(紀伊半島をゆく(1)紀州藩の松より続く)

 

5日目 6月16日 林業家との語らい

 

今朝は晴天ながら雲が多い空模様だったので、七里御浜と紀州五代藩主の徳川吉宗が植えさせたと言われている三木里海岸の松の巨樹を再撮影。先日よりはしっとりとした良い感じになっただろう。手応えを感じた。

いよいよ紀伊半島の東側を北上するが、尾鷲市、紀北町と北上するのに、ご連絡をしないわけにはいかないとっても大切な人生の先輩である「速水林業」の速水亨さんと紫乃さんご夫妻に無理を承知で突然のご連絡。

速水亨さんは仕事で出掛けなければならないが11時までなら在宅との返信があり突撃訪問。ご不在の紫乃さんからもご丁寧に返信をいただいた。有難い。

速水さんの山には2009年から2012年まで通い詰めて撮影し、2011年には「人工林の美、林業の現場。」と名付けて銀座、名古屋、梅田のキヤノンギャラリーで個展を、2012年には尾鷲市の熊野古道センターで企画展「熊野古道に沿う営み。人工林の美、林業の現場。」を開催し、会場では速水さんとの対談もさせていただいた。当時「私の森jp」で個展の案内をしていただき、熊野古道センターで取材していただきHPで紹介されている。

2011年は国際森林年で、林野庁は2008年から森の国民運動を進めており、その業務を受託しプロデュースしていたのだが、都市生活者が山を知るためにはその繋ぎ手とも言える林業従事者を知らずして語れないと考え、速水亨さんに相談をさせてもらって撮影をしたのだった。速水さんの見本林とも言える太田賀山林にある山小屋に泊まらせていただき、足掛け3年を要して見えてきた世界観を個展にまとめた。速水さんから学んだことを心に刻み、山に入って多様性豊かな山に入れば見えないものも見えてくる。

夕暮れの山小屋で速水さんが語った「日本の山では『生物多様性』だけでなく『万物多様性』が育まれている。魑魅魍魎が跋扈し、八百万の神がおわす、ここは多神教の国であり「伝承の国」日本なのだ」という言葉は忘れられない。普段は霊感的なものは全く感じないのだが、霧にかすむ早朝の山の中で一人で撮影していると、誰かに見られているように感じゾクっとしたので、山に頭を下げ祈るように撮った作品を速水さんに見てもらったら、「しっかり山が見えているじゃないか」と褒めてもらった。そんな体験をした撮影だった。

自宅を建てる時も速水さんに相談に乗ってもらい、柱は速水さんの山のヒノキを使った。

速水さんとお会いすると、いつも盛りだくさんのお話をしてくださるので刺激的な時間となる。多分、今の自分の実力以上のレベルの話がどんどんと続くのだ。林業というか樹木と向き合うことは科学的な理解が必要で応用することが重要だということが、毎回お話を聞いて感じることだ。ひたすら今の自分の持てる感性で想像しながら中身を理解していくような作業が続く。多分、速水さんの理解の2、3割程度しか吸収できていないようにも思う。それでも速水さんはいつも新しい話題を語ってくださるのだ。感謝しかない。

今日は「サステナビリティは木の時間を考えなければならない。そして木の時間と人の時間を繋ぐのが林業だ。」がとても心に残った言葉だった。もちろん「松」に関するお話も聞かせていただいた。やはり松林に経済循環を組み込むことが必要で、速水さんなりのアイデアも教えていただいた。出発前の慌ただしい中でお時間を取っていただいて感謝、感謝の日となった。

午後は、一気に紀伊半島を北上することとし、昨年9月に訪れた津市の「香良洲公園」の松の巨樹たちと鈴鹿市の「地蔵大松」へ。

津市の名勝に指定されている「香良洲公園」は、津市の資料によると鎌倉時代の文治2(1186)年に鴨長明が「伊勢記」の中で「うちすぐる 人もけぶりに なれよとや  もしおやきての さとの松風」と歌った場所である。「香良洲公園」にある大きな石碑に刻まれたその和歌の前書きである「詞書」を書き出してみる。

「香良洲の浜 伊勢へ下けるに、やきでのさと、くもずの浜などすぐるほどに、ややきりはれてゆき、伊勢の海のおきのしらす、浜の松原ほのぼのあらわれ、わたるをみれば、しほがまかすもしらず打ちりて、絵にかけりが如くなるをよめる」前日が雨だったのか霧が晴れて沖合の白洲や浜の松原が見えてきて、塩釜から煙が立ち上がり絵に描いたような眺めだという意味だろう。800年以上前の風景に多くの松が佇むさまが目に浮かぶようだ。

明治36(1903)年発行の「三重県案内記」では、「伊勢湾風景第一の地にして砂清く松古りて枝振り面白く風光絶佳、須磨明石に譲らず」と書かれていることが津市教育委員会が立てた看板に記されている。「松韻を聴く旅」はそんな在りし日の風景を現在の風景から浮かび上がらせたいのだ。ここ「香良洲公園」は、歳月を重ねた老松が多く、その枝ぶりもダイナミックなのだが支え棒もなく自立している姿が勇壮で、その可能性を感じさせてくれる場所だということが再訪してみて強く意識するに至った。

前回は平日に来たこともあり人がまばらで公園が少し荒れている印象を持ったのだが、今回は週末ということもあり家族連れで賑わっているのだ。現役の市民の憩いの場として機能していることを実感する。

さて、これまで全国各地で国内最大級のアカマツとクロマツの巨樹に会ってきたが、この鈴鹿市の「地蔵大松」は幹回りが7mクラスでやはり最大級だと思う。初めて対面した9月のブログの文章を抜粋して再掲する。この時と受ける印象は変わらない。前回との違いは主幹にベルトが締め付けてあることだ。満身創痍なのだろう。幹が割れないことを願うばかりだ。

この大松には蘇我・物部の乱があった飛鳥時代からの伝承があり、そのまま鵜呑みにすると樹齢は1400年を数えてしまう。しかし、全国の大松がマツクイムシ被害でことごとく枯れてしまった中で、国内屈指で最大級の大松であることは間違いないだろう。1732(享保7)年、干魃に困った人々が水を得ようと大松の近くの湿地を掘ったところ地蔵菩薩像が出てきたので、大松の脇にその像を安置する地蔵堂を建立して現在に至ると看板にある。今から300年前にはすでに大松と言われていた。樹体はクロマツとアカマツを寄植えした個体が癒合したアイグロマツと推定するウェブサイトもある。また2019年には、無風状態で長さ7mほどの枝が折れたため、作業員が調べたところ内部が空洞化している可能性を指摘したという中日新聞の記事もある。数年前までは周辺は田んぼが広がっていたようだが今は住宅街の中に佇んでいる。

恒例の日帰り温泉は、JA鈴鹿さつき温泉。源泉49.3℃で掛け流し、泉質は弱アルカリ性単純泉。少し茶色で滑り感がある良い温泉だった。

 

満身創痍の地蔵老松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

6日目 6月17日 鼓ヶ浦と二見浦で『歴史の空間』に佇む

 

今日は青空から徐々に曇天へと変化し撮影には好都合。朝は鈴鹿市にある白砂青松の「鼓ヶ浦」へ。この地名は聖武天皇(701-756)の時代に鼓の音がするので漁師が網を入れると鼓に乗った観音像があがったという伝説に由来する。浜には松が佇んでいたのだろうか。そう思うだけで風情や浪漫を感じる。大正10(1921)年に海水浴場が開設されて以降、山口誓子など多くの学者や文学者が訪れ多くの歌が残された。ただ現在はコロナ禍の影響からか2021年以降は海水浴場は開設されていない。

この地の歴史を知ったからなのか、それとも風土がそうさせるのか、しばらく歩いていると段々とこの風景に馴染んできて、往時に想いを馳せることができる樹形をした老松がところどころに佇むのが見えてくる。そして思ってもいないアングルを得ることができる。ここまで至ることはなかなかな得られないのだが、このプロセスを体験してしまうと、例え空振りでもいいから各地で時間をかけて『歴史の空間』に入り込んで老松が佇む光景を捉えていきたいと願う。

「鼓ヶ浦」で『歴史の空間』に入り込んだ体験が心地よかったので、思いつきで進行方向を逆にして伊勢市に南下。きっと誰もが知る「夫婦岩」のある「二見浦」に松の風景を期待したのだ。というのも明治15(1882)年に日本第一号の国指定海水浴場になったのが「二見浦」であることを知ったのだった。さらに遡ると二見浦は古くからお伊勢参りに訪れる人が身を清める「禊(みそぎ)」の地。ここに打ち寄せる波は常世の国から最初に届くと信じられてきたという。

医療目的で「二見館」という旅館が日本で初めて海水温浴場を開設。大正天皇をはじめとする皇族が訪れた旅館「賓日館」が今は町立の施設として見学できる。「賓日館」の道路沿いに姿勢のいい老松が迎えてくれた。そんな時間の流れを感じさせてくれる木造の古い旅館が今も松林を前に佇んでおり、『歴史の空間』に入り込める雰囲気が漂っているのだ。

この周辺の建物の玄関には正月でもないのに注連縄が飾られている。書かれているのは「蘇民将来子孫家門」。これは牛頭天王の伝説に由来するという。「蘇民将来」とは「備後国風土記」に書かれた人物で各地に説話が残り民間信仰となっている。ここ二見浦では「賓日館」の展示物によると、牛頭天王が長旅でみすぼらしい姿で宿を求め各所で断られたが、貧しくとも心優しい蘇民将来が厚くもてなしたため、牛頭天王は翌朝身分を明かし御礼として桃符を渡し戸口に掲げるように言った。そのようにしていると蘇民将来以外の家は疫病などで滅んでしまったという神話が残っているそうだ。神話が生きる日常の暮らしがここにはある。

「夫婦岩」周辺では思うように松を組み込んだアングルは得られず、ここは「海水温浴場の二見浦」を念頭にしばし続く松林を歩いてみる。すると往時からの看板を掲げた建物が現れた。そうなると一気に『歴史の空間』へと気持ちは入っていく。気が済むまでアングルを求めシャッターを切る。自分を追い込んでいく時間でもあるので気持ちは焦りというか落ち着かないのだが、深呼吸をして落ち着かせ少しでも納得度の高いものを求める。終わりのない向き合いのようで、諦めということではなくフッとこれでいいと思える気持ちになる。

フィルム時代と違いモニターで確認ができるのは良いのだが、あくまでも画像は仮の姿でありそれで判断することの危うさはある。時間を経てからゆっくりとデータ処理をした状態で向き合ってようやく出来栄えを自己評価できる。そういう意味ではフィルム撮影と変わらない醸成期間というものが必要だといえる。良いのは手応えのあるものを得られているか否かをその場で確認できるようになったことだろう。あえて言えばだが、良くないのは出会い頭の感動をグッと踏み込んで定着できていない可能性があること。モニターを度々見ることで絵作りをしてマイルドにしてしまっているかもしれないということだ。

「鼓ヶ浦」と「二見浦」。当初撮影を予定していなかったが、ここは紀伊半島であり熊野詣やお伊勢参りなど多様な歴史が語られる地域ということもあり、地図を眺めているとどう考えても「松の名所」である雰囲気が漂っており、訪ねないわけにはいくまいと考えた次第だが、やはり手応えを感じる場所だった。そしてまだ仮称だが『歴史の空間』という概念を抱くことができた。

充実感と疲労感いっぱいで、恒例の日帰り温泉は鳥羽市にある安楽島温泉「湯元海人乃島」へ。大きな宿泊施設なのだが日帰り温泉歓迎とあったのだ。泉質はアルカリ性単純泉、自家源泉は25℃。脱衣所も内湯も露天も誰もいない貸切状態で上機嫌。お湯は柔らかくゆっくりと癒してもらった。

今夜は土砂降りの車中泊。雨が屋根を叩く音、意外と好きなのだ。

 

鼓ヶ浦の松林にあるシャワー施設(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

 7日目 6月18日 天気を読む力不足

 

車の屋根が豪雨に打たれる中、朝から読みたかった本を読み始めて気がついたら何とお昼前。撮影取材の旅に出て、こんな半日を過ごしたのは初めてだろう。旅先で物語に入り込むのも良いものだと思った。

雨が降り続く中を、明日の取材地である浜松市に向けて走り始める。伊勢自動車道を北上していたら松坂ICの手前で雨が上がり薄日まで差してきたので、霞む伊勢湾を見てここなら「香良洲公園」が一番近く雰囲気のある写真が撮れるかもしれないと考え迷いに迷ったが向かってみた。これで昨年9月に初めて訪れて以降、一昨日と数えて3回目となった。昨年訪れた際は思った以上に枝ぶりの良い老松が多く佇み不思議な魅力を感じてはいた。それからこれまで青森から鹿児島まで数多くの松の名所を訪ねてきたが、ここの魅力が見えてきたような気がするのだ。

全国的にそれほど名が通っている場所ではないと思うが、近年のマツクイムシ被害の影響もそれほど受けておらず味わい深い老松が何本も佇む。公園として頻繁に手が入っているわけではないようだが、週末には地元の家族連れが多数訪れているのをみて、昔に思いをはせることができる全国でも数少ない現役の公園であり松の名所なのかもしれないと思い始めた。この印象をどう表現できるのか、雨あがりの空気はスッキリしており幻想的な雰囲気はカケラもなかったが、あちらこちらを歩いてアングルを探すがまだ腹落ちできるポイントは見出しきれていないように思う。多分、様々な気象条件で足を運び、まさに修行の如く見えてくる『歴史の空間』を求めるしかないと思ったのである。

現場に着いて、それほど迷わずにいきなりの出会い頭で納得の撮影ができる時があれば、どれだけ歩いてどれだけ探しても何も得られない時もある。天候、時間、背景、そして被写体そのもの。何度でも足を運び、足を運ぶ度に得られる出会い頭の新鮮味を期待して、どんなプロセスであっても最終的には納得できる表現に行き着きたい。

豪雨だったのにいきなり薄日がさして回復するとは思いもせず、全く天気の変化が読みきれず撮影に最適な場所に居ることができなかった。やはり雲が劇的に変化する時こそ撮影していなければならないと思うのだ。これは修行が足りない証拠だろう。肌で感じ自然の流れでその瞬間に出会えるようになりたいものである。

恒例の日帰り温泉は、そんな自分を慰めてあげるためにちょっと足を伸ばして奥三河の良質な温泉へ行きたいと考え「とうえい温泉 花まつりの湯」に向かった。すると全くもって迂闊だったのだがガソリンが底をついてきたが給油できそうな雰囲気はカケラもない。よく考えてみたら走っている「三遠南信自動車道」は、浜松から長野県の飯田へ抜ける災害や医療対策のために深い山々を突貫で走り抜ける道なのだ。本来、こんなスピードで奥三河に辿り着けるわけもなくまさにタイムトラベルのような道路なのだ。蓬莱峡まで完成しておりその先は国道152号線を走るが、全くガソリンスタンドが見当たらない。ナビで検索するとさらに先の浦川にあることがわかった。おじさんが店じまいを始めていたが無事に給油。「これで安心して走れるね」と送り出してもらった。

温泉がある東栄町に入る峠道で町に夕日が差し込み神々しく見えた。町営なのか第三セクターの運営なのか、施設はとてもしっかり作られている。ナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は32℃ほど。特に野天風呂というだけ露天は広々としており、鉄分多めの源泉掛け流しにゆっくりと浸かり暮れゆく山間部の眺めを堪能した。

 

香良洲公園の老松たち(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8日目 6月19日 日本の砂丘の行末を考える

 

夜明けから浜松市の中田島砂丘に立つ。2021年のGWに初めて撮影に訪れて以来だが、その時よりも明らかに風紋ができそうな地形、場所は減っているように感じる。松林の背景に広がる砂丘としての魅力が得られないのだ。午後から「海岸侵食災害を考える会」の長谷川武さんにお会いする約束。

まずは駐車場の日陰で話を伺う。自分の無知を恥じるのだが、まず驚いたのは御前崎から伊良湖までの砂丘地帯は天竜川からの砂の供給によって支えられているという。中央アルプスや南アルプスなどの源頭部で多くの土砂が生産され、天竜川によってダムや河道に一部堆積しながら河口から遠州灘へ流れ出て東は伊良湖岬、西は御前崎へと至る。これを「天竜川流砂系」と呼ぶそうだ。

リニア建設で水源への影響などの懸念から工事にストップがかかっているが、それに加えて全体のバランスを崩すことが恐ろしいように思う。天竜川恐るべしである。ただ1980年ごろから中田島砂丘の砂が減り始め数百メートルは後退しているそうだ。原因は天竜川に砂防ダムが増えて海への砂の供給が減ったことだと言われている。このため砂丘の緑地化が進んだ。撮影時に気がついた風紋のエリアは確かに減ってしまっているのだ。それも数年で気がつくほどに。このため長谷川さんたちは堆砂垣をボランティアで築き砂を留める活動を行っている。つまり自力で資金を得て自作しているということ。堆砂垣によって風で運ばれた砂を溜め込みささやかながら砂丘を維持するという活動だ。しかし行政との連携は進まないという。

加えて海岸林の松もマツクイムシ被害が拡大し、老松は完全に姿を消し植樹した松も植えっぱなしで荒れ果てている。長谷川さんが松に関わるようになったきっかけは、2005年に地元女性4名が始めた松の保全活動を手伝ったことだった。女性たちが始めた「根っこの会」は、日本緑化センターの季刊誌「グリーン・エージ(2010年8月号)」に寄稿された小島むつみさんの原稿によると、樹木医からマツクイムシ被害を学び、丁寧に時間をかけて実施調査を行い、空中散布に頼り切りだった行政とも話し合い完全な防除対策を検討し、自治会とも連携するなどとても女性4名とは思えないエネルギーで推進されていたようである。

現在は、長谷川さんが植樹された松を見守っており草刈と清掃がなされ明るい松林が維持されている。しかし砂丘の背後にある海岸林の全体は国有林や県有林、さらには私有地まであり管理が行き届かない。長谷川さんの他にも地元の方がボランティアでの活動を様々な形で行っており、つまり日本の三大砂丘である中田島砂丘は、砂や松の維持管理は個人のボランティアに支えられていると言っても過言ではないのだ。

中田島砂丘の入り口にフィルムコミッションの看板が掲げてあり、美しい風紋の写真が使われているが、いつの写真なのか全くそのような魅力はすでにない。加えて残念な話を聞いたのだが、民間企業の巨額の寄付もあり巨大防潮堤の建設も突然行われたという。初めて中田島砂丘を訪れたとき、砂で覆われた巨大防潮堤は立派な砂丘に見えたのだが、周辺を歩けば歩くほどそれが人工的に造られた防潮堤であり、自然が作り上げたものではないことがわかってくる。これによって風が変わったという。沿岸に投入されるテトラポッドなど、中田島砂丘は満身創痍であり確実に消えゆく歩みにあると言っていい。

それでも、この地で生活する人にとっては、ほんの数年前までは魅力ある砂丘であり、多くの思い出を刻んだ場所なのだ。今日も朝6時ごろから、地元の女子高生と思われる2人が砂丘を歩き波打ち際で歌の練習をしていた。微笑ましいというか素敵な光景だった。市民にとっては欠かせない場所なのだと思う。

長谷川さんが別れ際に見せてくれたのは、加藤マサヨシさんという方が撮り続けた中田島砂丘の作品だった。加藤さんは大正10年生まれ。平成2年から撮影を開始。平成12年に写真集「中田島砂丘」を出版。以降。平成13年に写真集「風」、平成15年に写真集「砂丘ー中田島砂丘の四季」、平成17年に写真集「風の舞う丘」、平成18年に「小さな出逢い」、平成21年に「歳月」と5冊の写真集を出版している。一度、全てを手に取って見てみたい。

「中田島砂丘観光協会」という団体がある。その団体が2020年に「浜松市創造都市推進事業採択事業」を受託した「中田島砂丘ミュージアム」という活動がある。その目的は中田島砂丘をもっと深く、もっと楽しんで欲しい。そのために、総合的かつ多面的に中田島砂丘を語れる場所を作りたいというもの。テーマは「学び」と「体験」を通して、「気づき」と「知」を提供。そして誰でも参加できる場を創るとある。中田島砂丘の衰退を悲観的に発信するのではなく、一人でも多くの人に関心を持ってもらい新たな動きを創発したいと念じる主催者、大切な知人である松下克己さんの思いが伝わってくるような気がする。

「知」のストックとして、「中田島砂丘の成り立ち、知っていますか? 」と題した早稲田大学人間科学学術院人間環境科学科の山田和芳教授による講演会の記録が残っている。概要は、暴れ川の天竜川が作った浜松の平野部、縄文海進が落ち着いた6,000年前から浜堤が形成、最後の浜堤の形成は1,000年前、砂丘はその後に形成。室町から江戸時代にかけて天竜川の中上流での木材伐採による山間部の荒廃で大量の土砂が流出、近代の砂の供給減などによる海岸侵食などが語られている。このような基礎知識を付けることは、今後、どのような砂丘の状態を良い状態として考え、行政と民間が連携して具体的な対策を講じていくことが、全国各地で起こっている海岸侵食への対策における好事例となっていくのだろう。

夕方は中田島砂丘から1時間ほどの浜岡砂丘へ。天竜川を挟んで東側にある。ここも2021年のGWに訪れたが中田島砂丘と違い当時からの印象は変わらなかった。長谷川さんによると地域の活動も活発だという。松の向こうに広がる砂丘。この砂丘ができたのも天竜川から流れ出た流砂が遠州灘の荒波に運ばれ、さらに強い季節風の西風によって陸地に吹き上げられたため。

御前崎市観光協会HPによると、砂の町と言われるほどで西風が吹くたびに風下の集落や畑地は砂に埋まり、明治30(1897)年に砂丘の固定化工事に取り掛かった。海岸沿いに移動性の高い15-20mの高さがある砂の小山が海岸線と直角に並んでいたため、「人工斜め砂丘」という工法をとったという。これは、斜め45℃に「堆砂垣」を立て西風を当て風力が衰えた砂を垣根に堆積させ、垣根が砂に埋まってくるとさらに堆砂垣を補充して砂丘を作っていくというもの。砂丘に吹き付ける砂風は、この「人工斜め砂丘」に導かれ海岸へと裾野を広げていき内陸の畑地に侵入することがなくなった。大正13(1924)年にはようやく砂の動きを止めることができ、その北側に田畑を開墾することができたという。現在、見ることができる「人工斜め砂丘」は、浜岡砂丘独自の景観といえ、風というエネルギーを巧みに利用した自然改造によるもので全国でも稀だという。貴重な文化遺産というのも大いに頷ける。

静岡県の資料「静岡県の海岸林」によると、天正年間(1573-1591)に、遠州灘海岸の農民による海岸林の造成が始まったとある。また浜岡砂丘では慶應2(1866)年に季節風を利用した人工砂丘の造成が開始されている。その後に明治から大正の「人工斜め砂丘」の造成へとつながる。中田島砂丘や浜岡砂丘の砂丘とクロマツによる白砂青松の景観は地域住民による砂との戦いによって作り上げられた人工美とも言える。今は、暮らしの変化や気候変動などの影響による海岸侵食やマツクイムシ被害との戦いとなっており、常に自然と人が良好なバランスを取り続けることの大切さを痛感する。

自然が変化するのは気候変動のような地球規模の影響なのか、それとも今回の河川の砂防ダムや防潮堤やテトラポッドなど、長い目で見れば付け焼き刃かもしれない対策によるものなのか。それぞれの時代における環境の上に生活が成り立つことの理解の深度によって景観美が守られ育まれるということなのだ。

恒例の日帰り温泉に入ってから、そろそろ新東名で帰路につきたいと考えまずは「袋井温泉やわらぎの湯」へ。泉質はナトリウム塩化物泉。地下1500mからの源泉は27.2℃。鉄分が多いのかお湯は茶色。源泉は露天風呂で堪能できた。一気に帰るのは諦め掛川SAで車中泊して20日の朝帰宅する。

今回の旅は8日間と短かかったこともあり、ブログに書き残すにあたり一つひとつを丁寧に深掘りすることで思考も深めることができた。「松韻を聴く旅」は、「日本の暮らしと松」をテーマにしながら、日本らしい「ネーチャー・ポジティブ」の掘り起こしと「SDGs達成」に向けた行動にしたいと始めたものだが、それがまるで言葉遊びのように感じてしまうほどに草の根を知る旅をしたい。魅力的な人は各地にして、それぞれに素敵な未来に向けた可能性を秘めていて、それをこうして伝えることも大切な役割だと感じる。

このブログは、連携している一般財団法人日本緑化センターのみなさんにも一読いただき、手直しをして季刊誌「グリーン・エージ」に「松韻を聴く旅へ」と題して連載記事にしている。これまではかなり抜粋して駆け足で各地のことを書いていたが、もっと丁寧に各地での出会いや感じたことをブログのように伝えたいと思うようになった。最新号ではその思いのまま「壱岐は松の島だった」としてみた。今後もそんなペースで連載を続けさせてもらえたらと願っている。

さて、この旅も季節を一巡した。走行距離は40,000kmを超えた。取材させてもらった人は120名を数える。そのすべての方に写真をフレームに入れてお送りしている。果たしてお気に召しているかは自信が持てないが、みなさんのお話を聞いてその魅力を感じてシャッターを切っている。そのすべての人にまた会いたいと思う。そんな人たちとしか出会っていない。ありがたい旅である。

 

中田島砂丘に立つ長谷川武さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(へ続く)