真冬の桜。河﨑晃一さんへ
芦屋の現代作家で甲南女子大学教授の河﨑晃一さんが亡くなった。
膵頭部ガン、67歳。しばらくご無沙汰をしていたので、あまりに突然の訃報だった。喪主のご長男から、お亡くなりになった2月11日の夕方メールをいただき言葉を失った。
河﨑さんが、芦屋市立美術博物館の初代の学芸課長を務められている時に、生まれ故郷である芦屋を撮り始めたシリーズを一方的に持ち込んで、応接室で見ていただいた事からお付き合いが始まった。
2005年に出版した、僕の初めての写真集『一年後の桜』に寄せてくださった文章の冒頭にその時のことを書いてくださっている。
「川廷昌弘が尋ねてきたのは、94年の春だったと記憶する。その時『憧憬』のシリーズのファイルを見せてもらった。初対面。初めて見る作品に対してその時に感じたことは『これが彼の本来の持ち味なのだろうか』だった。ハッセルブラッドで写された芦屋の心象風景は。彼自身の歩んできた生活環境を辿ろうとしているかに思えた。『憧憬』には彼が幼い日から青年期を過ごした芦屋に思いをはせた『なごりのイメージ』があった。初めての席で最後に見せてもらった作品は『憧憬』とは全く別世界の洗練された南房総のカラー写真だった。彼の本来の持ち味はこちらの方にあるのではないかとさえ思った。なぜ彼は私にファイルを見せに来たのだろうか。数多くの写真家、評論家がいる中で、写真に関しては専門でない私に作品を見せに来たのには何か理由があったに違いない。芦屋に育った一人として、地元の美術博物館の一人として、まったくいきなりに知り合うこととなった。」
河﨑さんは、わかってくださっていた。僕が芦屋の生まれ育ちを、どのように表現するのかを探求したくて、芦屋の出身で作家活動もされている河﨑さんに半ば強引に見てもらったことを。さらっと撮れる洗練されたカラー作品ではなく、遠回りになるかもしれないけど、表現者として本質的な作品を創作しようとしていた僕の心理を。しっかり見抜いて受け止めてくださっていた。その温もりのような心というか、見守ってくださっている感じが、ファイルをめくる空気感から感じられたことを覚えている。
阪神淡路大震災で被災しタンスの下敷きになった。その夏、河﨑さんを訪ね、被災地となった芦屋を撮影した作品を持って行き、『一年後の桜』を撮りますと予告した。河﨑さんは少し考えて無言で何度も頷いてくださったことを覚えている。お互いに被災者であり、河﨑さんは美術品のレスキューなど活動を展開されていた頃だったと思う。
河﨑さんが寄せてくださった文章から再び引用する。
「『一年後の桜』というテーマを聞いた時、『そう言えば』と思ったのは被災者だけかも知れない。私たちには95年の桜の記憶がない。」
その後、芦屋の学芸員の方から聞いた話がある。その方も作家活動をしながら、稼ぎとして学芸員をされていた。河﨑さんが「川廷の生き方を見てごらん。激務の広告会社に勤務しながら故郷を撮って自分を見つめる作家活動をしている。表現者としての一つの生き方だよ。」と言っているから、僕に会いたかったと言ってくださった。僕自身は、表現者としの自信もなく、人生そのものを迷いながら自分を探し続けている状態だったので、褒めすぎと率直に思ったがとても嬉しく励みになった。生き方で言えば、学生時代はテニスで走り回って、広告会社に就職してから写真家を志した僕には、大学はラグビーで走り回っていたのに、学芸課長になって毎年のように大阪で個展を開催する現代作家として、ご自身を追求する生き方をしている河﨑さんこそがお手本だった。
このようにして、芦屋にルーツのある者同士として共感していただきながら、10年の歳月を見守ってもらえていた。文章はこのような形で締めくくっていただいている。
「あくまでもマイペースで、しかも継続的に撮り続けられた芦屋風景は、いつか歴史を刻む一コマとなるだろう。これからの川廷の作品に、今以上の求心力が生まれてきた時、ここに収められた作品群は、そのプロセスとしての意味を持ってくる。その第一歩が今、提示されたのである。」
それからさらに10年の歳月が経ち、芦屋の2冊目の写真集を出版しようと考え、真っ先に河﨑さんに相談した。震災から20年の節目である2015年に出版した『芦屋桜』である。出版社は、河﨑さんが長年懇意にされ僕もお付き合いのある藤元由記子さんが経営するブックエンド。もちろん、河﨑さんに文章をお願いした。
「桜の姿を求めて芦屋の隅々を歩いた川廷が発見したのは、街を見る自身の眼である。」「桜を通じて故郷との結びつきを深めていく姿勢は、自身の仕事とオーバーラップしながら、川廷の写真表現に独自の世界を与えているといえるだろう。」
生き方のお手本でずっと前を走る河﨑さんから、20年の歳月を経て生き方が見えてきただろうとエールを送ってもらえた。自分の成長も同時に感じることができた。自分らしい写真家としての生き方だ。しかし、ようやく見えてきただけで、大きな成果を挙げているわけでもなければ、評価されたわけでもない。
そして河﨑さんは逝ってしまった。この喪失感はとてつもなく大きい。見守ってもらえている勇気と、時々かけてもらえる声によって得られる確信。『芦屋桜』の出版から4年も経っていた。その間、お会いしていなかった。この間に河﨑さんは病に冒されていたとは知らなかった。僕は失礼極まりない押しかけ弟子だった。
東京での仕事を終えて汗だくになって新幹線に駆け込んだが、すっかり遅れてお通夜の会場に辿り着いた。会場から帰る人もいるが、とても多くの方が思い思いにグループになって語り合っている。きっと多くの人を励まし育てただろうし、多くの人に愛された人だったと思う。実業家で美術蒐集家でもあった山本發次郎のお孫さんという生い立ちを考えると、交流も多彩だったと思う。
僕は一人静かに手を合わせて亡骸にも対面した。言葉が思い浮かばなかった。部屋を出て並んだお花を眺めた。自分の名前があった。とても良い場所でお見送りをしている。たまたまだと思うがご遺族に感謝。言葉にならない想いが伝わったような場所に自分の名前があった。そこで、ようやく想いを言葉に出来そうな気がした。
会場には、河﨑さんご自身の作品と「具体美術」の研究者として著わした書籍も置かれていた。僕は河﨑さんは現代作家として逝ったと勝手に思っている。僕も、僕らしい写真家としての生き方をして死にたい。だから、まだまだ自分を追い込んでいく。
ありがとうございました。ゆっくりおやすみください。そして、またいつかお話をさせてください。
河﨑晃一様へ
川廷昌弘
河﨑晃一さんのアトリエ(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)