(山陰・山陽へ再び(2)より続く)

 

12月14日 青森までの距離を縮めておく

 

昨年12月は早朝に自宅を出て夜にかけて一気に青森まで走ったのがキツかったので、今回は少しでも東北3県に近づいておこうと15時に自宅を出発。外環道は一気に走り抜けて東北道では休憩を頻繁に取って、仙台をやり過ごし栗原市の金成サービスエリアで車中泊とした。

 

12月15日 1日目 雪国のアカマツたち

 

4時半起床で5時に動き出し明るくなってくると雪国の東北道を走っていた。これなら岩手、秋田、青森のいずれでも雪化粧の松が撮れるだろうと考え、事前にチェックしていた会いたい松を手前から順に北上してみることにして、東北道から秋田道を経て横手盆地に入った。

横手盆地の成り立ちだが、第3紀末に東北地方は東西からの圧縮力を受け”しわ”が縦方向に並ぶようになる。 ”しわ”の高い部分は奥羽山脈や出羽丘陵になり、低い部分が北上低地や横手盆地になったようだ。湯沢市、横手市、大仙市、角館のある仙北市などを含み、雄物川に沿って広がる日本最大級の盆地と言われている。横手市に入ると増田の伝統的建築群の入り口にある増田町観光協会の敷地に赤松が並ぶのが目に飛び込み休憩も兼ねて撮影。松の背後にある味わい深い建築物は、増田町観光協会のサイトによるとこの地で医院を営んでいた石田家が使用していた蔵だという。

最初の目的地である横手市増田町湯野沢。ここに国道342号線から集落へと入っていく旧道の入り口にとても存在感のあるアカマツ「お松さま」が正面に見えてくる。多分、横殴りの雪を受け止めたからだと思うが幹に付く雪がとても美しく迫力が増していた。秋田県緑化推進委員会「秋田の巨樹・古木」(2008/7)に面白い記述があると、「人里の巨木たち」の筆者が紹介している。

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藩政時代、一時期ひどく樹勢が衰えた後、見事復活を遂げたことがあったらしい。そのときの衰退期間を、松(に宿る神霊)がお伊勢参りに行ったと考えたらしいというのである。どこまで真面目な話なのか知らないが、当時の人々の柔軟な精神が羨ましい。村はずれの路傍には、しばしば道祖神が祀られる。そのような場所に立つこの松も、村を守ってくれると考えられたらしい記述もある。「お松さま」の名は、どうやらそんなことから付けられた名前のようだ。

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次に向かったのは仙北郡美郷町にある「新日本街路樹百景「松・杉並木」」。これは美郷町のHPに詳しい。

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明治時代に衆議院・貴族院議員をつとめた政治家であり漢詩家であった坂本理一郎(雅号東嶽)は、原野の開発に着目した理想の村づくり構想を抱き、明治30年代に入ると、田園都市計画としてその構想の実現に着手。そのひとつとして植えられた千畑小学校(旧千屋小学校)付近の松・杉並木は、明治35年前後に植樹。同校周辺の桜や一丈木公園の桜も同時期に植えられたものといわれており、地域のシンボルとして現在まで大切に継承。

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すらっと背の高いアカマツが道の両側に並ぶ佇まいは、なんとも言えない安心感があった。道路を挟んだ駐車場に車を止めて撮影をしていたら、地元の人に声をかけられた。雪の重みで落枝が多いらしい。湘南ナンバーを見て声をかけてくれたそうで、温かき親切心に感謝である。

吹雪く中で辿り着いた大仙市豊岡の推定樹齢300年のアカマツ「豊栄の松」は集落を抜ける県道50号に佇む。向かい側には豊岡小学校の校門があるが明治時代は松が佇む場所が校庭だったようで、校歌や校章には松がシンボルとして扱われている。

横手盆地の北端から国道46号線を走り田沢湖、八幡平を迂回するように東北道を北上して日没間際に間に合ったのは、鹿角から東北道に沿って岩手県に向かう国道282号の崖上に佇む推定樹齢300年のアカマツ「唐傘松」である。鹿角盆地の南の入り口のような位置にある。近くにあったわずかなスペースに車を止めて崖を上がって松に近づくと、背後に川の向こうの山の斜面が見える景観は思わぬ収穫である。唐傘の部分というか上部の枝が複雑に捻れるように伸びて造形として美しく、枝それぞれに雪が積もりさらに美しく立体的に見える。良き作品になることを念じながらアングルを求めた。

恒例の日帰り温泉は鹿角盆地を北上して毛馬内七滝温泉。泉質はナトリウムカルシウム硫酸塩泉、源泉は41.2℃、加温のみで源泉掛け流し。少し濁っていて鉄分を感じた。久々の雪で冷えた体を癒してもらえた。

周辺には至近距離に道の駅が3か所(かづの、おおゆ、小坂七滝)あり、先に進んでおこうと考え選んだ道の駅小坂七滝は思わぬ山中にあった。

 

豊栄の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

12月16日 2日目 津軽ならではのモノクロの世界を撮りたい

 

今日から津軽に入る。朝最初に向かったのは北津軽郡板柳町大字赤田字松下。津軽らしい街並みに赤松の巨樹が佇む。推定樹齢300年、幹回り約3.5m。「二十三夜塔のアカマツ」や「赤田のアカマツ」と呼ばれ地域の人に守られているようだ。支柱には「赤田が「中福村」という地名だった頃、この地の田地は赤褐色の粘土質だった。貞享4年(1687)の「御検地水帳」に「中福村を赤田村と改称」と記されている。赤田南入口に生えるアカマツの古木は、地上1.5mの所で二股に分れている。また、樹勢弱いので葉の茂りが悪い。東側の水路改良工事や南側の農道利用に伴う踏圧等によるものと考えられる。」とあり、赤松そのものの由来は不明だが、この時代に植えられたものだと言いたいのだろう。雲が広がり風が吹きしばらく雪が降り雲が薄くなり太陽が見えはじめると青空が広がる。再び雲が広がりを繰り返す空模様。多様な空模様で同じ風景を見比べることができるので撮影にはとても有り難い。

この天候ならと期待して去年の同じ頃に初めて冬の津軽にやってきて最初に出会い、国内で最も気に入ってしまった「沖濱詰のクロマツ」に会いにきた。ほぼ1年前の12月18日のブログにその感激は記している。推定樹齢400年、幹回り6.8m。記録上は現存する日本最大のクロマツになる。去年は2時間、繰り返しやってくる地吹雪に吹かれながら撮影をしたが、今日も地吹雪と日差しのある天気を繰り返している。今日は10時半から1時間ほど滞在した。ここは平野が広がり海側から風が吹き付け地吹雪になりやすいようだ。魅力的な姿で魅力的な風景に佇んでいて眺めていて飽きることがない。この松は個人の所有になっており誰もが愛でることができるようになっていて有り難い。きっとまた会いに来るだろう。

屏風山に向かう途中、新津軽大橋を渡り切ったところで偶然、立ち姿が美しいクロマツを見つけ少し戸惑いながらも近づける道を探して車を止めた。津軽平野を背景に佇むシチュエーションが魅力的で地吹雪の中を撮影していたら、雲がちぎれて一気に日差しが差し込み夢中でシャッターを切る姿を冷静に空から見下ろすような気分になっている。この松を撮影しようと判断するということ。この流れは、松に呼ばれているのか写真の神様の導きがあるのか、必然のような流れとなる。この感覚はいつも信じていたいと思う。今回も空模様の変化の瞬間に津軽ならではのモノクロの世界が出現した。こういった撮影を積み重ねたいと思える体験だった。この松は特に記録されているものではないが役者としては十分に存在感があったのだった。

撮影に納得して走り出すと岩木川の土手のバス停の文字が目に飛び込んできた。「芦屋」なのだ。これには驚いた。ここは「つがる市木造川除栄山」。生まれ故郷の「芦屋市」、福岡の「芦屋町」、兵庫県の日本海側にある美方郡新温泉町の「芦屋」。これで「芦屋」は4ヶ所となった。テンションも上がって気持ちも整ってきたところで、いよいよ屏風山エリアに入る。屏風山らしい松の風景を探す。屏風山については昨年12月18日のブログにも記しているのでダブる内容となるが、2017/5/29の陸奥日報に詳細な記述があったので現在への歩みを抜粋する。

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屏風山は津軽半島西海岸の七里長浜に沿って鯵ケ沢町から十三湖に至る南北約30km東西約5kmにおよぶ砂丘地帯。日本海から吹き込む激しい潮風と飛砂が、農作物を枯死させる不毛地帯。江戸時代から続けられている植林事業によって防風・防砂林が築かれて、現在はスイカやメロンの産地として有名。4代藩主津軽信政が手掛けた津軽半島北部や岩木川下流域の広大な湿地帯開発の一環で、防風・防砂および山田川下流の農業用水を確保するための水源涵養を目的に植林事業を行う。1682(天和2)年、藩主信政が本格的に植林を命じ「屏風山」と命名。幅2km、長さ40kmにおよぶ防風・防砂林を築く。1703(元禄16)年までの植え付け本数は690,376本にも上った。その後は飢饉や盗伐のため荒廃し、1855(安政2)年以降、改めて植林事業が開始され1874(明治7)年までに1,779,400本が植林され現在の屏風山へと至る。

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日没となり、昨年取材させてもらった森林コンサルタントで同い年の木村公樹さんと連絡を取り合う。木村さんは2023年に青森県の林業研究所所長を退職して株式会社もりこねを設立。青森県内でも数少ない樹木医でもある。十三湖から青森市内まで外ヶ浜経由で一気に走り木村さんのご自宅に伺い夕食をご馳走になる。この一年で撮り溜めた作品ファイルを見てもらう。木村さん曰く、秋田は秋田杉の産地として杉を大切に考え、岩手は南部赤松の産地として松を大切に考え、青森は青森ヒバの産地としてヒバを大切に考えている。青森が松の宝庫で、マツクイムシ被害が拡大するリスクが実感できていないことに危機感を覚えるという。被害が広がりはじめてからでは手遅れである。とはいえマツクイ被害の当事者でない限り危機意識を醸成することは容易ではない。しかし、今なら間に合うように思うのだ。これは一つの課題というかテーマとして、この旅全体の課題認識の根幹にあるものとして考えたい。

恒例の日帰り温泉は青森市内から津軽方面に戻り遅くまで営業しているつがる市にある「あづましの里温泉 いい湯だな」。泉質はナトリウム塩化温泉、源泉は59.5℃の掛け流し。滑り感と塩味。熱めの湯船で癒された。温泉としては大変にいいのだが、脱衣室にある喫煙ルームは早々に撤去をお願いしたい。

道の駅つるたで雪に埋まる。

 

津軽平野に佇む無名の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

12月17日 屏風山の魅力 

 

朝から吹雪く屏風山で広大な松林をどう表現するか思案を続ける。背後に続く松林、その上には大きな風力発電がゆっくりと回り、畑の中には一本松が点在する。天気は吹雪いては晴れを不規則に繰り返すので、タイミングというか雲の動きと呼吸を合わせられたら津軽らしい作品が得られる。あまり深く考えず流れのままに移動する。「屏風山牧場」では待望の風景が点在していた。稜線に黒く連なる松林を背景に牧場内に点在する黒松。見えている樹木は全てクロマツなのだ。吹雪けば吹雪くほど松以外の人工物は全てが白く消えていく。牧場の近く「つがる市民公園」には感じの良い松林が広がる。その中に屏風山開拓の歴史を刻んだ「砂を治め農地を拓く」と記された石碑があった。大筋を書き写す。

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津軽四代藩主信政公の施政で始まった植林事業によって日本海からの潮風、飛砂を防ぎ、新田開発に大きく貢献。しかし地元農民を働かせていたことから「官地民木林」という特異な山林所有形態となり、永年にわたり国有林の保護管理に影響を及ぼしていた。昭和29(1954)年に屏風山解放運動を契機に当時の林務課長と県、営林局が中心となり複雑な利権関係を整理した結果、昭和34(1959)年に青森営林局と車力村、木造村、森田村、鶴田村との間で協議が整い、民地として解放された地域は畑地として利用可能となり明治以降の管理問題に終止符。平成3(1991)年に完了した国営屏風山開拓建設事業による農地整備は、青森県農業試験場砂丘分場の研究成果と、これまでに育成してきた防風林の効果とあいまって、この地域を県内有数の畑作地帯と風光明媚な津軽国定公園を抱えた緑豊かな農村に変えた。

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幕藩時代から現在へと連なるこの地の歴史を肌で感じ取ることができる文章である。このように知識を染み込ませることで見えてくる風景を変えていくのだ。今日は南北30kmの屏風山で場所探し、雲待ち、吹雪待ちをして、あっという間に日没となってしまった。

恒例の日帰り温泉は昨年12月18日に入った「稲穂の湯」。風呂上がりに隣にある古い民家の庭先に比較的大きなクロマツが佇んでいるのが見え、意を決して湯冷め覚悟で撮影に没頭する。

車中泊も昨年の前日と同様の道の駅十三湖高原にする。

 

つがる市の民家と老松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(2年目の雪の東北(2)へ続く)