(2年目の雪の東北(3)より続く)

 

1月18日〜1月19日 フェリーでアプローチ

 

今回は大洗フェリーターミナル19:45発に乗って翌日13:30着で苫小牧へ。オフシーズンは車1台分の料金でトイレ&シャワー付きの個室に乗れるのは有り難い。

大洗の駐車場に車を停めたらクラクション。誰かな?と思ったらサーフライダーファウンデーション代表の中川淳さん。2023年10月の九州に向かう旅でも、新東名の浜松サービスエリアでばったり会って以来2回目。お互いこれは何かあると、フェリーに乗り夕食を食べながら今後の話に花が咲き、とても楽しい旅のスタート。大浴場でゆっくり温まり早めの就寝。

フェリー内で「藍を継ぐ海 : 伊与原 新」を読了。国内各地の土地柄や地場産業などの魅力を人物を絡めて語り進める短編5篇。「松韻を聴く旅」も各地のエピソードをこのように書けたら素敵だなと刺激を受け文才ある人を羨ましく思う。雪が降る苫小牧港から一気に海岸線を走って日没後に襟裳岬の突端にある駐車場に到着。途中、雪から雨に変わりみるみるうちに積もっていた雪が溶けていくのがわかりショックを受けながら走っていたが、襟裳岬に近づくにつれて雨も上がり積雪も残っていたので少し安堵。恒例の日帰り温泉はえりもの本町にある田中旅館。

 

1月20日 プロジェクトXにも登場した飯田英雄さん

 

夜明け前、思いのほか暖かい。気温は4℃程度。きっと1日でかなりの雪が溶けてしまうだろう。襟裳砂漠に苦しんだ漁師が立ち上がって昭和28年から始められた緑化活動。ネット検索で様々な資料に目を通し、2001年3月6日に放送された「プロジェクトX えりも岬に春を呼べ ~砂漠を森に・北の家族の半世紀」のDVDで予習もした。というのもお会いするのが番組に登場した飯田常雄さんの息子の飯田英雄さんなのだ。英雄さんの苦労も番組では語られており、とことん厳しい自然に追い込まれ窮地に立たされたからこそ編み出された知恵と勇気。そんな言葉では言い表せない物語の末に今の襟裳岬はある。その現場を撮るのが今回の目的。初めての土地だが地図を頭に入れつつ車を進めては寄り道を繰り返しベストポイントを探し続け、気がついたら3時間以上は経っており9時半を回っていた。

襟裳の半世紀の物語は、多くのサイトや資料があるが、「ふるさとづくり賞内閣総理大臣賞“えりも砂漠”を緑豊な大地に(えりも岬の緑を守る会)」のページが比較的要点がまとまっていたので、英雄さんが活躍し始めるまでの流れをポイントを抜き書きしてみる。

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えりも岬の東側に沿って約10キロメートルにわたって広がる緑の海岸林は、地元住民と日高南部森林管理署浦河事務所が半世紀近い年月をかけて復興させたクロマツを中心とした森林。えりも岬は、アイヌ民族も居住していたが寛文年間(1660年代)から和人が住み始める。カシワやハンノキ、ヤナギ等を主体とする広葉樹の原生林に覆われた豊かな土地だった。

しかし、明治年間に入り和人の急増により生活のための燃料確保や、獣害を防ぐための伐採、燃料不足による伐根の採掘も行われ林地は徹底して荒廃。牛馬や羊の過放牧も行われ、さらにイナゴの大群が飛来して地床植物の大部分を食いつくし荒廃を加速。裸地となった黒色の表土は全国でも有数の強風で風食され下層の赤褐色の火山灰砂が飛散する。雨などで土砂も流出し沿岸の海水は汚れ、魚類の生息回遊も減少し昆布などの海藻類は根腐れを起こし水揚げ高は激減。日常生活では、赤い飛砂のため飲料水は濁り、閉めきった家のタンスの中の衣類まで泥まみれになったほどで、健康や衛生面など生活環境が極めて悪化、地域住民の集団移転まで話題になった。

昭和28年、日高南部森林管理署浦河事務所(当時浦河営林署)に「えりも治山事業所」を開設して本格的な緑化の第一歩を踏み出したが、それは苛酷な自然との長い苦闘の始まりでもあった。緑化事業は、禿山に草を根づかせる「草本緑化」から木を植える「木本緑化」へと順を追って進められた。しかし厳しい自然環境で在来工法は通用せず困難を極める。

昭和32年、被覆材料に海のしけによって海浜に打ち上げられたゴタ(雑海藻類)を利用。緑化費用が在来工法に比べ約4分の1程度で済み、施行は土が見えない程度に覆うだけという簡単なことから大面積の草本化が可能となり、草本緑化事業の飛躍的な成功をもたらし今日のえりも治山事業の基礎が確立。この工法は「えりも式緑化工法」と呼ばれている。

木本緑化は、草本緑化が完了した土地にクロマツを主体に植栽を実施してきたが、樹種の適地調査、植栽方法、防風垣の密度や設置方法、保育関係など未解明の部分が多い中で実施したことが主な原因で成績はあまり良くなかった。

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この辺りから英雄さんのチカラ仕事が物を言うのだ。

えりも町役場に電話をして産業振興課林務係長の吉田智巳さんと13時にお会いする。吉田さんは「えりも岬の緑を守る会」の事務局を担う。この守る会はえりも漁協、ひだか南森林組合、えりも観光協会、えりも岬観光青年クラブ、えりも岬連合自治会、えりも岬第1自治会、第2自治会、第3自治会、えりも漁協えりも岬事務所、えりも岬小学校、えりも町、えりも町議会、えりも町議会産業民生常任委員会、えりも町教育委員会で構成され、会長は漁協組合長が担う。国内外の視察が多く、特にJICAによる海外からの視察では、クロマツの風景を期待されているという。吉田さんからは「えりも岬の緑を守る会」の活動内容・受賞履歴一覧や、国有林地産事業の資料、えりも岬緑化事業70周年記念行事実行委員会が発行したパンフレット「夢は砂漠化しない」、北海道森林管理局発行の飯田常雄さんの語りが入った「えりも緑化事業の半世紀あるコンブ漁師の話」、えりも岬緑化事業50周年記念事業実行委員会が発行した絵本「森づくりへの挑戦」などをいただき大変に有り難い。

いよいよ15時半に飯田英雄さんのご自宅に伺う。するとなんと今は亡き常雄さんの奥様の雅子さんがいらした。番組で常雄さんと一緒にスタジオ出演された英雄さんのお母さんである。リビングで一気にお話が始まってしまったが、日没が迫るので撮影をお願いする。まずはご自宅から百人浜を背景に撮ってみるが、やはり現場が良いと考え飯田さんおすすめの第二展望台へ。ここからだと襟裳砂漠と言われたエリアが今は松に埋め尽くされて青々としているのが一望できる。この場から英雄さんが方法を考え行政に申請しながら進めた地下水を流す溝を重機で掘り続けた話を聞く。

ゴダを敷いて草木緑化が8割ほど進んだのが昭和40(1970)年ごろ、クロマツの植林も開始していたが4,5年ほど経つと順調に育ち始めたと思っていたクロマツが次々と枯れていったという。やっと砂漠の緑化に目処が立ち、植林を始めることができたと思ったら、次の試練がやってきて住民のショックは大きかった。ようやくわかってきたのは粘土層の浅い地下水脈に根が届き水分過多が原因で枯れるということ。このため地中に水を溜めないように溝を急いで掘らねばならなくなる。当初はなんと住民が手掘りを地道に続けていたが、それを見かねた若き英雄さんが重機を持ち込んだ。どのように掘ったのかを聞くと扇型だという。言葉では想像できなかったが見下ろす風景に指で描いてもらうと見えてくる。それは、まるで乾き切った大地に毛細血管を通すように掘り続け、総延長は42kmに及んだという。上空から見るとまるで「ナスカの地上絵」だったという。ちなみに見渡す限り濁った海は沖合10kmに及んだそうだ。それも岬周辺だけでほんの4kmほど北西にある東洋のあたりでは美しい海だったという。つまり住所表示で言うとほぼ「えりも町えりも岬」の集落だけが砂漠に泣かされていたということになる。

とても一人で成せる技とは思えないが、英雄さんの生い立ちを聞くと段々と納得がいく。小学生の頃は、人糞の堆肥をリヤカーに積んで未舗装だった道を6kmほど離れた畑に運び続けたという。英雄さんは現在65歳。つまり1970年代の中頃なのだ。戦中戦後ではなく、高度経済成長の世の中なのに襟裳では厳しい自然と向き合う生活が続いていたのだ。薪ストーブにランプの灯。自給自足のイモとカボチャが中心。プロジェクトXの主役でもあった父親の常雄さんからは極めて厳しく育てられた。しかし母親の雅子さんがとても優しい人で愛情豊かに育ったのだ。常雄さんは本当に厳しかったが多くを学んだという英雄さんの表情はとても穏やかで優しく、初対面にも関わらず包み込んでくれる懐の大きさを感じる。えりもの厳しい自然で育った人間の強さの断片を見たように思う。

えりも岬第二展望台に2人で立ち、現場を見下ろしながら本人の生い立ちから作業の詳細まで資料や番組では知り得ないお話を聞き、深い家族愛と郷土愛に圧倒された。日が暮れてから、飯田さんのご自宅に戻ると「まだ時間は大丈夫だろ?」と聞かれて、なんと皆さんと一緒に夕食をいただくことに。えりも岬の食卓らしいホッケにツブ貝、イカリングが並ぶ。英雄さん、奥さん、お母さんの3人とも口を揃えて「気にしなくていいから、遠慮しなくていいから」である。えりも岬のドラマの中にいきなり入らせてもらったような感覚。持参したDVDにお母さんの雅子さんにサインをしてもらった。やはり番組に出ていた奥さんともゆっくり話をさせていただき感激の夕食となった。

今日も日帰り温泉は田中旅館。いまは襟裳岬の突端の駐車場で強風と言っても15m程度なのでここでは弱い風に煽られ実感を深めている。

第二展望台で当時を語る飯田英雄さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

1月21日 えりも漁業協同組合の住野谷張貴さん

 

6時半から行動開始。今はマイナス2℃。襟裳岬の灯台が7時には消灯してしまうので、急ぎ昨日見つけた撮影ポイントに向かうと5分程度あり撮影は間に合った。しかし昨日は最高気温が4月中旬並みの5.5℃もあり雪がかなり溶けてしまっており昨日の迫力はない。続いて第二展望台へ。襟裳砂漠といわれた地形に緑の絨毯のように広がるクロマツの海岸林。

昨日の英雄さんの話では、えりも町森林総合センター周辺からこの第二展望台に向けて最初の植林が行われている。仮に植林を開始した昭和32(1957)年ごろのクロマツだとして樹齢が70年ほど。第二展望台の駐車場周辺のクロマツが最も太く見えるのだが強風が吹き続けるので高さは5m程度しかない。

えりも岬の緑化事業のその後、昭和40代以降について記しておく。草木緑化が進んで砂が飛ばなくなってきたこともあり、昭和45年頃からは魚介類の水揚げ高は急速に伸び始め現在では北海道内有数の漁場となっている。海水の汚濁がなくなったことや水温が安定したことで、昆布の品質が良くなると同時に採取できる区域が増大した。えりも砂漠と呼ばれていたイメージは全くない。昭和58年に緑化事業の30周年を記念して、各々の立場から緑化事業に協力してきた地元住民や関係団体が、緑化事業を促進することを目的に「えりも岬の緑を守る会」を結成。これ以降、毎年植樹祭を行っているほか、環境保全の大切さと森林による公益的機能が生活環境の改善に果たす役割を紹介する活動を実施。「えりも岬の緑化事業」は、小・中学生の教科書などにも取り上げられている。当初のえりも岬は広葉樹の原生林であったが、人間の生活環境によりバランスを崩され衰退し人の手で復元するほか手立てがなかった。現在の森林による防災機能を高め、健全で永続的な森林構成を図るため、郷土樹種であるカシワやハンノキなど広葉樹の侵入や育成が本来の自然共生であり、最終目標は樹種転換をはかり原生林の再現としている。しかし思ったほど樹種転換は進んでおらず圧倒的にクロマツ海岸林が広がっている。やはり一度失った自然のバランスは長い時間をかけて取り戻すものなのだと教えられる。

今日は10時に「えりも岬の緑を守る会」の住野谷張貴さんに会う約束。住野谷さんはえりも漁業協同組合の専務理事。守る会の会長は漁協組合長が担うため住野谷さんが実質は動いているようだ。今回お聞きできた話は、とても収穫が多く要点を残しておきたい。

映画「北の流氷」

地元の浦河出身の監督が制作する期待している映画なのだが、クランクインが遅れて今年の7,8,9月の昆布漁の最盛期に重なるのが心配。ストーリーは集客も考えてドラマチックになるだろうが、地元でも応援する会を作って地元の意見を反映して制作してくれたら良いと思っている。きっといいPRになる。自分も子供の頃にもうもうと土煙が立っている中にバスで走っていった記憶があるが、長年かけて緑化事業を進めてきたことを語り継ぐ機会にしたい。

漁協の商売

漁協としても昆布は長年の歴史の物語をセールストークにして売っていきたい。プロジェクトXの放送後に飯田さんの昆布を売って欲しいという話があったり、商品化をしたいという話があったりで、今は襟裳の昆布を使ったおかきもある。昆布取りは通年やっていて磯に生えているものを取るのと、拾い昆布と言って浜に打ち上がったもの取っている。天気がいい日や風が強い日に取って天日乾燥していることを売りにしているが、天日乾燥も機械乾燥も成分的には変わらないらしいが森づくりの物語性を大事にしていることが付加価値になっている。緑化事業は漁師たちが長年頑張ったことではあるけど、行政が予算をつけたり漁協が事務手続きを支援したことも縁の下の力持ちとして貢献していた。部落ごとに収穫しているが場所によって昆布の長さが違う。本町あたりで7-8mで太めで、岬では10mぐらいあるが細い。味はうちが美味いとどの部落も自慢している。若い漁師は個別にネット販売もしているようだが、漁協ではできるだけまとめて襟裳の昆布として出荷するようにして漁師さんの生活を支えていきたいと考えている。漁協の水揚げの1/3がサケ、1/3が昆布、1/3がそれ以外だったのが、サケが定置網でとれなくなって半分以上が昆布になってしまっている。磯にはいろんな海藻が付いてしまうので、岩肌を出すように引っ掻いて昆布が根付きやすいようにしている。

副産物としてブルーカーボンを計測してJクレジットの発行を推進するようになった。えりも岬の緑を守る会、えりも町、漁協の3者で協力して実施している。去年開始してみてクレジットは60トン程度。もっと拡大できたらいいと思っているが潜水調査するので費用もかかるなど課題も多い。道庁には道内のネットワークを作って欲しいと相談している。これも気候変動の影響なのか、海が変わってきて4年前に初めて赤潮が発生しつぶ貝、ウニ、タコが全滅して影響が続いている。逆に厄介者だったズワイガニが量を取れるようになっているので去年の春頃から出荷している。太平洋はすごいなあと思っている。

継承

緑化事業で復活したえりも町としては、海を大事にしようという精神に支えられている。全国各地に魚付き林はあるが、ここはしっかりとした物語のある魚付き林だという自負はある。しかし、襟裳の松林も森林管理署、北海道森林管理局、森林組合によってしっかり管理されているので良い状態で維持されているが、人の手が入らなくなるとダメになると思っている。この頃は、えりも町全体でも岬の歴史を知らない若者もいるので、生きるための森づくりだと伝えていかねばならない。毎年続けている植樹は参加者のことも考えて活着しやすいクロマツを植えているが、長い歳月がかかると思うが将来的には昔のような在来の樹種になると良いと思っている。

えりも岬を後にして西へ向かう。2015年に高波で被災し、その後、鵡川から様似までが廃線となった日高本線の様似駅と浦河駅に寄り道しながら進む。それにしても海岸近くの崖にはクロマツが散見される。陸上自衛隊静内駐屯地はクロマツが囲い込む。その近くにある増本牧場は海に近いこともあって、やはりクロマツに囲まれた牧場でとても魅力的。

恒例の日帰り温泉は静内温泉。明治32(1899)年に町民によって発見され温泉旅館として昭和30年代まで営業。その後も変遷があり2013年に現在の施設が建てられ町民保養施設として運営されている。とても行き届いた良い温泉だった。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉、源泉は10.5℃、透明な茶褐色。加温濾過循環。湯船は40℃と42℃がある。

 

えりも漁協でお話を伺った住野谷張貴さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(いよいよ北海道(2)へ続く)