松韻を聴く旅 晩夏の房総半島(2)
4日目 9月19日 センチメンタル南房総
今日も南房総は暑く湿度が高かった。海岸線は白くかすみ日中は33℃前後はあったと思う。夜になって突然の雷雨で湿度は95%、気温も27℃と熱帯夜が続く。真夏である。
南房総の代表的な松のある風景地である鴨川。ここをどのように撮影するのかまさに修行である。海岸林の松林の中を抜ける道路は全国どこにでもある。しかし南房総の松林であることをどう切り取るのか。台風14号からの大きく形の良いウネリが届き、ついつい波を見てしまうが撮影モードに戻しとにかく歩く。この水平線から寄せてくるウネリを取り込むことで鴨川らしさを考えることとした。加えて陳腐になってしまうかもだが鴨川シーワールドのシャチもこの土地らしさだろうと考えてみた。
南房総市の和田、千倉と移動し館山市の漁師町である布良に至る。南房総は平砂浦を起点として、昭和62(1987)年から平成3(1991)年にかけて多い時は毎週のように撮影に通った思い出の地であり、写真家を志すきっかけとなった大切な地である。今に至る原点なのだ。平成4(1992)年に銀座と梅田のキヤノンサロンで「週末の楽園 MInami-Boso」と題して初めての個展が開催できたのであった。
その後は、関西支社に転勤したことで通うことが叶わず1997年に再び転勤で戻り湘南を住処に選んだ。南房総には平成12(2000)年ごろまでは時々足を運んだが、様々な要因が重なり頻繁に通う機会は作れなかった。湘南を撮影地として切り替え写真家として成長するためには前進あるのみと言い聞かせ、南房総から離れて25年近くも経ってしまっていた。再訪してみると景色も変わり、お世話になった今は亡き人々の面影が次々によぎってしまい、思ってもないほどにセンチメンタルになってしまった。
布良は、重要文化財になっている青木繁の「海の幸」が明治37(1904)年に描かれた地であることは有名だ。この絵には様々なエピソードがあるが、所蔵する公益財団法人石橋財団学芸課長だった森山秀子さんが書かれた論文「青木繁《海の幸》をめぐって」が興味深い。その後、明治43(1910)年には結核療養で訪れていた中村彝が「海辺の村(白壁の家)」を描いている。最近では布良在住だった画家のイシイタカシさんが描いた「布良の春」という作品もある。この「布良の春」が描かれた場所を当時見つけて、イシイさんお会いした時に撮影をしたことを伝えたことも思い出した。
今ではすっかり風情は変わってしまったが、「布良の春」が描かれた場所は今回も見つけることができた。時代を遡ると江戸から明治にかけてマグロの漁獲量では全国有数の漁村だった布良。足繁く撮影に訪れていた当時もとても絵になる漁師町で人の賑わいもあったのだが、今日は空き家や崩れた家に塀だけが残った空き地などがとにかく目につく。機能していない漁港もある。少子高齢化の荒波は、あの豊かな情緒ある漁師町ですら衰退させしまっていたのだ。帰宅したらあの頃に撮影した南房総のポジフィルムを丁寧に見直そうと思った。白間津の花畑や布良の漁港はとても生き生きとしていたように思えたのだ。
恒例の日帰り温泉は今日もホテルの立ち寄り温泉を利用。千倉にある「美味しい温泉 夢みさき」へ。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉、源泉を加水、加温している。1階の内湯と7階の展望露天風呂があるのだが、7階に行ってみると貸切状態だったので、真っ暗な海を見下ろし潮騒を聞きながらゆっくりと癒してもらった。
晩夏の布良(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
5日目 9月20日 センチメンタル平砂浦
今日も南房総は暑かった。館山市内を中心に移動したが朝からぐんぐん気温は上がり日中は34℃前後、湿度も高く歩くだけで汗びっしょり。1987年から1991年まで毎週のように撮影に通って勝手知ったる平砂浦は、良いウネリが入っているけど長い海岸線に見えるサーファーはほんの数名。全くもってサーファーパラダイスな状態にあった。
房総半島の南端に位置する「平砂浦」は約4.7km、海岸林は111ha。日本緑化センターの「日本の松原物語」によると、元禄16(1703)年の大地震による陸地の隆起と津波により海岸は一面の砂浜になったようだ。明治の頃になって、堆積した飛砂を排除するため、近くを流れる小川を堰き止め水路を掘り、水路の前方に柵を作り後方に砂を流す「砂流し」が行われていた。しかし第二次世界大戦前に一帯が海軍用地として買収され防砂林は伐採されてしまう。昭和23年から海岸砂防造林事業の第一人者である河田杰博士による工事が始まる。河田博士はこの地を「彷徨砂丘」と見抜き、被害をもたらす風の方向は西風と見極め、クロマツを主な植栽樹種として砂丘造林を行った。
その後については、海洋開発論文集の第19巻(2003年7月)に掲載された「千葉県外房に位置する平砂浦海岸における保安林造成と海岸侵食」によると、旧海岸線ぎりぎりまで保安林区域が過剰に拡張され、その保安林を海からの塩分および飛砂から守るために海浜砂を使用して土堤と護岸が建設された結果、海浜が消失されたと推定。平砂浦では自然現象としての海岸侵食によってではなく、陸側からの保安林の前進と、それを防護する施設の急速な前進が海浜幅の消失を招いたと結論されると述べている。
そして今回の目視では、海岸侵食だけでなく1990年前後の風景とは一変し松林を抜けて海岸に歩くような場所が全くなくなっているのだ。道路から海岸方向の見通しが良くなってしまっており、マツクイムシ被害で壊滅状態となって大規模な植林事業を行っている最中と見てとれた。取材先を探したが今回は該当する方にお会いすることができなかった。機会を改めたい。
35年前にお世話なった「ペンション海岸通り」「ペンション季節風」「館山ファミリーパーク」「ホテルアクシオン館山」などは建物は残っているが経営は変わり、円筒形の塔がシンボル的な建物だった「館山グランドホテル」もアクアライン開業で日帰り可能エリアとなったことで、2011年に建て替え「館山カントリークラブ」のみの経営へとシフトしていた。
あの頃は日中の撮影が終わって暗くなると、撮影した写真で製作したポストカードの行商のため平砂浦にあるホテル、ペンション、観光施設を主に回った。南房総を撮影する写真家として発信したかったし、何よりフィルム代を稼ぐためでもあった。きっかけは「ペンション海岸通り」の看板を撮影していたらオーナーの小島徹志さんに声をかけられたことだった。別のカメラマンと勘違いだったよと言われたのだが、建物に招き入れてもらって話をしていたら、うちのオリジナルのポストカードを作ってよと言ってもらったのだった。そして近隣のペンションでも販売してみたらと声をかけてくださった。
その流れで懇意にしてもらったのが「ペンションマーメイド」の高橋保さん。そして今は亡き「ペンション季節風」の黒谷尚司さん。高橋保さんがちょうどパンフレットを作成していたので写真を使ってもらえた。黒谷さんとは特に仲良くしてもらって各部屋に額装した写真を展示させてもらい、パンフレットはデザインから撮影まで全てを任せてくれた。そこで当時会社の仕事で懇意にしてもらっていたコピーライターやデザイナーのみなさんに季節風に泊まりにきてもらって、パンフレットを完成させたのだった。すると「海岸通り」の小島さんからもうちのパンフレットも作ってと声をかけてもらえた。
ポストカードの販売で思い出深いのは「オーパ・ヴィラージュ」の支配人だった梅津隆英さんだ。当時は「部屋に電話もつけているので今更ポストカードなんて売れないよ」と言いながら置いてもらえた。するとどの施設よりも売れたのだった。梅津さんから「写真がいいのかなあ」と笑いながら「もっと種類を増やしてよ」と言ってもらい、パンフレットの撮影も声をかけてもらった。そしてギャラリーのように額装を展示するスペースも作っていただいた。
何よりお世話になったのが「館山ファミリーパーク」の支配人だった佐久間明男さん。団体バスが乗り付ける観光施設だけあって数が出る。ポピー畑が人気でふんだんに撮影させてもらいオリジナルのポストカードを作らせてもらえた。撮影を終えて夕方の閉館時間の頃に、佐久間さんたち職員のみなさんが詰めている事務所に挨拶に行くと、布良にある富鮨によく連れていってもらった。他の職員のみなさんにも優しく接してもらい、館内で「ひなたぼっこ」という楽焼の工房を運営していた画家の中尾英文さんにも仲良くしてもらって、いろいろ語り合って刺激を頂いたことも懐かしい。
「平砂浦ビーチホテル」では売店を取り仕切っていた鈴木るり子さんと相談してポストカードを置いてもらった。「ホテルアクシオン館山」(館山リゾートホテル)は山内副支配人と相談してオリジナルのポストカードを作らせてもらった。それと現在も千倉にある「Le Ceebe(ル・セーべ)」というカフェの女性オーナーから声をかけてもらって、ポピーの大型パネルを店内の一番良い場所にかけてもらったことも思い出す。
南房総通いを始めた昭和62(1987)年は、まさにバブル真っ只中で、観光産業を振興すべく国民が多様な休暇を楽しめる民間事業を総合的に開発することを目的にした総合保養地域整備法(リゾート法)が制定された年でもあった。南房総のリゾート志向を高めるため平成元(1989)年に、写真を撮り始めて足掛け2年足らずにも関わらず、「アワプラニング」という会社から南房総リゾートブック「NEPTUNE」を年2回発行するので表紙やグラビアを担当して欲しいと願ってもない相談をいただいた。声をかけてくださったのはアワプラニング社長の佐藤嘉尚さん。「面白半分」を出版された後、平砂浦にできたペンションオーパ村(現在はオーパ・ヴィラージュ)で「かくれんぼ」というペンションを経営した後、再び出版業に戻って「アワプラニング」を設立されたばかりだった。佐藤さんを紹介してくださったのはペンションオーパ村で一緒にペンション経営をしていたオーパ・ヴィラージュの梅津さんだ。1989年夏秋号、1990年冬春号、1990年夏秋号、1991年冬春号、1991年夏秋号、1992年早春号と、6号に渡って表紙とグラビアに使ってもらえた。バブルも終焉となって、1992年夏号は房総・三浦・横浜号と範囲を広げ拡販を狙ったようで南房総専門の写真家にはお声が掛からなくなったが、その号をもって廃刊となっていた。
館山市内にあった「雑貨屋ねむ」。店主の高山朋子さんはすべてのポストカードを扱ってくださった。地元の女子中高生に人気アイテムだったようでとてもよく売れたのだ。撮影を終えてクタクタで「雑貨屋ねむ」の閉店間際に行って高山さんと話すのは癒しの時間でもあった。そして館山駅の近くにある「ギャラリーザンボア」を教えてもらってオーナーの栗原祥泰さんと相談して初個展「Cape Memories 風薫る岬にて」を1990年に開催させてもらったのだった。千葉日報、房日新聞、南房タイムスといった地元紙に掲載されたり、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞の千葉県版にも掲載してもらった。
多くの温かい気持ちをいただき平砂浦周辺が第2の故郷のような気持ちなっていた。こうして振り返ってみると、多くの人に応援してもらった駆け出しを今にいかせているとは言い難い。35年という長い歩みは最善だったのだろうか。写真家としても人間としても、もっと成長できたのではないだろうか。写真家として歩むのであれば、独立してこの下積みを続けるべきだったのだと思う反面、ある人からバブルが弾けて厳しい時代になるから会社員と写真家の二足の草鞋が良いという一言で踏みとどまったことを良かったのではないかとも思う。
あのままバブルやリゾート法の流れに乗っていたらどうなっていただろう。人生は後悔だらけと言い出したらキリがない。この恵まれた素晴らしい経験をこれからどう活かすのかとポジティブに考えよう。撮影したフィルムは全て保存しており、まずは見直してその歩みを確かめることから始めようと思った。定年退職までひたすら前を向いて突っ走してきたことを痛感する。それにしてもこの節目は様々なことを振り返させられるものだ。やれやれ、これでは「松韻を聞く旅」から「南房総センチメンタルな旅」になってしまいそうだ。話を先に進めよう。
内房にも松のある海岸線があるのではないかと期待し、松の風景が散見される館山市の「鏡が浦」から北上。せっかくなのでCMや映画の撮影地になってブレイクしている富浦町の「原岡桟橋」も立ち寄ってみると少し離れたところに松が佇んでいた。桟橋と一緒に収めることは難しいが良い場所であった。「原岡桟橋」は富士山が正面に浮かぶロケーションで、国内でも珍しい木製の桟橋といわれているが途中から先端まではコンクリート造りである。
富浦町の「南無谷海岸」や南房総市の「岩井海岸」は砂浜の横を車道が走るが縁石があるだけで堤防がない。岩井海岸には少し松が残っている。鋸南町にある源頼朝上陸地に隣接する「大六海岸」の車道には縁石すらなく、車道沿いにあるコミュニティセンターに良い感じで松が佇んでいた。正面には富士山が浮かぶ。この内房ラインは雪が被った富士山の季節に再訪し思考を深めたい。
「晩夏の房総半島」はこれで切り上げよう。房総半島は松が少ないと考えていたが、他の地域では撮影できない「松の名所」が特定できたことは大きな収穫だ。これまで北海道、沖縄、群馬、埼玉、東京、石川、奈良を除く40の府県を撮影してきて、その土地ならではの松の風景というハードルはどんどん高くなり、それを超えることを目指す撮影修行へと進化してきた。よって、この旅における「松の名所」を発見しアングルを得られた時の喜びは大きい。
今回はここで帰路につくことにしたが、アクアラインがかなり渋滞しているようで、懐かしの東京湾フェリーで帰ることにした。しかし、考えてみたら台風のウネリが入っているのでそれなりに揺れたのであった。
今回は5日間と短く、走行距離も835km。
晩夏の鏡が浦(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)