(四国黒潮紀行 高知県をゆく編より続く)

 

8月26日、7日目。巨大な入道雲を仰ぐ。

 

雨天の予報ながら、青空のもと強い日差しを受け少し早めのお昼に、黒潮町「道の駅なぶら土佐佐賀」に到着し迷わず塩たたき丼を食す。13時過ぎ、海沿いを走る国道56号線から入野松原を一望する地点に来ると丘側の視界が一気に広がった。海側だけでなく丘側も空が広く松原も広大に見える。入野海岸の全体が土佐西南大規模公園になっており、砂浜美術館の事務局がある「道の駅ビオスおおがた」の駐車場から松原に向けて走る道にはガードレールもセンターラインも速度規制の標識もない。まるで、なんの規制もしないから自分で律する主体的な生き方をしても良いよと言わんばかりの道である。この地がそんな精神性に重きを置くなら素晴らしい。

いつものように、松原全体を想像してここからスタートするのが良いのではないかと、端っこにあるキャンプ場の駐車場に狙いを定めて車を止め植林され整った松原を抜けると、実生発芽から育った大小の松たちが海浜植物の絨毯の上に点在するダイナミックな光景が広がる。松原の全長は約2kmで砂浜はさらに距離がある。松原の植林されたエリアは全体のスケール感に比べて若く細い木ばかりで意外であったが、これは後日のヒヤリングで理解することとなる。

願い通り以上に入道雲が水平線から次々と湧き立ち、多様な松原の風景に入道雲を取り込んで表現を探究する。すると広大な松原だからこそ撮影できるようなダイナミックな作品も得られた。横一列に伸びる松原の手前に今は何も植えていない砂地だけのらっきょう畑というシンプルな構図に抜けるような青空を背景に巨大な入道雲が立ち上がるのである。

さて、撮影の興奮状態のまま、砂浜美術館の事務所がある道の駅ビオスおおがた情報館へ。砂浜美術館理事長の村上健太郎さんとは初対面だが話は尽きない。懇意にしてもらっている環境教育の人脈にいる方で、今まで接点がなかったのが不思議なほど同じ世界に佇む人だったのだ。入野松原は内陸の国有林35ヘクタールと海側の町有林14ヘクタール、公園エリアの県有林2ヘクタールからなり、黒潮町が動いて入野松原再生計画の策定を行なった。10地区の区長が構成する入野松原保存会、東森林組合、JA、林野庁、県庁など自治体職員などの中に砂浜美術館のスタッフも検討委員会に名を連ねている。松原活用や普及広報のスキルを期待されてのことで、こちらも微力ながら協力できる領域である。

砂浜美術館は1989年に今の黒潮町の松本敏郎町長など当時の地域の若者が活動開始。地域の宝である松原を含む入野海岸という自然そのものが美術館という定義で、その中で活動することを「風景をつくる」と表現する村上さんの言葉がとても印象的である。有名になっている砂浜で行うTシャツアート展、松原で行う潮風のキルト展など、風景をつくる行為なのである。そして、通常の美術館が保存絵画を修復する人がいるように、砂浜美術館も自然を修復しながら維持していくという。これには参った。これまで言葉にできていなかった松のある風景に対する一つの答えかもしれないからである。撮影の目的は、松のある風景や松に関わる人物という写真作品によって、一人でも多くの人が松のある風景の大切さに気づき自分たちでできる活用と維持という行動をするようになることなのだ。雄大な風景と良い、その風景をつくる人と良い、初めて訪れた入野松原に魅せられた。きっとしばらく滞在することになるであろう。

ただ、やはりどこでも耳にする気になる話もこの地らしい表現で耳にした。Tシャツアート展は、5m間隔で砂浜に並べていくのだが、20年ほど前は10列は設置でき、つまり砂浜幅で50mは確保できたのだが今年は5列しか設置できなかったというのだ。砂浜が半分削られていることを恒例のアート展で知ることになるという悲しい現実である。

村上さんとそのまま夕食もご一緒することになり、真味というオシャレな居酒屋に連れて行ってもらった。ここでは、来年の砂浜美術館の活動に向け連携していく話で盛り上がり明日の再会を約束して別れた。急ぎ8時半に受付を終了する「四万十の宿」の日帰り温泉に向かう。泉質は新安並温泉(アルカリ性単純温泉)とあり、露天風呂は海水温泉、風呂上がりは心地良く爽やかであった。

 

入野松原から見る入道雲(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8月27日、8日目。波乗りのメッカでもある。

 

入野松原の中心部にある駐車場で5時に目覚める。窓は閉めていたが、夜中の雨でドアに被せた網戸が濡れて室内にも少し染み込んでいた。空は快晴。朝日が差し込む松原を撮影散歩。この入野海岸は波乗りのメッカでもある。これまで見てきた四国の太平洋側のポイント、海部、生見、尾崎、内妻、宍喰など多数あるが、入野海岸は東西の視界が広く雄大に感じる。そして初心者から上級者、年齢性別に関なく幅広く楽しめる開放感があるようにも思え、とても魅力的なビーチにも見える。

さて、昨日電話でやり取りをした黒潮町海洋深林課の今西和彦課長を8時半に黒潮町佐賀支所に訪ねる。有り難いことに「黒潮町入野松原再生計画」のコピーをいただいた。お聞きした概要は以下の通りだ。2013年以降2020年にかけて町有林はマツクイムシの被害が拡大し累計で10,000本は伐採した。薬剤散布の時期を農家と相談して変更したり各地を視察して伐採後の処理の仕方を変更したりして改善が見られた。それを踏まえて再生計画を策定することになったが当時の課長が定年再雇用となって取りまとめを行なっている。これまでの松原は観光課の管轄で利用目的の活動がメインであったがマツクイムシの被害を受けて海洋森林課が管轄することになり保全を重視し再生計画の策定に至った。四万十川からの流木や濁った土砂の流出も課題となっておりこれは林業が森林組合頼りになっていることが根本的な原因と考えている。これまでは自伐林家も多くそれぞれが手入れをして山が健全に維持されていたが今では2軒程度になってしまい森林組合の人数ではとても追いつかない。人工減少による森林の荒廃は川の漁にも影響する。黒潮町は海の町で頑張ってきたため全国レベルから見ると林業のトレンドから遅れているのも事実。今後は松原再生計画の普及版を作成し町内外に広めていくタイミングにある。砂浜美術館にはそのノウハウが蓄積されており頼っていきたい。という感じで入野松原の現在地を確認することができた。

今西課長の話はとても丁寧で、今後の砂浜美術館との連携の方向性もモヤモヤと妄想できそうな気がしてきている。改めて推進者の今西文明さんから話を伺うため連絡させてもらうことにした。それにしても、日本一の清流である四万十川流域でもこのような状況になっている事実に驚いてしまった。

ここで、入野松原の歴史を記しておく。「黒潮町入野松原再生計画」に記された歴史的背景から抜粋すると、松原の起源は古く、1576(天正4)から1580(天正8)年に長宗我部元親の重臣谷忠兵衛が囚人たちに松の植樹をさせたことに始まると言われている一方で、「土佐物語」には長宗我部元親が入野に立ち寄った際にこの松原を称賛したと記されていることから、さらに前から松原は存在し谷忠兵衛が行ったのは補植という説もある。1707(宝永4)年の南海トラフ巨大地震(宝永地震)により入野松原も甚大な被害を受け、近隣住民は一戸あたり6本の黒松を植樹した。1934(昭和9)年、四国電力のトップを歴任した地元出身の宮川竹馬は松原造成事業のため私財を投じた。1945(昭和20)年、戦争末期に陸軍が米軍上陸に備え入野松原の伐採命令を出すが当時の営林署長が松原を守り現在に至る。

次は約束だった砂浜美術館の村上さんとの時間。砂浜美術館にとって松原も大切な場所。その松原の機能や維持管理のあり方、これを砂浜美術館らしいコミュニケーションの形を妄想することが宿題となる。思うことを大いに語り合う時間となった。今日は事務局長の山本あやみさんも同席くださって、明日は砂浜美術館のスタッフの集合写真を松原で撮影できることになった。有り難い。外は激しい通り雨、ランチを村上さんと一緒に食べているうちに青空が広がったので撮影に向かった。

「松韻を聴く旅」は多様な人との出会いで想像もしていなかった展開が始まっている。「日本人と松」がテーマだからと言って、これまでの定石を辿るのではなく、現在進行形で松に関わる人との出会いによって得られるイメージこそが、この撮影プロジェクトで表現する世界観なのだろう。個人の発想であるからどうしても小さくまとまってしまう懸念が大いにあるので、できるだけ視野を広げて底辺が長く頂点が高い三角形のような発想でいきたい。

いつも通りの手順だが、入野松原を歩き回り頭の中に地図を完成させていき、どこならどんなイメージを撮影できるのか、どんな日差しが差し込むのか、撮影するための要素を地図情報として頭の中で整理をしていく。初めて訪れた場所で繰り返しこのスタイルで追い込んでいくのは実のところ楽しい修行とも言える。

ところで、8月21日にやりとりしたままになっていた高知県の土木事務所河川公園管理課から電話があった。送っていた撮影プロジェクトの企画書を見て、予定に入っている「入野松原」も高知県の管轄であり、「種崎千松」と合わせて撮影許可申請が必要で有料となると言ってくるではないか。現場を見ずして机上でものを言っている担当者には流石に呆れてしまい、地元の関係者と話しながら撮影を進めている現状を話しこれ以上のやりとりはお断りした。それしても、高知県が管理する公園はどのような立場の方がどのような方針で松原を管理しているのか取材をさせて欲しいという問い合わせをしたのが発端だが、少なくとも高知県からは得るものは何もなかった。

夕食はお腹に軽いものをと、見つけていた地元のパン屋さんで買い、早めに昨日と同じ四万十の宿の日帰り温泉へ。その後、コインランドリー。そしてデータ処理と備忘録を付けて就寝。

 

8月28日、9日目。入野松原の魅力をつかむ。

 

まだ暗い5時前に起床。昨日と同じ入野松原のメインの駐車場で車中泊。昨夜からは雨も降らず風が抜け深い眠りにつけたようだ。太陽が昇る前に撮影ポイントに移動。しばし撮影に没頭し車に戻ると異様な睡魔でダウン。バックドアを開け放ったので松原を抜ける風が心地良く余計に睡魔を誘発したと思われるが、何より幸せな眠りである。目覚めたら砂浜美術館の村上さんから電話があり、今日の集合写真のスタッフが確定できたことと、明日の朝は入野松原保存会の会長さんとお会いできることになったとのこと。本当に有り難い。感謝である。

ここ入野松原は想像以上に大きな空間で、延長2kmで幅は200m、海側に並ぶ町有林の若齢林はらっきょう畑を守り、段丘にある国有林の高齢林が家や田畑を守る構造になっていて、それが一望できる空間がありスケールが大きく感じられる。海岸林に高齢の松がないのは近年のマツクイムシ被害もあるが、1854(安政1)年の安政南海地震の津波による被害も考えられ、1946(昭和21)年の昭和南海地震の津波は最大6mだったため段丘にある国有林の高齢の松は残ったのではないかと、現在の風景から想像できる。

旅に出て初めて同じ場所に長く留まることになったので、雲の変化や時間帯による変化を考えてほぼ把握できている入野松原全体を俯瞰してゆったりとした気持ちで撮影。今日は波が良い感じにあり、朝イチの波乗り人数は多かったけど、湘南の混雑には比べものにならないほど空いていて、昼前からは良いポイントが複数あるのに誰も入っていないという状況。ボードさえあればと、旅に出て初めて禁断症状が出そうになるのをグッと抑えて撮影に専念する。それにしても波乗り環境は抜群。駐車場は数ヶ所ありトイレも完備。高知県ナンバーが多いけど、岡山、広島、大阪と遠征組もチラホラ。中にはキャンプ場で数日過ごしながら波乗りをしている人もいて、思い思いの過ごし方を受け入れる入野松原の魅力をつかめてきた。

16時、約束の駐車場で砂浜美術館の皆さんと合流して集合写真の撮影。初対面ながら皆さんの普段の雰囲気を撮りたいので、まずは整列写真を撮って表情確認などをした後は様子を見ようと考えた。しばし雑談をしてもらっていると、自然と良い構図になってきたので簡単に指示をさせてもらい、とても納得できたので終了。意外と短時間で撮影できたが、ここで珍しく撮影課題を書いてしまおう。愛機のハッセルブラッドの907X CFV II 50Cの課題はこの人物写真のピント合わせにある。フィルム機種の500Cとは違いフードとピント合わせのルーペがないので、モニターを拡大して確認するのだが十分に拡大しきれないのと明るい日差しを防ぐことができず見えにくい。何度も撮り直すのも良くないので悩ましいのである。

早めに3日連続の日帰り温泉へ。なかなか不安な天気予報ではあるが、明日までは大丈夫そうなので明日を入野松原最終日にする。

 

砂浜美術館の皆さん 潮風のキルト展を開催する予定地にて(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8月29日、10日目。海浜植物の原っぱを草履で歩いていた。

 

まだ暗い5時前に起床。風通しを期待して入野松原の西側の海が見下ろせる駐車場で車中泊。雨が降ったり止んだりだったがよく眠れた。

入野松原での撮影も4日目。今日は少しドラマチックな曇り空のもとで開始。空の表情が毎日違うので撮影が楽しめている。8時に砂浜美術館の村上さんと待ち合わせて、入野松原保存会の松並勝会長さんのご自宅へ伺う。趣味の作業場で話そうと言われて入ると、椅子を作っているのだが作業場も工具も全て木工工場そのもの。何事も本気の人柄を感じる。

松並さんのお話しを記憶を頼りに書くと、「子供の頃は松原が遊び場で松を切ってはチャンバラをやったり、小鳥が多かったので首チョッパをやりおった」「あの頃は大きな松がたくさんあって根上松もあったので隙間を潜ることもできた」「松露もザルいっぱい取って、串刺しにして直火で塩焼きにして食べたら美味かったし余ったものは味噌汁にも入れた」「松林は草が生えておらずキレイで子供が寝転がって遊んでいたし、家の風呂焚きには松葉がいいので、営林署の目を盗んで松葉かきをして怒られたこともあったが、松葉かきをして手を入れたほうが松が元気になる」「漁港のあたりに小島があって岩山に松が何本か並んで風光明媚だった」「海側の町有林の松も比較的大きく、国有林の松は高齢のものが多かったが、全部マツクイムシにやられた」「一時は全部が枯れてしまうんじゃないかと思うほど絶望的な状況だったが、行政も自分たちも勉強して対策を講じたら効果が出てきたので良かった」「今は地域の子供たちと植樹して回復を目指している」「保存会は20年ほど前に当時から松原を守ろうということで立ち上がり、自分が会長を務めるのはこの10年ほどで、年に2回100名以上が集まって松原の清掃活動などを行っている」「外からのボランティアは募っていないが、サーファーたちが見かねて手伝ってくれるようになった」と言った感じである。

そして、小高い丘の上から昭和38年頃に撮られたパノラマ写真を広げていただいたがその美しさに目を奪われた。砂浜は大きく、松原は太く濃く、木造で瓦の家並は均整が取れ、田畑は全て手が入っており、見えている風景に「秩序」が感じられ負の要素がなく美しいのだ。これが日本の松のある風景のモデルとも言えるような極めて美しい景観で、自分はこのような風景を求めて旅をしているのではないかと思ったのである。この「秩序」という言葉は、後日この話を聞いてくれた自宅近所の友人である田崎裕敬さんが発した言葉。ネットで調べると色々な解釈が出てくるが、「秩序とは調和が取れていて安定している望ましい状態・順序・関係」「混乱・対立・破綻などの目立った懸念がなく全体が整った安定した状態を維持しているさま」で、まさにこのパノラマ写真から感じた印象そのものである。

雨が上がったので松並さんが通った中学校の跡地の横にある松並木で撮影。パノラマ写真から受けた印象と同じ感覚を抱く良い表情をいただいた。

砂浜美術館の事務所に立ち寄ってから、いよいよ「黒潮町入野松原再生計画」を推進している町役場の今西文明(64歳)さんを訪ねる。現在の再生計画に至った経緯をお聞きすると、今西さんが課長だった頃の高知新聞のクリッピングを出してきてこの記事に奮起したという話になった。2018年12月6日「入野松原松くい虫被害深刻 黒潮町伐採例年の4.5倍へ」、2019年1月19日「『二大松原』保全に懸命(入野、琴ヶ浜)防虫剤投入方法が鍵」などと書かれ議会でも議題となり、手始めにアンケート調査を行い、専門家が東北にいると聞いて会いに行き、対策が進んでいると聞いては鹿児島の吹上浜や県内の琴ヶ浜などを視察し、十分な下調べをした。実際に松原が真っ赤になって全滅するのではと恐れるような光景になっていたという。現地検討会を行い林内環境が悪いことや、散布時期の悪さなど把握し関係者のらっきょう農家や野球場利用者と調整。伐倒後の処理の問題があったため改善(場外搬出、樹幹注入、林内清掃)。入野松原の弱点として実測図がなかったので調査などを行う。そして、なんと2022年11月ー2023年6月で業務委託した地元のコンサル会社と再生計画を一気に取りまとめ作成。「町の代名詞が負のイメージになるのが申し訳ないので再生する」という今西さんの決意による行動力と集中力の凄まじさに感動である。そして高知新聞の2023年7月14日の記事タイトルは「入野松原松枯れ激減 再生10年計画の始動」であった。今西さんが建設課長時代に手がけた「道の駅なぶら」でランチ。年齢が近いからかとても楽しく話ができ、今後は松原の活用や広報などが課題となるようなので、引き続き交流させていただくことになりそうである。

入野松原に来て以来、海浜植物の原っぱを半ズボンと草履で歩き回り、いつの間にか足首が赤くかぶれていたのだが、これまでの経験だと数日で治るはずが日に日に悪化してきて、いよいよ経験したことのないかなりひどい水脹れになってしまった。砂浜美術館の村上さんに隣の四万十市にあるたかはし皮膚科を教えてもらって行ってみたら3時間半待ち。30分ほどで戻って来れる場所にいると言って携帯番号を伝えて、入野松原で撮影をして納得できてそろそろ良いかなと思っていたらタイミングよく皮膚科から電話。診察を受けてみると大変に丁寧な説明でびっくり。状況がよくわかって安心。説明が丁寧で人気があるのと、一人にかかる時間が長いのとで、長蛇の列ができるのも納得。かぶれてから3、4日で最大症状になるので最悪の状態で来たからわかりやすいと言われ、アレルギー反応が出てしまっているので強めの軟膏と飲み薬を処方してもらい今後は十分に注意するよう指導を受けた。

夕食を食べ4日連続の四万十の宿にある日帰り温泉で汗を流し、明日は高知に向かうので車中泊の場所を求めて移動。

 

国有林を抜ける道(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(四国黒潮紀行 高知市内でちょっと息抜き編に続く)