松韻を聴く旅 能登で日本の暮らしと長谷川等伯を想う
2月19日 能登の里山暮らし
いよいよ初能登半島である。震災や豪雨災害の傷跡が癒えていない状態だとの報道もあり撮影取材で訪問するのは憚れていたのだが、観光も歓迎との情報もあり能登の魅力を松を通して見出すことができないか思案したく雪化粧のこの季節に足を運ぶこととした。
はじめに日本海側の志賀町の松をめぐってみることとして能登半島国定公園を代表する景観である「能登金剛」へ。奇岩に松が織りなす景観が続くのだ。その中でも特徴的な「機具岩」と「ヤセの断崖」を被写体にする。
まず向かった「機具岩」は、石川県観光公式サイトによると名称は神話に由来するようで、要約すると「能登に織物を広めた祭神が織機を背負って山越えをしていたら山賊に遭ってしまい思わず織機を海に投げたところ忽然と岩になった」とある。大きいほうが女岩、小さいほうが男岩の夫婦岩で「能登二見」とも言われている。2つの岩の上には特徴的な松が佇んでいる。
次に向かったのが今回の本命「ヤセの断崖」である。長谷川等伯の「松林図」のような松が並ぶ。目の前に駐車場もあり撮影には好都合だが風が強く雪がない。海上には雪雲が迫るが微妙にコースが外れて雪が降らない。これは何度か足を運ぶ必要があると考え珠洲方面に走り始める。
すると連絡を取り合っていた萩のゆきさんから一報があり、ご自宅の場所を聞くとこれから向かう道すがらにあることがわかり急遽お邪魔する。
幹線道路から外れて除雪されていない雪深い一本道を行くとこれからご出勤の萩野さんのご主人とすれ違い挨拶。萩野さんのご自宅は能登半島の中心部にある里山風景にポツンと一軒だけ佇んでいた。萩のさんとの出会いは2014年に遡る。生物多様性の普及事業に従事する一般社団法人CEPAジャパンとして企画運営していた「生物多様性アクション大賞」で萩のさんが取り組んでいた「まるやま組アエノコト」が大賞を受賞されたのだ。
能登の里山「まるやま」に息づく伝統的な暮らしの知恵。植物も昆虫も動物も鳥も人間もみんなが何らかの以心伝心で繋がりあってその地で共生している。地域では農耕儀礼アエノコトとして日常で営まれていることなのだ。これら全てを詳らかにする萩のさんの綿密な取材調査によって「自然共生社会」や「生物多様性」という都市生活者が使う言語への意訳となるものだった。その情報量に圧倒され、全てを把握する地域の人の知識や知恵に圧倒され、それをすべて記録する萩のさんの熱量に圧倒されたのだった。
今日はその現場に初めて訪ねることになった。今は深い雪に閉ざされて活動の名称の由来となっている「まるやま」には近づけなかったが、古墳のような小高い丸い山がありその周りに田畑が広がっている。そこへ向かう一本道が萩のさんの家の大きな窓から見えており、農家の人々が向かう姿を見つけると駆け下りていって全員に検問インタビューをしたという。季節ごとに農家の人が手に持つものが変化し使い方から料理の仕方まで全てを聞き出し記録していったのだ。
萩のさんは概念的なキーワードではなく、地域の営みを細やかに表現することで持続可能な社会を提示してくれている。具体的な活動として、地元の小学校で地域の自然や文化を学ぶモデル授業を年間を通して行い、それを「ごっつぉ草紙」という冊子に編集して教育関係者への配布も行っている。地域の調査で得られた科学的知識と、地域の古老が守ってきた伝統的知識が合わさって、地域が持つ価値の見える化となり新たなアイデアの源泉となる可能性が生まれているように思う。能登から日本の暮らしの知恵や文化の価値を共有・発信する取り組みなのだ。
萩のさんはさらに進化していて、このような生活文化の見える化の手段として和菓子作りを行っている。それが「のがし研究所」である。通年を通して作られる作物を材料とした和菓子という完成品にして一人ひとりの手元に届ける。次元は足元にも及ばないが、写真で松を表現することで持続可能な地域のあり方を考える試みと方向性は同じではないかと意気投合する。
大きな違いというかもっとも大事なことは萩のさんのプロダクトアウト・デザインの力量が凄まじく素晴らしいということだ。納得できた作品をどのように人の手に届けるのか?この答えを萩のさんは「のがし」であるとしたのだ。それにしても萩のさんの情報量と行動力は半端ない。この連載「のがし研究所だより」でもその様子がうかがえる。萩のさんから学び、刺激を受けるべくたびたびお会いしたいと願う。
アカマツといえばと、萩のさんが話してくれたのは能登瓦や製塩と松茸の話だった。能登の集落を走ると黒い能登瓦と下見板張りの建物が多く、美しい景観を構成し日本の故郷と思える佇まいが多く残る。材料は地域の水田の土を使いアカマツを燃料にして生産しているそうだ。特徴は厚みがあって風や雪に強いこと。そして有名な製塩も燃料にはアカマツを使ってきたそうだ。このため能登には松茸の産地が多くあったという。珠洲市ではNPOによって震災前から松茸山の再生活動が始まっていたようだ。改めて取材をしたいと思う。
建築家である萩のさんご夫妻が事務所として借りていた古民家は被災して使えなくなった。幸いにもご自宅は無事だった。構造設計はもちろんだが地域材が粘り強く耐えてくれたそうだ。次の再会を楽しみに吹雪く里山を後にした。
崩れた壁、傾いたままの電柱、復興途上の海辺の集落を走る。複雑な心境のまま「恋路海岸」に着く。「能登金剛」と違い内湾の穏やかな景観が広がる。弓形の砂浜に松のシルエットが効果的な弁天島が浮かぶ。特にこの地形の説明はないがこの地の名称の由来には悲恋物語があるという。能登町のサイトにも記述がある。今日はここで腰を据えて撮影しようと心を落ち着けると吹雪と撮影の呼吸があってくる。空模様の変化も激しく相性の良い場所となった。ようやくさまざまな空模様で撮影を試みることができ、少し心穏やかとなる。今も恋しているであろう二人に感謝したい。
日没が近づいてきたので、道の駅すずなりに向かう途中に見附島に立ち寄り撮影。すぐ横にある「のとじ荘」は壊滅的な被災を受けたはずなのだが、なんと日帰り温泉を受け付けていた。ありがたく利用させていただく。
「のがし研究所」にある松の木型(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
2月20日 被災の爪痕
能登町にある法融寺へ向かう。周辺の家屋に被害は見受けられなかったので密集した街並みの中を抜けていく。ナビでは辿り着けないほど入り組んだ集落の細い路地を見分けながら高台に上がっていく。境内に枝を広げる「磯越の松」がある。夜の雪で素敵な雪化粧を纏っていた。推定樹齢は400年。このお寺の被災に関する情報を探すと石垣が崩落していたようだが今は修復されていた。信仰の厚い地域の支えになっている拠点である。
走行可能な道路を選んで能登半島を縦断して輪島市の「窓岩」へ向かう。岩は崩れ落ち「窓岩」ではなくなっていることは把握していたが、現場に立って感じたままに崩れた岩ではなく松を主体としたアングルから撮る。果たしてそのような撮り方でいいのか悩んだが、この撮影の旅の目的を改めて考え松を主体とした。
窓岩に至る道中にあった築180年の重要文化財である「上時国家」は、大きな屋根が完全に崩落して雪に埋もれている。入り口のスロープには大きなアカマツが並ぶが、とても撮影する気持ちにはなれず頭を下げて立ち去る。この周辺も復興事業の真っ最中。復興といっても伝統的な家屋が解体されている状況なのだ。
気分転換をしたくて、人里から離れた松の風景を求めて半島の日本海側に向かう。能登金剛の見所の一つと紹介されている「巌門」へ行くと全く雪はない。遊覧船の受付施設は閉じ、広い駐車場がある施設はすべて閉鎖され、周辺の松はマツクイムシ被害で厳しい光景が広がる。心が痛む。この旅にとって松の名所であるこの地に、賑わいが戻ることを願わずにはいられない。夕暮れは「ヤセの断崖」に向かい、雪はないがアングルを探求し”その時”に備える。
昨日、今日の2日間、能登瓦の美しい日本家屋が解体される風景の中を走って撮影ポイントに向かっていたので、気持ちを落ち着けるため氷見市に戻り総湯に入る。
2月21日 等伯と七尾の松
「雨晴海岸」の雪化粧を撮る。残念ながら立山連峰は雲の中だからか人は少ない。氷見市の「松田江浜」で白砂青松の構図を得る。
能登半島の松といえば国宝「松林図」を描いた七尾出身の長谷川等伯を抜きには語れない。「七尾市美術館」の学芸員で等伯を研究する北原洋子さんにお話を伺いたく連絡をとっていたが返信がありお会いできることになった。これは嬉しい。北原さんのことはネットで「松林図屏風」のことを語っておられるのを拝読しており、等伯だけでなく松にも関心をお持ちではないかと勝手に推察して是非ともお話を伺いたいと考えていた。
早速、一つだけ、どうしても聞きたいことをお聞きした。「なぜ等伯はあの松を描いたのか?」それを「北原さんはどう思われているか?」である。これに対して北原さんはあくまでも個人の見解として3つの視点でお答えくださった。
「松は神聖なものであり、吉祥の最上位であり、水墨画のモチーフとして伝来し、特に寺院建築の一部として描く対象であった」といった松の存在意義からの視点。
次に昭和30年代の七尾の写真を提示くださり、「等伯の時代の松はほとんど残っていないが、等伯の時代にも能登の海岸には防風のために松が植えられていたと推察される。例えば、等伯が生まれる少し前に、京から七尾を訪れた公家の冷泉為広が書き留めた一首の中に『松が前後に揺れる様子は、まるで波のようだ』といった、松林を思わせるものもある。能登の内海の静かな松、外海の激しい松、いずれも風を防ぐために立ち人々を守る、風雨に耐え忍んで立ち向かう姿にも共感するものがあっただろう」といった地域特性からの視点。
最後に「等伯が生まれ育った七尾の記憶の風景だったり、亡くなった長男の久蔵へのレクイエムとして久蔵と過ごした能登の海沿いの記憶の松を描いたのかもしれず、少なくとも場所を特定できるものではない」といった心象風景からの視点である。
しかし何より「あの時代に単一のモチーフで松だけを描くのは異質」であることを強調される。当時であれば「松林を描くとすれば三保松原のように風景の中に松を描くのだが、あの時代に松だけを単一のモチーフで描くことは、非常にめずらしい。当時だったら斬新すぎて受け入れられたのかなと思うぐらい現代的な感性だったのではないか」と話される。
平成17年「松林図」を七尾で見た子どもたちの話を聞かせてくださった。「墨なのに濃い緑に見えた」「お習字は必ず打ち込みして書くのに、松林図に打ち込みがない」「冷たい空気が流れている」などの感想に驚いたが、中でも後ろの方で斜に構えてポケットに手を突っ込んで見ていた茶髪の高校生男子に「どう?」と聞いたら「感動したっす」と答えてくれたことには感激し、涙を堪えたと話してくださった。改めて子どもの純粋で豊かな感性に学ばされる。
北原さんとは同世代で学生時代には同じ地域で過ごしていたこともわかり、とても意気投合させていただけたことが何より嬉しい出来事であった。最後に共有できたことは、日本の風光明媚な景観を支える松を等伯も描き、400年も残って国宝となりそれを観る現代人に多くの示唆を与えてくれている。これからの子どもたちにも、同じように感性を刺激する松がたたずむ日本の風光明媚な風景が残って欲しいということだ。北原さんとの出会いはこの旅で最大の収穫となった。現在、七尾美術館は震災による改修復旧・修復工事のため休館中だが、今秋には開館30周年を記念して「松林図」を展示予定だという。能登復興の象徴となることを願い、是非、北原さんと一緒に眺めさせてもらえたらと願う。
とても幸せな気持ちで雪が降りしきる七尾美術館を後にし、期待して「ヤセの断崖」に行ってみると晴天で雪はなし。予報では夜中の12時から雪が続くようなので明け方を期待する。
日帰り温泉は「とぎ温泉ますほの湯」ナトリウム塩化物泉で少し塩味、源泉は36℃。
氷見市松田江浜(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
2月22日 ついに吹雪く「ヤセの断崖」
夜明け前のまだ暗い時間に、一晩で雪化粧となった道を走ると降りしきる雪に視界不良。不安が大きいため、海沿いの細い道ではなく内陸を走る国道249号線を選んで向かうも怖いぐらいの吹雪なのだ。除雪されていない国道をラッセルしながら走る。最後に国道から外れて海辺の細く曲がりくねった道に入るとほぼ新雪状態の中を走ることとなり、不安は最高潮に達した。
ドキドキの状態で「ヤセの断崖」の駐車場に入る。かろうじてマフラーは雪面より上にある。徐々に明るくなると「ヤセの断崖」も雪化粧。等伯の「松林図」ような構図にはならないが雪に霞む松が佇む願ってもない状況になっている。ただし、強烈な風が雪と海水と共に吹き上がってくる。そのため小刻みに揺れ続ける三脚。吹雪く中で撮りたいので時間を待つわけにいかない。まだ薄暗く仕上がりを考えるとISO感度は上げられない。この条件下でスローシャッターを祈りながら切り続けた。次々と変化する空模様。あまりの強風に松の枝や幹に乗っている雪も少しずつ落とされていく。1時間後には風景全体の積雪は増えているように見えるのだが、枝や幹から雪はほとんど落ち松は黒くなっていた。
等伯が描いた国宝「松林図」の季節は晩秋とされている。目の前で起こった現象を捉えると、松は雪化粧をまとっても風の強い場所であれば早々と雪を落として黒くなる。目の前もかすみ、背景もおぼろげに見えるほどの激しい吹雪でも、場合によっては松は雪を被らず黒い姿で立ち尽くしている場合がある。目の前もかすむほどの吹雪の場合はほぼ強い風が吹いているのではないだろうか。風が強ければ根元の雪も浅いかもしれない。「松林図」が等伯の記憶の風景だとしたら、樹種は海辺のクロマツと内陸のアカマツのいずれもモチーフになりえただろう。「松林図」は吹雪の中の松を思い浮かべて描いたのではないかと思うのだ。
ところで「ヤセの断崖」という名称の由来だが、断崖周辺の土地が農作物が栽培できないほど痩せているとか、断崖の上に立って崖下を覗くと身が痩せる思いがする、などと言われている。とてもこの撮影旅にふさわしい名称だと記しておきたい。痩せた写真家が痩せる思いをして吹雪を待ったということを。
「機具岩」に移動してこちらも雪をまとった姿を撮影。午後「ヤセの断崖」に戻るが、やはり雲が通らない土地柄のようで、周辺には雪雲が覆い被さるがここには降らない。先ほどの撮影以降に積雪はなかったようで足跡はそのままだった。それならばと、北原さんが「松林図」をイメージできる松林があるという千里浜に向かってみたがすでに雲は抜けた後だった。松林は「道の駅のと千里浜」の目の前に広がっていた。走ってみたかった「千里浜なぎさドライブウェイ」は通行止め。
恒例の日帰り温泉は「里湯ちりはま」。泉質はナトリウム塩化物泉で塩味、源泉は50.3℃で掛け流し。
==
能登半島を巡って感じたことを記しておく。能登は、日本の原風景が残るだけでなく、先人たちが大切に伝承してきた自然とともに丁寧に生きる暮らしが今も息づいている。そして、水墨画では最高峰と言われる国宝「松林図」を400年前に描いた長谷川等伯の生誕の地でもある。松は地域の暮らしに欠かせない社会インフラであり、失ってはいけない文化的景観を構成する大切な要素でもある。「松林図」はそれを忘れないための要だと言える。そのいずれもが、能登に暮らす人によって本質が見直され発信されている。ここ能登に息づく暮らしは、日本の未来を語るべき本質があるのではないだろうか。日本の持続可能な社会は能登が復興する姿こそが”鍵”となると思う。決して置き去りにしてはいけないのだ。
ヤセの断崖への道(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)