(九州紀行第3弾(3)壱岐は松の島だったより続く)

 

 8日目(11月19日)いしきをかえよう!

 

虹の松原で目覚めて少し撮影してから大村湾を経て雲仙天草へ向かうのだが、まずは「川棚町」へ。

ここ川棚町は長崎県と佐世保市が推進する「石木ダム建設」に揺れる地域。高度経済も終息し、超高齢化少子化を迎えつつある日本で、40年前の計画によるダム建設が本当に必要なのか疑問符が付く。市民運動のデータを見る限り住民が納得できる計画ではないと感じる。博報堂の後輩の山田英治くんが、本質的な理解ができる映画「ほたるの川のまもりびと」を製作し、Patagoniaがサポートする「いしきをかえよう」という取り組みもある。Patagoniaの方に声をかけてもらって長崎SDGsプログラム「水から考えるまつづくり」でお話したこともあり、とにかく今の石木地区に足を運んでみたいと思ったのだ。

加えて、自著「わたしからはじまるSDGs」では、川棚小学校の「SDGs Kids」の活動を紹介した。さらに最も重要なことでいえば、ごくごく身内に川棚出身で川棚小学校卒業のナイスガイが加わっているのだ。気がついたら、川棚町は極めてご縁のある土地になっていたので行かない選択はない。

石木ダムの計画エリア「こうばる」に佇んできた。大規模に開発が始まっているが、まだ踏ん張っている人たちの営みがしっかりとある。しかし山田くんの映画で見た人と自然が織りなす豊かな風景は傷だらけで疲れ果ててしまっている。この地域の自然に包まれた暮らしとダム完成により住民が得るものと、どちらの方が価値があるのか具体的に比較することは難しいかもしれないが、地域の人が築いてきたこの土地ならではの歴史や文化を公共事業で踏みにじることが未来に価値を残すとは思えないのだ。町中にあったダム賛成派の看板には「川棚町の未来のため」と書かれていた。SDGs Kidsを立ち上げるような小学生が育まれる土地で何を言っているのか具体性はなく、子どもたちに責任を果たしている言葉とは到底思えず情けなくなる。

上流には棚田百選の「日向の棚田」があるとナイスガイから教えてもらったので行ってみると、リーフブロアで道路を掃除をしている人がいてお互い目が合ってどちらともなく話しかけた。「20年ほど前、両親亡き後に棚田を見下ろす実家に戻りリフォームをしながら暮らしている。ここから車で20分ほどの職場に出かけているが、この家で四季折々を楽しんでいる。ここはダム建設の水没は免れているが、ダム湖ができたら今の道はなくなり山の中を大回りしなければならなくなる。そうすると小学生たちは暗い山の中を延々通うことになると思うと、水没してしまう地区は本当に大変だが山中に残された地区も今まで通りにはいかない。」などなど話してくれた岩永賢吉さんは64歳。ほぼ同世代。話を聞けてよかった。誰かと話したかったのだ。

この撮影取材「松韻を聴く旅」は海岸林の松原が抱える全国共通の課題と対策と人物の掘り起こしの機会でもある。一方で、川棚町という一つの地域が抱える課題を掘り下げて日本のこれからの暮らしを考え直す機会。いずれも通ずるのは持続可能な社会に向け「いしきをかえよう」なのだ。 

川棚町の隣にある彼杵(そのぎ)に、長崎街道が海に接するあたりで大きな松が佇む名もない海岸があった。この旅で時々ある不思議な出会いの一つとなりそうだ。不意に視界を松が横切り、誘われるようにその場所に向かう。そしてその場に立つとスッと撮影モードに入れる。名もなき無名の松や海岸でも存在感のある作品になるのだ。誰もいない場所で雲の流れを見ながらチャンスを待つ。無為に時間が流れていくが決して無駄だとは感じない。その時を待つ良い時間と感じている。一心にこの場所に来たので、あたりを見回すと、「道の駅彼杵の里」から直接は道がないが、立地的にはそのまま海に向かった場所にこの海岸はあった。

良い時間を過ごし、一気に南下して雲仙市の「千々石海岸」へ。ここは江戸時代の初期に、海岸と地続きだった田畑が強い風が吹くたびに砂や潮で作物に被害が出ていたのを、藩主の命で防潮堤と松を植え現在の暮らしの安定につながったと記念碑に書かれている。史実が今の暮らしに直結しているのだ。樹齢100年は超えるであろう松が数本しっかりと佇んでいた。雲仙岳の麓だからなのか砂が黒いのが印象的な海岸である。

明日の取材地区である南島原市まで向かうと、海沿いを走る道からとても良いロケーションの松原が見えてきた。「野田浜」だ。日没間際のため焦りがあったが、土地勘はないが松原の手前に車を停める場所が目に飛び込んできたので迷わずそこに停め雑木をかき分け砂浜に駆け出す。波打ち際から撮影をして松原に入っていき印象的なアングルを見つけなんとか気持ちが落ち着いた。あたりは真っ暗。車に戻りやはり松原がある「白浜」の「しらはまビーチホテル」で食事と温泉を利用。コインランドリーに立ち寄って、「野田浜」と「白浜」の間にある「加津佐前浜海水浴場」の駐車場で車中泊。

車をとめた場所は、波打ち際まで数メートルなので波の音を聞きながら海にできた月明かりによる光の道を松林の影の間から少しの時間眺める。星の数が多い夜だ。

 

彼杵の名もない海岸に佇む名もなき松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9日目(11月20日)島原でも見れた「だるま夕日」

 

今朝は寝坊で7時半から行動開始。9時に南島原市「野田の浜を愛する会」会長の松尾正行さんのご自宅に伺う。野田浜の松原に隣接した素敵なお宅だった。

毎日のように地域の方と一緒に松葉かきをされている記録が書かれたノートを見ながら話を伺った。松尾さんは現在76歳、40歳まで貨物船の船員で世界の海を航海した後、都内の証券会社に60歳定年まで勤務してこの自宅に戻られ、美しい野田浜を子や孫の代まで残したいと2010年に松原の保全を始めた。2016年にはその活動が魅力ある地域づくりに大きく貢献したということで「島原振興局長表彰」を受けている。やはり愛なのだ。愛で野田浜を守っているのだ。

活動を始めた頃は先輩達と一緒に取り組んでいたのだが、今は皆さんお歳でなかなか活動に出てこなくなってしまい、後継者も見つからず長崎県の振興局や南島原市との連携を模索する状況となっている。

松尾さんと一緒に松原を散策撮影。全長約1kmほどの松原だが、地面が露出し松葉かきができるエリア、松葉が厚めに堆積し堆肥になってきているエリア、松葉が堆積しすぎて下草が一面に生えているエリア、低木が生えてきているエリア、広葉樹も繁茂して人が立ち入れないエリア。まるで松原が荒廃していくプロセスを5段階にして提示してくれているようで、10分ほどの散策でわかりやすく理解できる状態になっており、どの段階の松原を目指すのか、そのためにはどのような対策を行うのかなど、理想の維持管理の方法を説明するのに最適な場所になっているのに驚いた。

それを松尾さんに説明すると、自分だけで聞くのはもったいないのでぜひ南島原市の職員に話してほしいということになり、総務部総務秘書課の隈部修司課長に電話であらすじを話してみたら是非お越しくださいということになった。

隈部さんと市役所で面会。野田浜の5段階ゾーニングの話をして、それぞれの工程で何をすべきかなど、これまで各地の松原を見て聞いた話を元に整理して説明をしたところ、野田浜の松原は、市有地や民有地が入り混じっているので、それぞれ管轄するセクションに説明をしてもらうことになり、加えて市長にも報告してもらうことになった。

隈部さんは、僕が到着する前に何者かをネットで調べてくれていて、お昼休みの時間だったにも関わらず好意的に対応してもらえたのと、大学時代に茅ヶ崎によく遊びに来ていたということで、親近感を持ってもらえたのは有り難かった。

ひとまず市役所を出ると急にお腹が空いてきた。南島原市役所周辺には道路脇にそうめんの看板で溢れているので、島原発祥のそうめんを地元の人が好んで食べるという醤油味の地獄煮で食べることにした。

松尾さんのご自宅に戻る途中、世界文化遺産になっている島原の乱の舞台「原城址」に立ち寄った。思った以上に広く、またキリシタンを恐れた幕府軍が徹底して破壊したため、崩れた石垣などが残り往時を偲ぶことができる。本丸跡に立つと海に向かって左手に雲仙岳を右手に天草を望む雄大な風景が広がっていた。

松尾さんをご自宅にお送りして、白浜海水浴場と野田浜を急ぎ撮影。野田浜の真正面に太陽は傾き、松原はドラマチックに浮かび上がっており最後は樹間に沈む「だるま夕日」を見届けることができた。「だるま夕日」は高知県宿毛湾が有名だが野田浜でも見ることができたのにはビックリであった。まだまだ広報できる素材が眠っていると感じる。

明日は取材の予定がなくフリーに動けるため普賢岳にも寄り道したいなと少し迷ったが、この旅は「前に、前に」を判断基準とすると常に良い展開が広がってきたので、今回も前に進むことにして急ぎ口之津にある天草行きのフェリー乗り場へ向かい最終便に時間ギリギリに滑り込んで鬼池に渡った。

上陸すると想定していた「道の駅天草イルカセンター」をチェック。大変に素晴らしい施設であることがわかり、安心して同様に想定していた「嶺北町温泉センター麟泉の湯」へ。泉質はアルカリ性単純温泉とあるが、ヌルヌルとしてかすかに硫黄臭がするので温泉気分が高まる。心なしか肌もうるおいゆっくりと今日の疲れを癒してから道の駅に戻ってみると車は1台もない。素晴らしい施設を貸切車中泊となった。

明日は大学時代以来の天草周辺で松のある風景を探してみよう。

 

西陽に映える野田浜(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

10日目(11月21日)38年ぶりに天草を巡る

 

今日は取材の予定がなく天草を南北に移動してロケハン。R324を南下していると海岸に黒々とした松林が見えてきたので、向かってみると富岡港に迷い込むように入って行った。

富岡港は、砂州が細長く伸びる地域で両岸に富岡松原があるのが特徴的で、加えて地理的にも興味深い富岡砂嘴(曲崎)もある。富岡城址から見下ろすとこの地形がよくわかる。富岡城址にある熊本県のビジターセンターに古い富岡砂嘴の写真が展示されていたが、生えている樹木は全て松。とても美しい日本の風景なのだ。今は雑木で埋め尽くされており、松は自然の遷移に身を委ね駆逐されてしまったのだろう。きっとエネルギー革命前の昭和30年代までは松が美しい砂嘴だったと想像する。

続いて23日に取材予定となっている白鶴浜のロケハンを兼ねて撮影。対岸の漁港から海を挟んで白砂青松が望めることが把握できたのはラッキーだった。松原の新たなアングルを得ることができる。

さて、いよいよ大江天主堂と崎津集落だ。ここは大学卒業前の3月にバイクの野宿旅で訪れたのだが、細く曲がりくねった道をひた走りようやく辿り着いた人里離れた聖地のような印象が心に焼き付く場所だった。今回は、世界遺産に指定されたこともあるのだろう途中まで随分と走りやすい道が出来ていた。38年の歳月を実感し寂しさが少しあった。特に、崎津は教会の入り口にバイクを停めて写真を撮ったのだが、今は周辺も整備され車やバイクは立ち入れずボランティアの方が誘導するようになっていた。一方、大江は道はすっかり走りやすいバイパスができていたが、山間にある丘の上に佇む教会の印象は変わらずだった。こちらの方が落ち着いて教会を見学することができた。ようやく38年の歳月を懐かしく思えた。

明日の取材に備えて、今日は天草の北側にある「道の駅有明」で車中泊とした。ここは「有明温泉さざ波の湯」が併設されているので楽だと思ったのだが、誰もがそう思うようですでに多数のキャンピングカーが駐車していた。やはり温泉が併設されていると車中泊が集まりやすいのだなと学習。当事者として納得。

 

残照の崎津教会(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

11日目(11月22日)天草松島の松

 

朝焼け&朝霧の島原湾を左に見ながら「道の駅有明」から「天草松島」へ。日本の三大松島と言われているので、松の多島美を期待して天草五橋を渡ってみたものの、地形を楽しむだけなら良いのだが、松の島を楽しむことはできなかった。

大小の島々の稜線などで松を見ることはできるのだが、明らかに広葉樹に駆逐されつつある状況を提示しており、せっかく残った松もマツクイムシの襲来に耐えきれずにいるというのが目視でも把握できる実態である。それでも松のある松島風景を探究するため、潮が大きく引いている時間帯だったので、道路から海に降りて撮影ポイントを探して歩いた。

昼ご飯に、環境省の天草ビジターセンターに併設されているカフェカーニャへ。とても眺望がよくソファ席でゆっくりできたので撮影データの現像作業も行えた。旅先でたまにはこんな空間でゆっくりすることに憧れていたのだ。

13時半に「明日の天草を考える会」会長の西﨑一雄さん(59歳)と事務局の渡辺隆文(40歳)さんとお会いする約束。西崎さんは地元で印刷会社を経営し、渡辺さんはお坊さん。地元の中学生などを集めて松の植樹、下草刈りや枝打ちなどの手入れを年間数回行い、松島の地名に恥じない松島に戻し、子供たちが帰ってきたくなる松島にしたいと考えていた。郷土愛に他ならない。しかし、国立公園にも関わらず民有地が多く植樹場所の確保に苦労しているとのこと。

「明日の天草を考える会」は渡辺さんのお父さんたちが立ち上げた団体で、地域おこしをテーマとしていたが、現在は松に関わることに絞って細く長い活動にとして、西崎さんが継承し活動を牽引している。環境省や熊本県の助成金を活用し16年間で1万本を超える植樹を行い約4haの緑化を行っている(明日の天草を考える会の資料より)。

この活動を指導したり、植樹の土地の確保や地拵え、助成金の対応や苗の手配などは「一般社団法人未来創造あまくさ」が行っており、代表の本田亮さん(46歳)を繋いでもらい早速お会いすることにした。団体の事務所は、山間部にある保育所を改装した建物で、広い園庭だった場所には木材や薪や重機が並んでおり、林業の拠点でもあった。本田さんは、元々は森林組合で現場と事務も経験したあと独立し、個人が所有する山の施業などを請負ながら、マツクシムシ被害を徹底して調査している。

その調査の内容は、図表の表頭だけを見ればその詳細さがわかる。「林班(尾根や谷戸を自然地形で区画)」「地区」「本数」「材積」「面積」そしてその林部の持つ公益性や防災機能の項目まである。そしてこの情報を地図にも写真入りでプロットしているのだ。これは知識と経験がなければ作成できないものであることは素人でもわかる。このような実に詳細で正確なレポートを作成して上天草市に提出し、駆除対策を推進するという知恵と行動が伴った人であった。

本田さんとは会ってすぐに語り合える波長だったのが嬉しかった。「松という生き物は人間が心配するほど軟弱ではなく、いずれまた松が隆盛する時代が来るだろうから、今を生きる我々は弱っている松の姿を見せられている世代だから、しっかりと松の世話をしておく必要があると考えている」という言葉には唸った。

林業視点は人間の人生を単位とせず木材の命を単位とする発想。大事なことを忘れていたと思わされた。松はパイオニア(先駆)植物であり、人間の手に頼らずとも本来は痩せた厳しい土地に活着する。極めて長い視点で松の生命力を信じながら、今は保全で最善策を取ることが大事なのだ。きっと、江戸時代から昭和30年代までは、松と日本人の暮らし方が波長が合っていて、松が安定して各地に恵みをもたらしていたのだろう。

この撮影取材「松韻を聴く旅」は、ますます「松」に関する多様な思考を持つ人に出会う旅となってきた。出会いはエネルギーになる。この旅を続ける価値をワクワクしながら実感している。

明日の取材に備えて再び天草を南下し、天草市の施設である「天然温泉 愛夢里(あむり)」のレストランで地魚を食べ、泉質は少しヌルッとしたナトリウム炭酸水素塩泉で肌にいい感じ。「道の駅 崎津」で車中泊。

 

12日目(11月23日)白鶴浜のイルミネーション

 

夜明けの津崎教会を眺めて、朝日を浴びる大江教会も眺めてから白鶴浜に向けて北上。まるで夏のような気候だ。9時半に「高浜地区振興会」会長の田中光徳さんにお会いする約束。

天草西海岸では、粘土を混ぜなくともそのまま焼き上げるだけで美しく強度がある白磁になる、高品位の天草陶石が採掘されている。この天草陶石が発見されたのは元禄時代と言われており、江戸時代になってここ高浜の庄屋上田家でも焼き始めた記録が残っている。現在では国内の生産量の80%を占め全国の有名な焼き物の主原料として使われている(AmacusaのWebサイトより)。

田中さんは、高浜地区の歴史に詳しく地域の人に講話を行なって郷土愛を育む取り組みをされているが、その取り組みの一つが白鶴浜の松林の保全である。生まれ育った高浜の人口回復というよりも、多くの関係人口を増やすことが現実的であるとして、季節を問わず明るく清潔な松林に佇み樹幹から美しい海を眺め、心身共にリフレッシュをしたい人が集まるような、そんな松林を維持したいと考えている。

現在、大阪から移住した20代の玉城悠生くんを中心に地元出身の若手が奮闘して人が集まれる松林を目指して活動している。海の家だった建物をリノベーションしたSunset Cafeを営みながら取り組んでいるその目玉企画は、冬の天草を光で彩るイルミネーションイベント「あまくさロマンチックファンタジー」の一つの拠点となっていることだ。今年で4年目になる。Instagramで毎日写真をアップするなど地道に活動を続けている。

7月から瀬戸内、四国、九州と多数の松原を見てきたが、このようなイルミネーションは初めて。松林の当事者、関係者もこれは必見だ。他の松林にはなかった若い世代の奮闘が、ワクワクするような高浜地区の白鶴浜であった。

今日は、日中はTシャツ1枚で天草市内を転々と移動し、日没時に白鶴浜のイルミネーションを撮影。その後、こじんまりとしているが佇まいが良い感じの天草下田温泉街にある「白鷺館」で疲れを癒す。天草下田温泉は800年の歴史があり、その起源は二羽の傷ついた白鷺が河畔で傷を癒しているところから温泉が湧き出ていた。よって別名「白鷺温泉」とも呼ばれている。「白鷺館」は泉質はナトリウム炭酸水素塩・塩化物泉で源泉掛け流しであった。

車中泊は20日に来たお気に入りの「道の駅天草イルカセンター」。ところが今回はほぼ満車状態であった。飛び石連休で出かける人が多いのだろうか。明日は天草松島の撮影を再トライする。

 

白鶴浜Sunset Cafeイルミネーションの準備(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

13日目(11月24日)天草松島の提案

 

22日にお会いした本田さんから天草松島の千巌山の展望台が松の見本林になっていると聞いていたので、午前中は松島らしい眺望の撮影にトライ。展望台周辺には確かに良い松はあるのだが、雑木が伸び放題で景観も眺望も損ねてしまっている。何より主役のはずの松が美しく感じられないのだ。

ここ「雲仙天草国立公園」は、日本で最初の国立公園として1934(昭和9)年に雲仙国立公園として誕生し、1956(昭和31)年に天草地区が追加された歴史ある国立公園であり、環境省のビジターセンターも備えてあり、国立公園地区を核とした「天草ジオパーク」にも認定されているのだ。例えば、この展望台だけでもモデル景観地区として、松林越しに多島美を展望でき松島の名にふさわしい眺望が得られるようなランドスケープデザイン、要するに眺望ポイントの雑木だけを伐採し、徹底して松を守る管理を環境省には考えてもらいたいと切に願う。「天草ジオパーク」のジオサイトマップには千巌山も記されているのだ。

このワンポイントで良いので質の高い眺望を創ることで、インバウンド客の評価も上がるだろうし、何よりも地元の人でも何度でも見に行きたい展望台になると思うのだ。駐車場から展望台へのアプローチは千巌山の名にふさわしいと感じただけに是非とも環境省には考えてもらいたい。何度も書くがここは国立公園なのだ。

 

(九州紀行第3弾(4)阿蘇へ久住へに続く)