(四国黒潮紀行 高知市内でちょっと息抜き編より続く)

 

8月31日、12日目。和田邦坊を知る。

 

今朝も6時起床。土佐市竜の浜は小雨時々豪雨。黒潮紀行として旅を続けてきたが、先日の高知市で旧友再会だった里見和彦さんから有り難いご縁をいただいたので今日は一気に高松に向かう。先月の瀬戸内紀行を充実できそうでワクワクしている。昼前に高松市に入り7月の撮影で漏れてしまっていた栗林公園で撮影開始。

栗林公園は、江戸時代、栗林荘と呼ばれた藩主の別荘であり、詩作や茶の湯、芸能の上演が行われたり、お茶などの栽培が試みられたりと、藩主が文化や芸術を生み育て発信する場でもあったという。江戸幕末の動乱、明治維新を経て、藩から県へ移る中、高松松平家の手を離れ園内の藩主の別宅も失われたが、「香川県博物館」現在の「栗林公園 商工奨励館」(讃岐の迎賓館)が建設され現在に至るようだ。

現在、栗の木はほとんどなく松の公園として親しまれており、代々の職人さんによって維持管理されてきた松たちは、海岸林の松林とは全く異なる姿形だが、それが松という樹種の素敵なところでもある。海岸林や巨樹とは違い、公園で丁寧に管理された松を見つめるので、頭の中のチャンネルを変えて対峙しないと全く撮影することができない。しばし集中して松が見えてきたら雨が激しく降ってきたので、雨宿りをしたらすぐに上がり撮影が再開できた。すると雨で人が減ったのかランチタイムになったからなのか、広い風景に人がいないという撮影に最適な条件になっていた。予定時間の13時になったので終了し善通寺市にある灸まん美術館へ向かう。

灸まんとは、琴平名物のまんじゅうだが、名前の由来は旅籠に泊まる旅人に据えていたお灸がモチーフ。命名は香川のデザインは邦坊のデザインと言われた和田邦坊である。漫画家、小説家、商業プロデューサー、そして画家と多彩な才能を発揮した人物を全く知らなかった。故郷の香川に戻り昭和25年から昭和49年まで6期に渡り知事を務めた金子正則と組んで、母子健康手帳から長寿手帳、そして名産品のパッケージまで、県民が毎日目にするのは邦坊のデザイン。そんな人物が人生の後半は画家として作品を残している。ここ灸まん美術館は、邦坊が創業者からの熱い依頼を受け屋号から商品開発やパッケージまで手がけた「灸まん本舗石段や」が運営しており、邦坊の作品を収集し展示している。

その中に圧倒的な存在感を放つのが松の作品なのである。中でも香川県庁知事応接室のために「津田の松原」をモチーフに描かれた「讃岐の松」1957(昭和32)年、(縦223cm横/875cm)は巨大で圧巻の筆使い。いつかこの作品を撮影したいと心に期するものがある。そのほかに「観音寺」や「栗林公園」の松も多数描いている。「津田の松原」「観音寺の松」は7月に撮影してその特徴がわかっており、邦坊の描いた松を見ればどこの松かがわかるので、とても刺激的である。

棟方志功が津田の松原に足を運んだのも、猪熊源一郎に言われて邦坊が描いた知事公設室の「讃岐の松」を見て感激したから和田邦坊と一緒に見に行ったと言われており、のちに「香川県庁大広間の和田邦坊画伯の大画業は今世の絶大に数えられるべきものと感嘆やまないことです」と言っている。イサム・ノグチにも「邦坊さんの絵は日本の神様が遊んでいる形です」と言わしめ、多くのアーティストたちから支持されていたと言われている。

そんな話を聞かせてくれたのが灸まん美術館の学芸員の西谷美紀さん。京都の大学で学び、学芸員を京都でスタートさせ、帰郷して栗林公園に勤めていた際に、和田邦坊の作品に出会いゾッコンになってしまったという。現在は、邦坊の作品を掘り起こし整理しアーカイブしていく気の長い作業に身を投じているが、いまだに作品が新発見され続けているそうだ。西谷さんが地域のクリエーターたちと制作したビギナーズブックがわかりやすくて良く、西谷さんの情熱で邦坊の多方面での評価が高まるように思える。そんな西谷さんを邦坊の「松」の絵画作品と一緒に撮影することとなり、明日改めて訪ねることにした。

さらに、西谷さんから2つのアイデアをもらった。1つは、栗林公園の植木職人が最近お揃いの半纏など衣装を新調し見られることを意識しているという。きっと撮影依頼を受けてくれるのではないかというのだ。これはトライするしかないと、その場で栗林公園観光事務所に電話をして松の維持管理をしている植木職人さんの撮影をさせて欲しいと伝えたところ、とても丁寧な対応で造園課に繋いでもらえ何度もやり取りをして撮影の了解をいただけた。明日の9時半に栗林公園の箱松の前で待ち合わせとなった。もう一つは、西谷さんが見せてくれた邦坊が手がけたお菓子のパンフレットが今もお店にあるかもしれないというのだ。栗林公園に近い富屋菓舗で、邦坊が描いた松の絵があしらわれた「貴松」というお菓子のチラシと、松にまつわる単語を全て紹介する松の言葉辞典のような「貴松」のパンフレット。喉から手が出るほど入手したいので、明日の栗林公園での撮影の後で行ってみる。

「松韻を聴く旅」は、出会う人によってますます良い意味での「想定外」の広がりを見せてくれており、想像もしていなかったような作品になってくれそうな気がしている。物語は出会いと共に広がり姿かたちができていくのだろう。人のつながりに感激の日々が続く。栗林公園は朝5時半から開園のため、たまたま温泉施設がある道の駅「香南楽湯」が至近距離にあるので、そこで車中泊し早朝から撮影とする。

 

栗林公園(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9月1日、13日目。感激の人物撮影。

 

今朝は5時起床。「栗林公園」に6時前に入園し撮影開始。と言っても公園全域で朝の散歩をするようなもの。ただ違うのは、風景を凝視し途中で三脚を立てて風景を採集していくということだろう。気が付けばあっという間の8時半。少し休憩して9時半に香川県栗林公園観光事務所造園課の森川さんと待ち合わせ。すると植木職人の半纏を着た集団がやって来た。この半纏は、公益財団法人松平公益会が、2022年12月に、高松藩の初代藩主松平頼重の生誕400年を記念して寄付したもの。徳川一門の家紋は諸説あるが松平家の家紋として葵の御紋が大きく背中に染め抜かれており、インバウンド観光客の注目も期待されている。さて酷暑の中の作業時間を割いてもらい全員で9名による集合写真の撮影である。三脚を立てまずは数枚シャッターを切ると、なんと薄日になり絶好のコンディションになる。「撮影に絶好な薄日になってくれました!」と叫んで笑いを誘いつつパターンを変えて無事に撮影終了。ハイテンションで撮影していたのだがドッと緊張感から解放されたことに気づく。

10時半に公園を出て向かったのが「富屋菓舗」。静かな店内に人感センサーによる呼び鈴が響き、中から感じの良い高齢の女性が出てこられた。大変に失礼ながら商品ではなく、和田邦坊が関わった貴松のパンフレットは残っていないかと切り出した。するとそれならまだありますよと、棚から出してきてくださった。さらに邦坊が描いた栗林公園の松の絵を使ったチラシもある。少々興奮してしまい、なぜ邦坊が関わったのかを聞くと女性は丁寧に話してくださった。もうお亡くなりになったご主人が付き合いのあった讃岐印刷の紹介で和田邦坊と繋がったことや、他の印刷会社だと邦坊を扱うのが難しいと言っていたなどだが、それ以上は昔の話なのでと遠慮された。女性のお名前は大内佐代子さん。これは逃してはならないチャンスと思い、とても素敵な笑顔なので写真を撮らせていただきたいとお願いしたところ、戸惑われたが了解をしてくださったので慌てて三脚をカメラを車に取りに行き、お店の中で三脚を立て松の絵を持っていただき2枚シャッターを切った。素敵な笑顔をいただけた。

次に向かったのがうどん本陣山田家。ここは和田邦坊の甥にあたる方が開いたお店で、店舗デザインからメニュー開発まで手掛けたという。今も箸袋などは邦坊が書いたものが使われている。さらに入り口から店内まで邦坊の絵画作品で壁が埋め尽くされている。座席によっては電気の傘まで邦坊の絵である。お店の方に、入り口にある大きな松の絵が撮影できるコンディションか一緒に確認していただいたが、ガラスケースの中にあるだけでなく額装にもガラスがあるので眺めるだけに。すると、ご厚意で邦坊の資料を一冊いただくことができた。ゆっくりと邦坊が考案した名物のぶっかけ鍋うどんを味わった。

いつの間にか和田邦坊が描いた松巡りになってしまったが、最後は灸まん美術館での撮影である。学芸員の西谷さんが邦坊が描いた松の作品2点を収蔵庫から出してくださっていた。1m x 1mほどの栗林公園の松を描いた作品「松」をギャラリーの壁に2人でセッティングし、いろいろ思案したがこの絵を背景に「観音寺の松とお遍路さん」を描いた額装を手に持ってもらうことにした。邦坊の絵に挟まれて邦坊愛が溢れる笑顔で撮影させてもらった。良い表情をいただいた。

これで今回の撮影取材旅の課題は、追加課題が盛りだくさんだったが全てクリアした。宿題は香川県庁の知事応接室にかけられた大作「讃岐の松」を撮影することだ。県庁が移転する際に処分されそうになったのを一人の職員が救ったという逸話もあるらしい。そんな大作のモチーフが「津田の松原」なのだが、7月の撮影取材の際には平山郁夫が描いた場所や棟方志功が溺愛した松を教えてもらったが邦坊の話はなかったので、明日は7月に撮影させてもらった津田の松原再生計画の推進者で88歳の鶴身正さんに会ってから帰ろうと思いつき、電話をしたところ明日の9時に鶴身さんのご自宅でお会いできることになった。せっかくなので名物の灸まんと邦坊の冊子を手土産に持っていく。日没前に津田に到着し夕食は三宝という食堂でハマチのあらだきが絶品。お風呂は7月に利用した松原にある国民宿舎クアパーク津田が、なんと今日からネーミングライツスポンサーでじゃこ丸パーク津田になっていた。津田の松原で車中泊。

 

再びの津田の松原(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9月2日、14日目。 香川県は松の国。

 

海も空も松原も赤く染まる5時過ぎに起床。8時半過ぎまで歩き慣れた津田の松原や松原を見下ろす丘からの撮影。9時に津田の松原再生計画の中心人物である鶴身さんのご自宅へ。とてもお元気そうで、お贈りした写真がご家族に大好評だと言ってもらえて嬉しい限り。香川県庁知事応接室の「讃岐の松」は知っているが、邦坊を知らなかったのと津田の松原がモチーフであることに驚いていたので、ぜひ一緒に撮影に行きましょうと盛り上がる。7月にお会いした時は再生計画を取材させてもらったので、今後の抱負やアイデアを話してくださったのだが、今回は現状の課題認識を多く口にされた。やはり再生計画を引き継ぐ次世代の問題や、移住者との交流が十分ではないこと、新たな動きを仕掛ける人たちとの交流をしたいなど、もどかしさを感じていることがありありと伝わってくる。そこで、黒潮町の入野松原が再生計画を立案し津田の松原のように松葉かきができるような砂浜を目指していることを伝えると、Tシャツアート展の交流があることや、松露の菌がついた砂を分けてもらったことなど黒潮町とは交流を深めたいとのことだったので、黒潮町役場の今西文明さんを繋ぐ約束をした。2時間ほど冷たいお茶をいただきながら、扇風機の風だけでとても涼しい鶴身さんのご自宅の土間で語り合い、再会を約束して辞した。

こうして各地で松原や松に関わる人と出会いながら旅をしていると、その人たちをつなぐ役割も見えて来た。昔の旅人が各地の見聞を伝え歩いたように、僕も松に関してそのように役に立てたら意義深いなと思い始めている。

ところで、香川県は松盆栽の全国生産量の8割を占めるらしい。瀬戸内の気候が盆栽づくりに適しているとも言われ200年余りの歴史がある。それは、何をおいても海岸に佇む松や岩山に佇む松の姿があるからであり、香川県は松の国とも言えるのではないかと思えた。今回の栗林公園は日本でも有数の松の庭園であり、津田の松原や観音寺の銭形砂絵の周辺の松など、他県に比べても魅力的な松の名所が多いのではないだろうか。県庁知事応接室の和田邦坊が描いた巨大な壁画「讃岐の松」がそれを象徴しているようだ。

名残惜しい四国だが(黒潮紀行がいつの間にか瀬戸内紀行)帰路につくことにした。大鳴門橋を渡り、淡路島を駆け抜け、本州に入り京都の桂川サービスエリアで休憩中にまだまだ余力があるので、三重県鈴鹿市にある幹回り推定7mはある大松と津市にある香良洲公園の多数の古松を撮影するためもう一泊することに気が変わった。良い旅だ。

さて、鈴鹿市にある地蔵大松。確かに大きい。幹回りもこれまで見た松の中では最大で7mはありそうだ。鈴鹿市の天然記念物にも指定されている。この大松には蘇我・物部の時代からの様々な伝承があり、そのまま鵜呑みにすると樹齢は1400年を数えてしまう。しかし、全国の大松がマツクイムシ被害でことごとく枯れてしまった中で、国内屈指で最大級の大松であることは間違いないだろう。1732(享保7)年、干魃に困った人々が水を得ようと大松の近くの湿地を掘ったところ地蔵菩薩像が出てきたので、大松の脇にその像を安置する地蔵堂を建立して現在に至ると看板にある。今から300年前にはすでに大松と言われていた。樹体はクロマツとアカマツを寄植えした個体が癒合したアイグロマツと推定するウェブサイトもある。また2019年には、無風状態で長さ7mほどの枝が折れたため、作業員が調べたところ内部が空洞化している可能性を指摘したという中日新聞の記事もある。数年前までは周辺は田んぼが広がっていたようだが今は住宅街の中に佇んでいる。この佇まいを撮影するため、ヤブ蚊のご馳走になってあげながら何周も大松を回って撮影。かなり人の手が入って支られている姿は痛々しくもあるが、たくさんの青い小さな松ぼっくりが鈴なりでまだまだ勢いがある。会えて良かった。

日没後になんとか香良洲海岸に到着。今日は週末のため周辺にあるスーパー銭湯は混雑が予想されるのでグッと堪えて体を拭く。

 

9月3日、15日目。寄り道の末の帰宅。

 

三重県津市にある香良洲海岸の駐車場で日の出直前に起床。丘からの風が涼しく気持ちの良い朝。この2週間の旅は四国各地で朝を迎えていたので、ここが三重県である実感がかなり薄い。

この海岸は古くは香良洲浦と呼ばれ、1903(明治36)年発行の「三重県案内記」では、「伊勢湾風景第一の地にして砂清く松古りて枝振り面白く風光絶佳、須磨明石に譲らず」と書かれていることを津市教育委員会が看板に記している。

現在は津市指定名勝になっているが公園はしばし放置さえているようで荒れ始めている。このため、かえって松の古木たちの枝振りは自由奔放に伸び伸びとしており、被写体として魅力的で集中して撮影することができる。しかし、マツクイムシの被害を受けた過去もあり、現在も元気のない古木も目につき、数年後には残念な状態になっているのではないかと危惧する。地元の方が散歩している様子も見ていると、津市には歴史あるこの公園の維持管理を真剣にに検討してもらいたいと願わざるを得ない。

さて、今度こそは旅も終了とナビには自宅を行き先にして出発。高速に入って快適に走り出し最初の休憩で、まだ余力があるのでこの先々でまだ撮影していない松の巨樹がないか念のため確認したところ、愛知県新城市にあることが判明。再び寄り道することとし、新東名の新城インターからすぐの立地にある永住寺へ。

インターから永住寺へは味わい深い道で、家並みも宿場街のように見えるなと思ったらこの道は伊那街道であった。その街道から少し入ったとこにある山門に、幹回り4m以上で樹高もかなりある松が3本佇んでおり、1km以上手前から見えていて目印になっていた。この永住寺は1513(永正10)年に創立されたと看板にあるので、この時に植樹されたとしたら樹齢は500年を数える。また、近世曹洞宗の中核寺院として、本堂・庫裡・書院・禅堂・衆寮、山門などの伽藍が保存状態良く一体的に残っているため、「国土の歴史的景観に寄与」「造形の規範となっている」として国の登録文化財となっていることが新城市のウェブサイトに書かれた由緒ある寺院のようである。

お昼近くになったので、新城インター近くにある「道の駅もっくる新城」に行くと人で溢れかえっている。車はもちろん多数のバイク、そして観光バスまで。それもそのはず、この道の駅は設楽原決戦場にあるのだ。そして先日行った高知県の牧野記念植物園。今回たまたまこの2か所に足を運び、NHKの大河ドラマと朝の連続ドラマは究極の地方創生キラーコンテンツであることを実感する。ちなみに大行列になる前に入った食堂の「とり汁定食」はボリュームがあり美味であった。

さて、今度の今度こそナビの行き先は自宅。ほぼ渋滞もなく16時半に到着し2回目の「松韻を聴く旅」を無事に終了。次回は九州を考えている。雪の季節までに九州全域の撮影を終えたい。

 

国内最大級の地蔵大松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

メーター読みで約2,800kmを走行。ガソリン消費量は338.24リットルで排出CO2は784.7kg-CO2であった。よって1トンのクレジットを購入してみなし排出ゼロにしたが、これは致し方ない対応策であり本来は望ましいとは思っていない。早く再生可能エネルギーなどによる次世代の車が普及し国内インフラが整うことを願う。

 

カーボン・オフセット認定証

 

(九州紀行第1弾 序章 岡山の巨樹に会いにゆく編へ続く)