松韻を聴く旅 近隣県で補習
1日目 9月24日 三保松原から新居関所跡へ
3連休を終えて今週から一気に気温が下がる予報を見て近隣県で撮影できていない場所へ向かう。
まずは夜明け時は晴れが期待できそうな「三保松原」に夜中のうちに到着。仮眠をとって夜明けから撮影。ただ強烈な南風で下草も松も大揺れに揺れ、スローシャッターでは厳しい状態。三脚を強く固定しても小さくブレてしまうが、次々に雲が流れ空の表情が変化し、これもまたとない機会だと考え粘ることにした。三保松原の昭和初期の古い写真絵はがきには、砂浜に佇む松の根元に漁船があって海の向こうに富士山がそびえているものがある。とても情緒があるのだ。今は漁船はなく堤防はあり同じ写真は撮れないにしても、そのような情緒を感じる写真を撮ってみたいと思っており、今後も季節や天候に合わせて機会を作って修行を積む。
旧東海道には多数の松並木が残されている。7月24日のブログに「街道並木の起源を考察」として旧東海道の松並木に思いを馳せてみた。というのもこれほど開発が進んでしまった現在でも在りし日の松並木が地域の人の手によって各地で保全されているのだ。美しき日本の「東海道の松並木」によると、従来から東海道の松並木は「相隣する村は双方協力して道路を修理し常に注意して毎日之を掃除するなり」とエンゲルベルト・ケンペルが書き残しているように地域住民の郷土愛に支えられていた。
ちなみに、ドイツ人の医師で植物学者でもあるエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer 1651-1716)は、公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会の「記念論文集」や長崎市のウェブサイト「ナガジン」によると、オランダ東インド会社の船医として元禄3(1690)年に長崎に到着し元禄5(1692)年10月31日に出国した。その間、日本の動植物から社会・宗教・歴史その他の事項について研究を行い、書籍や資料を蒐集し帰国後には主著「日本史(The History of Japan)」を世界に公表したことで名を馳せた。
先に引用した美しき日本の「東海道の松並木」に加えて、土木史研究講演集「近世東海道の並木について」や袋井私立図書館「東海道の松並木」によると、旧東海道の松並木は、慶長9(1604)年に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と述べたと「徳川実記」に残っている。幕府は並木の維持管理に関する御触を出し、それを受けた道中奉行は五街道筋の並木の管理・維持に関する触書を出していた。枯葉・枯木の処理に至るまで道中奉行の許可を必要とし、下草や蔦の除去などは当該の宿村の日常的な負担とするなど徹底した管理を行なっていたようだ。しかし明治維新以降は道路拡幅工事などによってその数を激減させた。
それでもGoogle Mapで旧東海道の松並木で検索すると静岡県や愛知県を中心に10ヶ所ほど出てくる。特に愛知県の「御油の松並木」は資料館まである。このほかに「知立の松並木」「藤川の松並木」「舞坂宿松並木」などを撮影してみたが、雰囲気を出すことができず苦労している。懲りずに今回も撮り損ねていた掛川から袋井にある「名栗松並木」「久努の松並木」に足を運び、夕暮れには「新居関所跡」に佇む1本松に会った。新居関所跡のパンフレットによると、幕府は江戸防衛を目的とし街道の要所に関所を設け、「入り鉄炮と出女」と江戸に持ち込まれる武器に警戒し、江戸から出る女性に対して厳しい取り締まりを行なっていた。新居関所の建物は安政5(1858)年に建てられたもので関所の遺構としては唯一のもの。その前にシンボルツリーの如く老松が1本残っているのだ。樹齢は不明だが数百年は刻んでいるのではないかと思いたい。
恒例の日帰り温泉は、時間が遅くなってしまったので選択が限られてしまい、3連休明けの平日のため振替休館とは気づかず浜松市の「あらまたの湯」に向かい空振り、次に島田市「田代の郷温泉」に向かって空振り。いずれも電気がついておらず寂しい光景。3度目の正直はここなら大丈夫だろうと掛川市の「つま恋森林の湯」に辿り着く。新居関所跡からここまで2時間で100kmの移動。ドライブ好きとは言えクタクタに疲れた。明日は撮影を切り上げ帰ろうかと思うほどだった。泉質はナトリウム塩化物泉、源泉34.3℃。加温、加水、循環。微塩素臭。
日中の気温は28℃、掛川の夜は18℃。先週とは大違いの車中泊。真夏の寝具では寒くて目が覚めてしまった。
新居関所跡の大松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
2日目 9月25日 宝珠寺の松の存在感
昨夜は温泉で見事に2回の空振りをして、疲れ果てて眠りについたものの夏の寝具は寒くて浅い眠りだったが、目覚めはなぜか爽快で撮影意欲全開。朝のコーヒーを飲みながら地図を眺めていると、昨日の温泉空振りで実走100kmの移動だったので、同様の距離感で中部横断道路を北上すれば山梨に向かえることに気づき、南アルプス市山寺にある「宝珠寺の松」に向かうことにした。
この松は日本画家の伊東正次氏が襖絵でダイナミックに描いており以前から気になっていた。樹齢は不明、幹回り3.8mのアカマツで迫力がある。実際に相対してみると幅広く枝を伸ばし幹枝の屈曲がとても力強く美しい。襖絵の姿そのままである。確かに表現したくなる姿だ。今日も青々とした葉を付けており、根元の周囲の土は柔らかく手を入れられており、丁寧に管理されていることがわかる。
襖絵に松がダイナミックに描かれるのは、権力を表現することと、長寿や健康を願うことが込められているのだろうと想像する。襖絵をより大きく表現するということは横長になっていくということで、この宝珠寺の松を描いた伊東正次氏は襖8枚で表現している。この松はその表現にふさわしく珍しく左右にダイナミックに枝を伸ばしているのだ。もちろん自力ではなく頑丈なコンクリートのポールに支えられている。絵画の場合はこのポールは描かなければいいが、写真はそうはいかない。いかに目障りにならないように撮るかが課題となる。
どの被写体に向き合う時も同じなのだが、初めての場所であれば樹形と東西南北の相性がわからないのでブッツケ本番となる。モノクロで表現するため逆光の方が力強い表現ができる場合が多く、曇天の場合であればいずれの光も許容できる。今日は薄曇りで弱い日差しがあり反逆光であることが良い効果を生んでいるのではないかと思いながら撮影をしたが、昼を挟んでもう少し順光に近いコンディションでも撮影しておこうと考えた。いずれにせよ、この美しく力強い姿を納得できるまで粘ることは幸せな時間である。
次に向かったのは富士吉田市にある「諏訪の森自然公園」その別名は「富士パインズパーク」だ。ここは江戸寛永年間(1640年頃)に防風と雪代除けを兼ねて当時の谷村城主の秋元冨朝が、信州からアカマツ3万本を取り寄せ領民が植林したとされる樹齢300年以上のアカマツが群生しているのだ。富士山麓の気候風土がアカマツに適していたのか、中には太さ約4m高さ約33m以上の大樹が50本余りもあり、日本でも他に類を見ない場所と言われている。赤松の単一林ではないので、どのような絵作りを行うか日没にかけて探求の時間となった。
恒例の日帰り温泉は撮影場所から至近の「山中湖温泉紅富士の湯」へ。泉質はアルカリ性単純泉、源泉25.6℃。加温、循環。ほぼ無臭。南アルプス市の日中の気温は24℃、富士吉田市の夜は15℃。今夜も真夏の寝具だ。
宝珠寺の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)
3日目 9月26日 富士山麓のアカマツ
夜明けとともに行動開始。朝もやの中に佇むアカマツの撮影ポイントを探す。富士山麓にアカマツがこれほど良い状態で残っていると把握していなかった。
山梨県森林総合研究所によると、標高950m以下はマツクイムシ被害は激化で樹種転換も視野に入れた対策が必要とし、標高950m〜1150mで年間平均気温9.1℃だとマツノマダラカミキリは世代を超えて生息可能だが個体は減少するため駆除処理が必要とし、標高1150m以上で年間平均気温8.2℃だとマツノマダラカミキリが世代を超えて生息できず被害は1年限りとしている。これも気候変動によって変化する可能性があるにしても富士山麓のアカマツは当面は維持可能なのだろう。
「諏訪の森自然公園(富士パインズパーク)」からそのまま北上すると標高1100mあたりに「中の茶屋」がある。ここから標高1450mあたりの馬返までの林道が撮影ポイントとして丁寧に見ていくと良さそうで、季節を改めて再訪したいと思う。
今回はこれにて終了しようと思う。近隣県の補習に来たつもりだったがまだまだ調査不足。しかしやはり足を運んで目視しなければ、ネット上や資料を探るだけでは調査ができるわけもなく、まして撮影スポットを特定することはできない。地道に足を運び、ヒントをもらって資料を探し事実や史実を把握していくことを繰り返すしかない。これも言ってみれば補習の成果と言えるのだろう。
今回の走行距離は776km。
中の茶屋の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)