(初夏の東北へ(4)最後の夜は松島で語らうより続く)

 

1日目、6月12日、関西有数の松の名所を巡る

 

思い出深い紀伊半島を巡る。学生時代にバイクで1周したり、30代の頃には子ども達を連れて煙樹ヶ浜や田辺、白浜などに足を運んだ。そして、2016年から2018年には南方熊楠顕彰館のみなさんと連携して「ジャパニーズ・エコロジー南方熊楠のゆかりの地を歩く」という冊子やポスターの制作のため南紀の各地を撮影し、日比谷、大阪府、石川県の図書館で展示とセミナーの開催をした。

さて、この「松韻を聴く旅」は昨年7月から開始して1年継続してきた。今回で第15弾。毎月の後半を旅にあてることを自分に課して156日を費やし、走行距離は39,000km超えてきた。今回は紀伊半島を巡るとしてまずは西の付け根とも言える大阪府堺市にある「浜寺公園」から開始した。

公園のHPや公園内の看板などによると、「浜寺公園」は明治6年に完成した日本最古の公園の1つで4000本の松が佇む。1704-1711年の宝永年間にこの地域の5か村の住民が防潮防砂のために松を植えたのが原型とされている。延享4(1747)年から田安家の所領となり明治元(1868)年から松林を伐採し新田開発に着手。明治維新後に着任した堺県令も松林を開発しようとしていたが、明治6(1873)年にここを訪れた大久保利通が悲惨な状況を目の当たりにして中止するよう働きかけた。堺県令は伐採を止めるだけでなく「浜寺公園」として整備するに至る。大久保利通がその時に読んだ歌が「惜松碑」として刻まれて残る。「音に聞く 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」

明治39(1906)年から、南海電鉄と大阪毎日新聞の提携により浜寺海水浴場は関西一円での海浜リゾートへと発展していく。明治41(1908)年には、公園内のテニスコートで大阪毎日新聞主催の「全国中学校庭球選手権大会」が開催された。これは現在の「全国高等学校テニス選手権大会」及び「全国高等学校対抗テニス大会」へと発展しており、「全国選抜高校テニス大会」「国民体育大会テニス競技」と並ぶ高校テニス3大全国大会のひとつとなっている。

昭和20(1945)年から昭和33(1958)年までアメリカ軍に接収され、その3年後には泉北臨海工業地帯の埋め立てが始まり海水浴場は姿を消し、広い松林の公園で当時を偲ぶことができる。最も古い私鉄駅舎として親しまれていた浜寺公園駅は、明治40(1907)年に辰野金吾の設計により建てられた木造平屋建ての駅舎で、国の登録有形文化財に登録されており2016年に高架化に伴って使用終了したが、その姿は変わらず残されている。

このように関西では歴史ある海浜リゾートとして名を馳せた「浜寺公園」。現在は大阪府営公園として維持管理され、かつて名松と呼ばれた松は姿を見ることはできないが、今も味わい深い樹形をした老松が多く佇む大切な松の名所なのである。

和歌山県に入り日本遺産に選定されている「和歌の浦」に向かう。和歌の浦の特設HPによると、万葉の歌人、文人墨客に愛され謳われた景勝の地で、和歌の聖地とされたことから「若の浦」が転じて「和歌の浦」となった。紀州徳川家ゆかりの建造物も点在する。元和5(1619)年に家康の十男である頼宣が初代藩主となり2年後に紀州東照宮を創建。例大祭は和歌祭として親しまれ、御正道として嘉永4(1851)年に10代藩主の治宝によって「不老橋」が架けられた。また治宝は雄大な庭園「養翠園」を造営し共に現在も残る。頼宣が建立した水上楼閣「観海閣」は工事中で撮影できなかったため再訪を考えたい。いずれも松が存在感を発揮し、やはり日本古来の風光明媚な場所は松の名所と言えるのだ。

真夏日のような気候で熱中症気味になりながら今日の宿泊地である「煙樹ヶ浜」の中央部にある「煙樹海岸キャンプ場」へ。30年ほど前に関西支社勤務時代に時々訪れた懐かしい場所。恒例の日帰り温泉は日高町営の「みちしおの湯」へ。ナトリウムカルシウム塩化物泉で塩味強め、お湯が柔らかく疲れを癒してもらった。

途中、懐かしの「産湯海水浴場」で夕日を眺めるノスタルジックな時間を過ごす。よく足を運んでいたのは、産湯集落の中を通り抜けて堤防の外側に車を止めた目の前で泳げるエリアだった。どこか遠く南国の秘密のスポットのような場所で時間も遠く過去にさかのぼるような感覚になる場所だった。

ところで「産湯」という地名だが、産湯八幡神社の社伝などでは、神功皇后(169?-269?)が新羅から帰り難波よりこの地に立ち寄って皇子(応神天皇)を出産する際、言い伝えにより神社の井戸水を沸かして産湯とし、のちに社殿を創設したとされている。神功皇后とは、日本初の肖像入りのお札️️(1円、5円、10円)に描かれた人物であり、古代神話に登場する「軍事的、ジェンダー的な観点から、非常に有益な両面性を備えた女性シンボル」(陣内恵梨, 2022)とされている人物である。非常に興味深い人物のゆかりの地である。

 

養翠園の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

2日目 6月13日 近畿最大規模の煙樹ヶ浜

 

今日は美浜町役場で「煙樹ヶ浜」を管理している農林水産建設課の中西秀次さんと、「煙樹ヶ浜保安林保護育成会」会長の西垣哲雄さんとお会いする約束。中西さんは長く「煙樹ヶ浜」を担当され内容の濃い資料を作成してくださっていた。

美浜町の資料によると、和歌山県内30の市町村のうち2番目に小さな美浜町に、近畿最大規模を誇る「煙樹ヶ浜」は横たわる。長さ4.5km、最大幅500m、面積78ha。松だけの単一林は海岸線に沿った部分などに限られるが、全体的には上層木はクロマツ、アカマツが占め、中層、下層木はヤマモモやトベラなどで構成され、背後に広がる日高平野に住む住民の暮らしを守っている。

元々クロマツが自生していたと言われているが、初代紀州藩主の徳川頼宣が紀州の名に恥じない立派な森林を形成して暮らしの安定を図ろうとし、元和5(1619)年に本格的に植林を開始し山林保護政策を実施。嘉永4(1851)年には地域住民が松の苗木1万本を植栽したようだ。

西垣さんは松林の中にある中学校の保健体育の先生だった時に生徒たちと松林保全に関わったのがきっかけで引退後は積極的に活動。「学校のグランドも生徒が踏みしめていると雑草は生えにくが、人が入っていないグランドは雑草が生えているので一目瞭然だ。それと一緒で松林も人が入れば下草は生えにくくなり松葉かきができる白砂青松を取り戻すことができる」と熱く語る。

「煙樹ヶ浜保安林保護育成会」は町民、町内の団体、町関係職員を会員に、松林の保護育成や緑化思想の高揚を図ることを目的に、平成4(1992)年に発足した。2月の第2日曜を「松の日」と定め植樹、除伐、松葉かき、清掃活動を行っている。

またアダプション・プログラム(松の里親制度)を導入しており、美浜町では「煙樹ヶ浜」の松林約78haを35ブロックに分け、町内全12地区、小中学校、松林周辺の事業者に分担している。会員数は現在130名。つまり地域で完結しているのだ。この地域力は素晴らしい。「煙樹ヶ浜」に対する郷土愛の育成にもつながっているだろう。しかし、その反面、高齢化に伴う活動の停滞が心配される。和歌山県内の企業団体や有志など幅広く視野に入れて活動の継続性を検討する必要も出てくるだろう。

美浜町では「保安林管理員制度」を平成12年から導入し煙樹ヶ浜の維持管理のため専任の職員を2名採用している。広大な松林のマツクイムシ被害対策など美浜町の本気度が伺える。「煙樹ヶ浜」に移動して、管理員である尾崎洋さんと北崎悠介さんに休憩中に話を聞かせてもらった。「町の歳時記に合わせて松林の下草刈りから清掃、伐倒などを行っている」と尾崎さんはいう。それだけ松林が町のインフラであるというか、主要な公的施設が松林周辺にあるということ。

また地域住民から「松林が暗くて寂しいイメージで近寄りにくい」とか、「松林の中の雑草がなく見通しのいい環境にしてほしい」といった声に応えるべく毎年8月から3月ごろまで4、5名の作業員を臨時雇用して改善を行っている。その結果だと思うのだが、撮影しているとあらゆるところで松林の中の小径を散歩する人を多く見かけた。微笑ましいのは犬の散歩だけでなくご夫婦連れ立って歩く人たちが多いのだ。社会インフラ、市民の憩いの場、観光資源、美浜町にとって「煙樹ヶ浜」はなくてはならない存在なのだ。

中西さんが「煙樹ヶ浜」を俯瞰できる場所があると言って、車で細い山道をしばらく走って行ったのは「西山ピクニック緑地」。とても手入れされた公園で中西さんが小学生の時は遠足で来たそうだ。足元に太く濃い煙樹ヶ浜の松林が見え、遠くは田辺や白浜が望遠できる。そもそも「煙樹ヶ浜」という地名は、大正時代に松林を描いた画家「近藤浩一路」がその絵に「煙樹ヶ浜」と名付けたことから始まったとされている。美浜町が管理する施設が充実したキャンプ場は「煙樹海岸キャンプ場」となっており、それならば松の名所として「煙樹松原」と呼んでもいいのではないかと思うのである。

和歌山県のHPによると、近代になって松の老齢化に危機感を持った「松本栄次郎」が昭和24(1949)年から私財を投じて数万本もの松の苗木を植え始める。しかし昭和36(1961)年の第二室戸台風による高潮と風で約3000本の若木が砂に埋まってしまう。この時79歳という高齢にも関わらず再び松を植え始める。昭和40(1965)年に83歳で亡くなった翌年、松林を見守るように頌徳碑が建立され栄次郎の松林を愛し育てる心を今に伝える。栄次郎は明治14(1881)年に吉原浦(現美浜町)に生まれ、明治30(1897)年にアメリカに渡り漁師となり52歳で帰国して地元で漁業に従事、昭和7(1932)年に吉原浦漁業組合を創設して初代会長を務めた人物である。

美浜町では、これまで何度か調査し煙樹ヶ浜の松の本数を把握してきた。今期も調査することになり樹高2.5m以上の松を数えている。前回の調査は平成11(1999)年に行い54,108本だった。またこれまでのマツクイムシ被害は昭和21(1946)年ごろから始まり、駆除対策として昭和43(1968)年から年2回の薬剤の地上散布、昭和49(1974)年から空中散布も開始し、昭和53(1978)年からは年2回の散布を3回に増やす。平成元(1989)年から枯れ松の特別伐倒駆除を開始。平成8(1996)年に空中散布を取り止め平成9(1997)年からは年3回の地上散布を行っている。このほかに年間30本程度の樹幹注入を行い6年サイクルで施工している。なお、特別伐倒駆除で伐倒した材はチップ業者へ運搬し破砕。ダンボールやパーティクルボードの原料、木質バイオマス発電に利用し、細い枝などは焼却処分を行っているようだ。

それと松葉の活用も平成18(2006)年から模索してきているという。松葉を使った堆肥で農作物を栽培して地域ブランドとして販売を目指すというもの。これまでに「松キュウリ」「松トマト」「松イチゴ」などにトライし、現在は「松キュウリ」を出荷している。

さて、撮影だが、広大な松林でその土地らしさを表現するのにはいつも悩まされる。ひたすら歩き繰り返し撮影を行うが空振り空振りの繰り返しでもある。しかしここだというアングルに行き当たった時の喜びはひとしお。とは言っても、このアングルが本当に得たかったものなのかは、日が経ってからゆっくりと他のエリアの写真と並べて初めて見えてくるものだ。その中でも、モニターの隅々に気持ちが行き渡りガッチリと緊張感が伝わってくるアングルを捉え、納得してシャッターを切れる時がある。そんな時はカメラをセットしたまま感慨に浸るというか、しばらくその場を味わいたくなることもある。今日も何枚かはその候補となりそうなアングルを見つけることができたように思う。「煙樹ヶ浜」は近畿では最大級の松林のため改めて足を運び納得できるアングルを増やしたい。

明日は紀宝町の七里御浜の撮影&取材のため、紀勢自動車道ですさみ町まで走り、「橋杭岩」や「南方曼荼羅の風景地」13ヶ所の一つである「九龍島」と鯛が泳ぐ姿に見える「鯛島」など、本州最南端らしい強い西陽に照らされた迫力のある風景が展開する海沿いのカーブだらけの国道42号線を一気に走り三重県に入る。松が佇む風景を探して「玉ノ浦海水浴場」に寄り道。南紀らしい味わい深い場所だった。

恒例の日帰り温泉は那智勝浦町にある「きよもん湯」。1500年の歴史を持つと言われ「源泉掛け流し」ではなく「源泉流しっ放し」。アルカリ性単純温泉だが、硫黄の匂いとお湯の滑り感が強い。とっても良い温泉であった。

 

煙樹ヶ浜を守る尾崎洋さんと北崎悠介さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

3日目 6月14日 七里御浜で明け暮れる

 

「七里御浜」は三重県の紀宝町・御浜町・熊野市にまたがる日本で一番長い砂礫海岸といわれ約25kmある。林野庁のお勧めの国有林にも指定されているが、近年のマツクイムシ被害だけでなく台風などの大波によって砂礫がえぐられるなど被害を受け続けている。

1987(昭和62)年に、「七里御浜松林を守る協議会」が、熊野市、御浜町、紀宝町、熊野農林事務所、吉野熊野国立公園管理事務所、三重森林管理署によって設立され、事務局は紀宝町が担っている。協議会の規約によると設立の目的は、「七里御浜の松林をはじめとする海岸防災林の自然環境の保全・整備・公益的機能の維持向上を図るため、関係機関の連携を密にするとともに地域住民の協力を得て効果的かつ適切な対策を講じ、七里御浜海岸の防災林の保全・整備・利活用に資することを目的とする。」とある。これによって、海岸林の保全を国と自治体が連携を密にして地域住民と協働する座組みを明文化し持続性の確保ができている。あとは住民や企業団体などの民間の主体的な取り組みがあれば鬼に金棒のように思う。

今日は夕方から紀宝町産業振興課の清水祥斗さんに会う約束。「七里御浜」は砂礫の海岸でどん深のため遊泳禁止だが、紀宝町で生まれ育った清水さんは学校帰りに立ち寄って海をよく眺めていたといい、最近では子ども達を連れて遊びに行くという。住民にとっては生活に近く親しみがある場所だという。協議会としては、毎年3月ごろに市民町民の参加を募り、熊野市、御浜町、紀宝町のそれぞれで林野庁などの指導のもと、松の植樹活動を続けている。その目的は規約にある通り、海岸防災林としての環境保全、整備、公益的機能の維持向上だ。具体的には防風機能の充実、マツクイムシ対策、そしてウミガメが帰ってくる環境整備となる。しかし、大波により砂礫が削り取られる被害が続き、松の植樹活動も場所を選びながら一市二町で年間300本程度を植えているのが現状だ。

特に紀宝町は、1988(昭和63)年に全国の市町村では初めて「ウミガメ保護条例」を制定した町なのだ。紀宝町としては海岸パトロールや小学生の保護活動などの「ウミガメ保護」をキーアクションに海岸保全に取り組んでいる。砂礫がえぐられたり日陰がないなどウミガメが産卵しやすい条件が整わず、ここ数年は上陸が途絶えているようだ。道の駅は「ウミガメ公園」が併設されており、ウミガメに関する保護・啓発活動の拠点となっている。とてもウミガメ愛の強い保護員さんがいるようでX(Twitter)の発信内容が濃厚。混獲されたウミガメを預かり海に帰す取り組みも行っているようだ。

熊野古道の伊勢路「浜街道」でもある七里御浜。松の見どころは海岸防災林の松だけでなく、世界遺産に指定されている無社殿の「花の窟神社」「獅子岩」もあった。「花の窟」はイザナギノミコトの御陵で最古の神社とも言われ、年2回の例大祭では、日本一長い170mの大綱を御神体の窟の上から境内南隅の「松の御神木!」に渡すとあり喜び勇んで向かった。また近くにある「獅子岩」は、以前Facebookの友達の書き込みで周辺に松が自生していることを把握していたが自分の目でも確かめられ安堵する。「獅子岩」は七里御浜の北の端に近い場所にあるのだが、高さ25m、周囲210mの奇岩が長い海岸の中に唐突に鎮座しておりその存在が特徴的であった。

昼頃には尾鷲市の「三木里町」まで足を伸ばし、紀州五代藩主徳川吉宗が1712(正徳2)年に防風林として植えるように指示したとされる松の巨樹を撮影。推定樹齢は300年以上になる。昭和45年の看板に幹回り4mとあるが実際はさらに大きく感じる松。ほかにも老松が5本佇んでいる。とても静かで時間が止まったような集落にある海水浴場。ここ三木里町は、伊勢路の最難関といわれ狼や山賊が出ると恐れられた八鬼山の麓に位置し、古い街並みが残り300人ほどが暮らすとても安堵する優しい佇まいで、尾鷲市南部の海沿いに8つの集落があるが唯一の白砂青松を持つ。そのような歴史的、地理的な背景を感じるからか、いつまでも居残っていたい場所である。

恒例の日帰り温泉は、新宮まで戻って本宮方面にしばらく走り「熊野川温泉」へ。泉質はアルカリ性単純泉、源泉は25℃ほど。強い日差しで汗だくだったが十分に癒してもらった。明日から天気は崩れる予報だったので帰路につくことも考えたが、どうもそんなに崩れないような予報に変わってきており、様子をみながら行動を考えたい。

 

獅子岩の足元には松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

 4日目 6月15日 熊野本宮で語らう

 

今日は午後から雨の予報だったので、午前中の曇天を活かそうと考え串本町まで戻って、国の名勝指定された「南方曼荼羅の風景地」13ヶ所の一つである「九龍島」と鯛が泳ぐ姿に見える「鯛島」を撮影。特に「鯛島」の背中にはまるで立派な背ビレのように松が立ち並んでいるのを先日確認していた。南紀の海岸に浮かぶ岩には松ではなく常緑の広葉樹が生えていることが多く、松が並ぶ岩は珍しいと思うのだ。そのため南紀らしい特徴的な岩と松の組み合わせを探していた。

午後は、熊野に来て連絡しないわけにはいかない大切な友人で、熊野エバンジェリストの大竹哲夫さんと6年ぶりの再会。2016年秋から2018年春にかけて、大竹さんと一緒に「南方曼荼羅風景地」をはじめとする南方熊楠ゆかりのある場所に足を運び撮影をしたのだ。思い返せば、延べ3週間ぐらいの合宿生活のような撮影旅だったのだが、大竹さんが語る熊楠の逸話がとにかくわかりやすいし、どこへ行ってもしっかりと語ってもらえ、その話を聞きながら見えてくる風景は熊楠がみた光景として浮かんでくるようなのだ。大竹さんがお会いするたびにご自身のブログ「み熊野ネット」で書いてくださっているのが何より嬉しい。

写真は撮影者が見えたものを撮る。熊楠がどんな思いを抱きどんな調査を行い何を得たのか、それを頭に浮かべながら被写体と向き合うと、見えている風景に見えていないものが写ると思うのだ。もちろんその写真を見て誰もが同じ感想を持つことはないだろう。しかし何かを感じ取ってくれるような写真を撮りたいのだ。それが写真家の力なのだ。そのためには人生経験が豊かであればあるほど含みのある写真が撮れると思っている。まだまだ修行の身である。

大竹さんと巡った撮影プロジェクトの成果として、2018年6月14日に「日比谷図書文化館」でのイベントを皮切りに「大阪府立図書館」と石川県野々市市の「学びの杜ののいち」へ巡回したのだが、ちょうど6年目の昨日に連絡を取り合っていたことを大竹さんが気づいた。きっと、大竹さんとタグを組んで撮影することに大きな意義があるということではないかと思いつくづくとご縁を感じるのだ。当時、展示で使ったA1サイズの写真ポスターがある。大竹さんが選定した熊楠の言葉をデザインし、その言葉に関連する写真を大竹さんとセレクトしたものだ。これまで使い道がなくずっと自宅で保管していたのだが、大竹さんにこそ保管してもらい地元で活用してもらった方が有難いと考え相談したら、南方熊楠顕彰館でも相談してみると言ってもらい預かってもらうことになった。

雨の中を本宮大社にお詣りしてから、大竹さんオススメの「Choux熊野とシュークリーム」へ。美味しいコーヒーと店舗販売のみのシュークリーム!を食べながら6年分の積もる話を3時間も語り合っていた。座っているとお店の人に「ちょっといいですか?」と声をかけられたので、「長居をしてすみません!」と立ち上がると、「いえいえ、もっと座っていてもらって大丈夫です。先ほど品切れだった季節商品の「なっ茶シュークリーム」が出来たのでいかがですか?」と。もちろんコーヒーと一緒に追加注文した。その後、これも大竹さんのオススメの「古本と飲み物kumano森のふくろう文庫」に行って店主の安原克彦さんを紹介してもらった。先ほどまで消防団員として行方不明者の捜索で山に入っていたという。話していると、きっと同世代的な感覚もあり、なんだか波長の合う人で初対面の感じがしなかったのである。

大竹さんとは再会を約束して別れ、とっても優しい気持ちになれたその足ですぐ近くの「湯ノ峰温泉」へ。雨の平日で人が少ない。最近きれいになったという共同浴場は92℃の源泉掛け流しで含硫黄ナトリウム炭酸水素塩泉。しっかり硫黄臭がする温泉で熱めの湯船で癒してもらった。やはり名湯は違う。湯上がりに大竹さんから差し入れてもらった「紀州熊野じゃばらサイダー」でリフレッシュ。いい休息日となった。

 

湯ノ峰温泉(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(紀伊半島をゆく(2)歴史の空間を想うへ続く)