが、確かにマツクイムシ被害を未然に防ぐ方策として当時は仕方がなかったかもしれない。ところが、マツクイムシも世代交代をすればその頃の抵抗生松の効力も機能しないと言われており、今となっては傍で応援していた者からすると切なくやるせない気持ちになる。

しかし、閖上の苗木を閖上に植えることを諦めなかった大橋さん。5年前、ついに宿願かなって閖上に竣工した環境省の「みちのく潮風トレイル名取トレイルセンター」の敷地内に、20本の閖上の松苗の植樹を無事に果たされた。その苗も大人の背丈を超えて立派に成長していた。大橋さんに副センター長の板橋真美さんを紹介してもらい、写真集「松韻を聴く」を書棚に置いてもらうことにした。こういった場所でこそ観てもらいたい写真集なのだ。ちなみにこのセンターを運営するNPO法人みちのくトレイルクラブの代表理事は佐々木豊志さん、常務理事は相澤久美さん。おふたりとも東北復興支援を通して懇意になっていたのでビックリだ。板橋さんが連絡され、おふたりから早速メッセージをいただいたのは嬉しかった。

大橋さんの今の活動フェーズは、植樹エリアの清掃と雑木などの伐採作業だ。植樹エリアを案内してもらったが、いずれもきれいに地面が露出してどこでも歩ける状態になっている。そろそろ間伐作業に入るのだが宮城県が列状間伐を指導してきているそうだ。大橋さんとしては、せっかく成長率の良い個体を伐採するのは忍びなく、育成状態を見て選木したいと打ち合わせを重ねている。職員の皆さんが現場をみて理解を示してくれたらと願う。

午後は2016年に撮影した荒浜周辺を再訪。当然ながら被写体にした枯れた松の姿はない。しかし津波を乗り越え今も青々と葉をつける松に会うことができた。これこそこの撮影プロジェクトには欠かせない松たちだ。日没間際に明日の取材地である陸前高田に至り、「奇跡の一本松」周辺の撮影。2015年に撮影した周辺に残されている折れた松や根株は風化して崩れてきており、今の状況を改めて撮影。やはり目の前にある今を撮影しておくことが大切であることを痛感する。

恒例の日帰り温泉は、広田半島の先端にある「黒崎仙峡温泉」。ナトリウム、カルシウム塩化物泉で加熱して加水なし。柔らかいお湯で肌に優しく癒された。

 

ゆりりん愛護会の大橋信彦さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

4日目 4月21日 高田松原を守る会

 

今日は日の出の頃に動き始め、多くの松が佇む大船渡市の碁石海岸へ。2015年に撮影した碁石浜の松はすでになく碁石海岸全体を歩き被写体を探す。印象深かったのは穴通磯の眺め。丘にはマツクイムシ被害で立ち枯れた松、背景の大船渡湾の入り口には巨大な防潮堤、沖合の山並みには淡い山桜の群生。今の東北の風景の要素が凝縮されたような光景だった。

10時に陸前高田の「高田松原津波復興祈念公園」管理事務所で「高田松原を守る会」の鈴木善久理事長とお会いする約束。2015年5月にお会いして以来。当時は内陸の畑で松苗を育成しており、まだ小さな苗を愛おしそうに手に持つ鈴木さんのポートレイトを撮影していた。鈴木さんは震災で前理事長がお亡くなりになったため引き継いた職をこれまで務めてきたが後進に譲りこの夏からは顧問となる。

これまで「高田松原を守る会」が育てた松苗は全て高田松原の植樹。養浜された砂浜にある高さ3mの第一線堤と丘側から見える高さ12.5mの第二線堤の間に岩手県3万本、守る会1万本を植樹。そのうち600本は震災前に拾い集めた松笠から取った高田松原のDNAをもった松苗だった。陸前高田の松原の始まりは、江戸時代に遡り1666(寛文6)年に仙台藩の命を受けて高田の豪商である菅野杢之助が松の苗木15,000本を植えた。それまでは砂で耕地が埋まり作物が採れない年もあったという。昭和2年に日本百景に指定され、昭和15年には名勝に指定された日本を代表する白砂青松の地であったのだ。震災後、大槌の女性から震災前にクリスマスの飾りのために高田松原で拾った松笠があるとの申し出があった。それから育まれたDNAを持った松苗600本となったのだ。まさに次世代へ語り継ぐ、陸前高田の松原の古来よりつながる物語なのである。

2021年に植樹は終わりすでに背の高い松は4mを超えているが深刻な問題が発生している。苗床となった土砂は、今は気仙町となっている高台となった山からベルトコンベアで運び出されたものだったため、なんとクズが繁茂してしまい松という松に絡みつき、夏は青々と葉を広げるため陽樹である松は光合成ができずに軒並み枯れていってしまったという。「高田松原を守る会」の活動はだいたい10人前後が集まって行う。最年少が50代と世代交代が深刻な課題で、高齢化した組織にこの対応は過酷である。鈴木さんと現場を歩くと、今は葉が落ちているが気が遠くなるほどあらゆるところに絡みついているのが見える。来月には岩手県に現状を詳細に報告し対処してもらえるように働きかけるそうだ。震災後から多くのボランティアの皆さんと育てた苗がようやく生きていく場所で根付いたと思った矢先の出来事。しかし良い話も聞かせてもらえた。岩手県から、12.5mの巨大な第2線堤の手前の公園に「高田松原を守る会」が育てた松苗を植樹してほしいと相談があったという。防潮堤の内陸側の公園なので、将来は巨大な防潮堤を隠す松林になるだろう。今は背丈よりも大きくなって立ち並んでいる。2015年には鈴木さんにひざまづいて松苗に手を添えてもらって撮影したが、今回は鈴木さんに立ったまま枝に手を添えてもらって撮影した。

さて、数日晴天が続く予報に変わってきたため、桜前線を追いかけて桜と松が見事な青森県の弘前城に向かうことにした。しかし一気に駆け上がるのは無理があるので、太平洋側の松の巨樹に会いながら北上しようと思い、釜石市の鵜住居から伸びる箱崎の半島に赤松の巨樹が2カ所佇むようなので期待して向った。

箱崎漁港の崖の上にある箱崎神社の境内に赤松の巨樹が何本も立っていて圧巻。しかしこの迫力を写真にす流のが難しい。続いて半島の先に行くと民家があるのは白浜の集落までのようでこの先は道も途絶える。車を止めると2人の少年たちに声をかけられた。「何をしているんですか?」「そのあたりの林の中にある大きな松の木を撮影するんだよ」「一緒に行っていいですか?」「もちろんおいで」と言ったのだが、いざ林の中に入ろうとしたら「なんだか怖いから良いです」と言って引き返してしまった。老松の前で少年2人の写真が撮れると期待したのだが残念。崖下にある民家の敷地らしき空間を抜けると杉林の中に「天狗松」が密やかに佇んでいた。横には赤い鳥居があり手入れされている。個人の敷地かもしれないため、挨拶をして通ったが反応はなく撮影を終えて杉林から降りると、崖下ではなく道を挟んだ家から70代のご夫婦が偶然出てこられて挨拶。するとなんと「天狗松」はご夫婦の敷地とのこと。ご夫婦のお名前は佐々木照人さんとヨリ子さん。いつもヨリ子さんが掃除をされているという。ヨリ子さんに少し枯れてきていますねと聞くと、「マツクイムシ被害かもしれないから森林組合にきてもらったら根元の崖を削ったので水あげが悪くなって弱っていることがわかった」そうだ。神奈川から撮影に来たことをとても喜んでくださったが、照人さんはとても方言が強くて全てが理解できない。「樹勢が弱ってしまったがこの松は神様の松で何があっても倒れない」「俺は何度も松のてっぺんに天狗が立つのを見た」と聞こえてくるのだ。「天狗松の物語」を大事にしたいのでこの話はそっとこのままにしておく。

親しくお話をさせてもらったので、松に関わる人としてご夫婦に庭先で並んでもらって撮影。するとヨリ子さんから「いっぺんには食べられないだろうからみなさんと分けて食べて」と、たくさんのワカメを詰めた袋をいただいてしまった。これから1週間は旅すると言ったが受け取ってしまった。これは大変だと思って調べてみたら、宅配便の営業所が大槌町にあることがわかりクール便で発送しホッと一安心。青森に向けて、インター最寄りの道の駅があれば降りよう、温泉が近くにあれば良いな、と考えながら釜石道を走っていたら、花巻東和インターに「道の駅とうわ」の表示があり温泉マークが付いていた。ラッキーである。しかも「東和温泉」のレストランのラストオーダーにギリギリ間に合う。食後にゆっくり温泉へ。泉質は低張性弱アルカリ性温泉で43℃の源泉掛け流し。しっかり温めてもらえた。

ちなみに東和は茅ヶ崎に移住して没した萬鉄五郎が生まれた土沢がある町で、一度は行きたいと思っていた「萬鉄五郎記念美術館」が至近。しかし、明日の早朝に出発するので機会を改めるとする。

 

奇跡の一本松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(春の東北(2)桜前線を追いかけてへ続く)