(九州紀行第2弾(1)芦屋釜と元寇防塁を知る編より続く)

 

10月18日、5日目、循環生活の発進拠点

 

5時半に起床し九州道から都市高速を経て福岡アイランドシティから奈多漁港へ。朝日が差し込むきめ細かな砂浜の奈多、三苫海岸。小さな形の良い波が寄せているので、きっとここも波乗りポイントなのだろう。この周辺の松原も深く福岡市による松林再生試験区域になっている。このようにして松原維持の意思表示をされている様子を見ると気持ちが明るくなり撮影にも集中できる。

今日は10時半に「循環生活研究所」のたいら由以子さんとお会いする約束。今回のセッティングは、シティラボ東京でのセミナーでご一緒したたいらさんの娘さんの平希井さんに繋いでもらった。

オフィスに伺うと素敵な古民家を改築したような造りで、スタッフの女性の方々とも挨拶を交わしてたいらさんと語らう。循環生活研究所のこれまでの流れ、現在地、そして2030年に目指す姿を一気に教えていただく。共感の嵐である。撮影プロジェクトについて話すと、完全に思いを理解していただき「もっと早く会いたかった」と共感してもらえたのは嬉しかった。というのも、たいらさんたちは「暮らしと松林をつなげる松葉の堆肥づくり」を福岡市農林水産局と連携して実施しているのだ。近くの松林で松葉かきをして集め堆肥化を現在進行中で行っている。これまで各地で松葉は油分が多いから堆肥にはむかないということばかりを聞いてきたので、この取り組みには感激である。

再生可能エネルギー事業で松原も循環させた産業化も大事にしたい妄想だが、この堆肥づくりは一人ですぐに始められるし、たいらさんのいう半径2kmのコミュニティ単位で循環させることができる。どんな産業を興すかではなく、何に使うための材料を誰がどのように集めるのかが大事であり具体的であり共感の輪が広がりやすい。たいらさんの活動とはそういうことなのだと思う。

せっかくなので撮影したポートフォリオを見てもらうことにしたら、スタッフ全員集めてくださってみんなで見てもらった。やはり写真家は写真を一人でも多くの人に見てもらいたいのだ。一枚一枚を声を上げてみてくださって写真家冥利に尽きる時間。たいらさんもイラストを描き編集もする人なので写真への理解がとても深いのだ。嬉しい。

続いてたいらさんたちの大事な現場である畑に連れて行ってもらった。ここではたいらさんのお母さんの波多野伸子さんにお会いでき、松葉を堆肥にするためのコツや使い方を伺うことができた。実際、この畑でもいたるところに松葉があり、堆肥化された松葉もある。海辺の暮らしで松葉を使った畑の基盤づくりや堆肥づくりはどこでもできる。たいらさん母娘を撮影。松葉堆肥のスペシャリストとして、このプロジェクトの作品に入れることができる。早速、茅ヶ崎でどのような仕組みで始められるかを考えたい。目から鱗がどれほど落ちたかわからないほどの感激をした。

引き続いてたいらさんたちが松葉かきをしている松林に行く。住宅街に沿った立地で松葉の絨毯が広がり、樹間のどこでも歩ける状態の松林である。松林を抜けると視界に玄界灘が広がる。足元は三苫の波乗りポイント。羨ましい環境。この松林で松葉を抱えたたいらさんを撮影。これで松に関わる人たちのポートレイトも当初の予想を遥かに超えて多様になってきた。有り難い。たいらさんとランチもご一緒して事務所に戻ると慌ただしく東京出張に出られた。ギリギリまでお付き合いいただき本当に有り難かった。

午後は取材の約束がないので、ちょっと旅行気分を味わいたく、海の中道から志賀島へ向かう。道中、圧倒的なスケールの砂丘風景が広がり、全く知らなかった福岡市の一面を見たというか、福岡市本来の立地を知った。島を一周するのは旅気分を盛り上げてくれるなあと思っていたら、休暇村志賀島の周辺で松が増えてきたので車を止めて海辺へ行くと、なんとまあ気持ちのいい松の風景があり満足。海の中道に広がる風景を眺めながら、これまで見てきた多数の松原を思い返し、福岡県がこれほど松林と砂浜を抱えた地域であることを、今回の撮影取材で初めて理解をした。

続いて明日の下見にと楯の松原に向かうが車を止めるポイントが掴めず断念し、「古賀の松原」がある「花見海岸」に向かうと青柳川の河口に公園の駐車場があり海岸へ歩くと松原と海との間に砂丘が広がる。先日の風による風紋がまだ広く残り松原と風紋の構図に没頭する。そして松原の中へ入ると、もしかしたらここが明日の現場かなと感じる綺麗に松葉かきをされた松原に行き当たる。

今日は疲れも溜まっているので良い温泉に入りたいと思い、思い切って田川郡大任町まで行き「道の駅おおとう桜街道」にある「天然温泉さくら館」にして、そのまま車中泊とする。町営なのか非常に良質な温泉施設で室内も露天もゆっくりと堪能できた。やはり内陸だからか車中がしんしんと冷えてくるので、この旅で初めてFFヒーターを付けてみる。10分ほど付けただけで暖まるというか暑い。使い方をマスターする必要があるが心強い味方である。

 

循環生活のパイオニアたいら由以子さんと波多野伸子さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

10月19日、6日目、郷土愛が松原を守るのだ

 

まだ暗い5時起床。6時過ぎに走り出し1時間ほどで「古賀の松原」へ。朝日に照らされた砂丘の風紋に松が影を落とすのを見つけ構図の追求。

9時に古賀西小学校の「⻄っ子憩いの松原」で神谷(こうや)環吉(88歳)さんと加藤潤二(73歳)さんに会う。お二人が中心となって荒れた松原を復活させたのは、小学校時代に過ごした松原を今の子ども達にも体験してほしいからという。昔は校庭と海との間に境界線はなく、休み時間になれば松原の丘陵を駆け回り海で泳いでいたというワイルドな子ども達だった。この小学校の卒業生にアフガンで命を落としたペシャワール会の中村哲さんがいる。当時の中村さんは、この小高い松原に登って遠く見える山々を見てもっと高い山に登りたいと志を高めていったと、下級生だった加藤さんはいう。

「古賀の松原」は、筑前八松原(三里松原、さつき松原、古賀松原、奈多松原、地蔵松原、箱崎松原、百道松原、生の松原)の一つとして親しまれてきた。この松原も黒田藩の命により、食糧増産のため広い農地を飛砂から守ることを目的に1706年に10万本植樹された。高度経済成長までは、刀鍛冶が炭として使ったり、家庭燃料や家屋の棟木などに使われていたが、昭和30年代からプロパンガスが普及し始めて松原が荒れ始めたという。それでも昭和40年代のこの地の記録に「海に手を入れるとハマグリが採れ、松原では松露を採り、松原で焼いて食べた」とある。

加藤さんは、この松林で鍛えたダートバイクの選手になったり、役所の職員時代は松林や海岸で子ども達が自然と触れ合える企画を独自で作った。その流れでいまに至るが、なかなかのヤンチャな人で、今の人間はサバイバルスキルがないということで、まずロープを持ち出しモヤイ結びが出来るかと聞かれ、できないというと、では今日は覚えて帰ると良いと言って早速教えてもらう。続いて時計を見てアナログ時計で方位の見方があるのは知っているかと言われて、やはり知らないというと短針を太陽に向けそれと12時との中間が南だと教えてもらう。

役所時代には広報担当として写真撮影も行っていたようで写真についても語り合える。そしてこの松原の神様に合わないかと言われて、松原の小径を歩いて向かうととても良い地形に大きく枝を広げた一際存在感のある老松が佇んでいる。確かに神々しい。子どもの頃からこの松は神様と教えられ、今の子ども達に同じようにそのように教えているという。そして今は100歳を超える松たちが悲鳴をあげて枯死しようとしていることも教え、松から人間に与えられた恩恵を一緒に探しているという。撮影をして戻ると、ローリングストックだと言ってたくさん非常食とビスコが入った袋を渡される。高齢の神谷さんをサポートし故郷に育まれる子どもたちを思い行動する、どこまでも心優しい人生の達人なのである。

次に13時の約束でお会いしたのは、「古賀の松原」と同じ湾内で青柳川を挟んで隣の新宮町にある「楯の松原」を保全する「筑前新宮に白砂青松を取り戻す会」会長の仲野彰信(82歳)さんと事務局長の近藤暢也(69歳)さん。お会いした場所は仲野さんのご自宅だが、海側ではなく山の中に暮らしている。近藤さんから、「ムベ」を食べてみてと渡される。生まれて初めて食したが大きな種が多くてとっても食べにくいがとっても甘い。昔は貴重な山の幸で、砂糖が流通するまでは甘味料としても重宝され、現在も皇室に献上されている。さて、松原保全のキッカケは、仲野さんの自宅の裏山に役所の人たちが竹を求めてやってきて、何に使うのか聞くと海岸の防砂柵にするという。そこで山で子ども達の自然体験の機会の提供や貸し農園をしていた仲野さんは自分の町の海の環境も守る必要があると考え、1998年にこの会を設立したという。

1670年ごろから黒田藩は住民を動員して松の植林を始め1706年に20万本を植林。そして1800年代には植林された松が成長し、潮風や砂からの農作物への被害を「楯」となって防いでいることから、「楯の松原」と呼ばれていると記録にある。明治初期の記録には松露などが特産品として販売されていた。やはりこの地でも松原は地域や生活を支える社会インフラとして機能し白砂青松という景観美を保っていたのだ。そんな松原は昭和30年代ごろから荒れ果てて人が入れなくなり、近年ではマツクイムシの被害が広がり樹齢を重ねた松を中心にひどい年は7000本が枯れたという。

続いて近藤さんと二人で松原に向かう。外部の人間が松原に近づくための駐車場はほとんどなく、「取り戻す会」が許可をとっている「新宮神社」前のスペースにとめさせてもらう。「楯の松原」は国有林で延長約2km、46ha、幅は広いところで400mという規模。この中を縦横に小径があり、ランニングや犬の散歩に多くの人が入っている。そしてここで初めて知った「九州オルレ」の標識もある。「オルレ」とは韓国済州島から始まったトレッキングコースで済州島の言葉で「通りから家に通じる狭い路地」という意味らしい。地形だけでなくその地域の生活文化も感じながら歩くという感覚なのだろうと思う。ここは「福岡・新宮コース」の一部に指定されている。そんなこともあってか、松原に縦横に伸びる小径を利用する人が本当に多い。「取り戻す会」がセブンイレブン記念財団から補助してもらった機材を駆使して毎月のようにボランティアを受け入れ清掃伐採など奮闘しているが、松原全体からみると確かに荒れているところが多い。近藤さんは歩きながら、時折立ち止まり松を仰ぎ見て「まだ間に合うのでなんとかしたい」と繰り返し話す。海側に住む近藤さんの松原への感謝と愛情が滲み出ている。

近藤さんから頂いた資料の中に「がんこ本舗まつぼっくり課」のチラシがあった。「SDGs活動」と書かれている。近藤さんから「茅ヶ崎の会社ですよね、ご縁がありますね」と言われて、不覚にもこの会社のことは知らないと答えた。なんとチラシにはここ新宮町に福岡本社があり、この松原の実情を深く理解し、この松原で採った松ぼっくりの芳香蒸留水と精油が入った「まつぼっくり洗剤」のことが書かれているではないか。茅ヶ崎の住所を調べると生活圏内にある。これは後日お会いせねばと思うのである。各地の松原にあらゆる人や団体が入ってトライアルがなされているが、それが世の中ごと化されていないことにますます課題認識を持った。

樹齢を重ねた松の多くはマツクイの被害で枯れてしまったが、ところどころに樹齢200年はありそうな老木がある。「守る会」が作成した「楯の松原マップ」には松原の清掃を手伝ってくれた子ども達が命名した老樹の名前が記されている。「変わり松」「OK松」「這い松」「老中松」「わかれの万歳松」「元気松」「元老松」そして「踊る松林」などである。確かに荒れてギリギリの状態の中で名付けられた老樹達が必死に佇んでいる。中には枯れて伐倒された老樹もあった。海岸に出てみると一際目立つ松があり行ってみると、ぽっかり広がった空間に根上松が4本仲良く存在感を放って佇んでいる。これは「浜の四本松」と地図には記されていた。草刈りや広葉樹を伐採して明るい松原にすると、見どころがたくさんあるポテンシャルのある松原であることが、この四本松の存在からもわかる。すっかり日没まで松原で過ごし撮影に没頭した。近藤さんとは再会を約束して別れる。

明日に備えて一気に糸島市まで向かい市内の「元気くらぶ伊都/伊都の湯どころ」で食事と入浴。車中泊はgoogle mapで目星をつけていた「芥屋海水浴場第二駐車場」とした。電波が極めて弱い以外は正解だった。

 

楯の松原 浜の四本松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

10月20日、7日目、糸島市の空気感

 

今日は5時過ぎに目が覚めたけど気がついたら二度寝で7時半に目覚める。誰もいない「芥屋海水浴場第二駐車場」は見晴らしもよく気分爽快。しばらくすると激しい雨。駐車場にとめたままようやく各地で頂いた資料を読み頭を整理する時間を得た。そしてナビを見ながら車を走らせ「幣の浜」の松原の状態を確認しているうちに小雨なってきたので、サーファーが入れ替わり立ち替わりやってくる「幣の浜」の駐車場に入り撮影開始。

マツクイムシで壊滅的な状態になったために製塩所の煙突が見えるようになったことがネットで書かれていた。いつ頃のものなのかなど歴史的な記述はないが、煉瓦造りであることを考えると近代に入ってからのものではないかと勝手に想像する。これほど壊滅的な状態になったのは、防虫剤の散布ができなかったことだろうと想像する。糸島市はその魅力的な景観や立地からも移住者が多いのは情報で把握していたし、実際に現地を走ると素敵な建物が多く他の地域にない魅力がある。それだけに居住者との調整の難しさも勝手ながら感じるのだ。現在の松原は広く均等に計画的に松の幼樹が植林されていて、保全活動の熱意や本気度もヒシヒシと伝わってくる景観が広がる。数十年後には見事な松原となっているに違いないと確信する。

13時に糸島市内にある深江海岸の松原を保全する「深江の自然と環境を守る会」現会長の高田和男(73歳)さんと元会長の鞍垣一貴男(75歳)さんにお会いする。この海岸は約1.2km、松原の幅も30mほどの小さな規模。糸島市は明治22年の市制町村制施行時は14の村で構成されていたが、2010年に1市2町の合併により誕生した町。その合併時に市長が公約に掲げた「街づくり」に対して深江校区でアンケートをとったところ、一番気に入っているのは自然環境の良さが43.2%とトップだった。翌年から「深江校区まちづくり部会」を立ち上げ「深江の自然と環境を守る会」など5つの委員会を本格的に活動開始した。

「深江松原」は、やはり黒田藩の時代に植林されたのが事始めであった。鞍垣さんの家は代々漁師だったがお父さんの代で廃業。ご自宅の前の浜には松原はなかった。やはり漁師町の浜には松を植えていなかったことが今回の旅でわかってきた。網を広げる場所の確保や、海を見晴らすことなど理由は明快である。鞍垣さんの通っていた中学校の校庭は松原と砂浜と連続しており、松原は枝を使って要塞を築く秘密基地だった。その頃の楽しい場所がいつまでも残っていてほしいという思いから活動を始めた。

「守る会」の活動は2011年から始まり、薮と化していた松原を清掃活動で明るい松原へと整備し、永続的にマツクイムシ被害の対処と白砂青松の維持を目指している。これまで20の企業や団体、学校などの協力を得て活動しており、被害の対処を徹底して行ったところ何と2020年にはマツクイムシ被害はゼロ本になった。清掃活動では、なんと循環生活研究所に学んで集めた松葉の堆肥化を進め、地域の学校の菜園に寄付している。プラごみ回収も行なっている。松葉の堆肥化は学校の日程に合わせて10ヶ月で行うため、独自のアイデアで松葉と芝生と米糠を使って発酵をコントロールしている。これなら我が家でも可能だと膝を打った。

今日は寒冷前線の通過のため、雨が降る前は生暖かい空気だったが、雨が上がって晴れてくると海からの風が強く空気も冷たく感じ、いよいよ秋が深まってきたことを実感する。

予定のない午前中に雨が降り資料を読み込み、踏ん張っている風景が広がる「幣の浜」では曇天、そして成果が出始めている「深江松原」では晴れて、作品の効果を高めてくれたような気がする。晴れ男は維持のようである。

明日は唐津の「虹の松原」で午前と午後に取材予定があり、体調管理も含めて早めに移動することとし、虹の松原の後背地にある「鏡山温泉美人の湯」に入り「虹の松原」が横たわる「浜崎海岸」にて車中泊。

 

糸島市 幣の浜にある元製塩所の煙突(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(九州紀行第2弾(3)いよいよ虹の松原に至る編に続く)