(四国黒潮紀行 入野松原をゆく編より続く)

 

8月30日、11日目。牧野記念館から高知城へ。

 

今朝はゆっくりめで6時起床。結局、黒潮町の東の入り口のように感じる「道の駅なぶら土佐佐賀」で車中泊。雨である。今日は休養日に当てようと思い高知市にある高知県立牧野植物園へ。目的は開催中の菅原一剛の写真展「MAKINO 植物の肖像」で、先日交友を温めた里見和彦さんが展示を手がけている。1999年の牧野太郎記念館開館直前に里見さんの依頼で撮影に訪れて以来だが、雨が上がって晴れ間が広がる中を牧野植物園に入ると、記憶に導かれるように記念館の中を歩けるのが嬉しい。

そして菅原一剛の作品と展示はもちろん、撮影に至る物語に大いに共感した。その物語を詳細に書かれたイラスト作品が壁面にあるのだが、これは里見さんが描いたものであることは瞬時に理解できた。牧野富太郎の波乱に満ちた生涯と、記念館ができて膨大な標本が未来へ受け継がれるため管理されている現在に至るまでの流れが大きく展開する。それに対して、菅原一剛が少年時代に牧野図鑑と出会い、大人になってからも思いを抱き続け牧野富太郎の故郷である佐川での撮影、記念館への訪問、そして標本と出会い交渉の末の撮影許可、学芸員が選び抜いた標本、こだわった撮影と現状処理とプリント作業までが絡み合う。さらに、ピンクに処理された「センダイヨシノ」の標本写真が、牧野富太郎生誕160年の2022年4月24日の高知新聞の朝刊にラッピングされ、全16万世帯に配布されるところまでが一枚絵の作品として完結しているのある。とても楽しく見応えがある。ストーリーを語る第三者の声と、菅原一剛が牧野富太郎に対する思いを語る独り言までもが聞こえてきそうなのだ。写真家の中にある一つの作品に至る物語が共感と納得を呼び起こし、展示された作品に深みと厚みが増すことを体感した。果たして「松韻を聴く旅」にこのような要素があるのだろうかと自問自答するが、きっと現在進行形で歩みを進めているに違いないと信じて前進あるのみと言い聞かせる。もちろん、菅原一剛の作品を通して牧野富太郎の研究者として人間としての魅力についても理解を深めることができ、とても有意義な時間となった。

「松韻を聴く旅」は、海岸の松原だけを対象にしているわけではなく「日本人と松」がテーマであり、松の林、松の巨樹、松の縁を探求する旅である。今日は休養日と思っていたのだがあまりに刺激を受けたため思案していた高知城へ足を運んだ。四国は現存天守閣の宝庫と言われている。全国12ヶ所あるうち4ヶ所が四国で、丸亀城、高知城、宇和島城、松山城。これを知るきかっけは、思い返すこと2019年に城ガールの次女と2人でレンタカーを借り、岡豊城址、高知城、長宗我部元親の墓所、宇和島城、大洲城、湯築城址、松山城、今治城と、知識がないと巡らないであろうコースを次女の指示に従って、2泊3日で生涯の思い出となる至福の旅をしたからである。その時、高知城の天守閣の脇に大きな松があることを覚えていたので、「松韻を聴く旅」の被写体なるのではないかと考えたのである。

ちなみに、高知城のウェブサイトによると、高知城天守は慶長8(1603)年に完成し山内一豊が入城。享保12(1727)年の大火によって焼失し現存天守は寛延2(1749)年に再建。昭和23年から始まった解体修理の際に、創建当時の姿がそのまま踏襲されていることが判明。天守の古い様式を今に伝えており国の重要文化財に指定されているとある。また、城に松を植えるのは、火力はもちろんだが籠城戦になった時の食料にもなるためだったという。秋田県の由利本荘市観光協会のウェブサイトなどによると、赤松の皮を利用した餅は、日本では由利本荘市の鳥海地域と矢島地域に伝えられている大変珍しい郷土菓子で、江戸時代、飢饉の際に松の皮を食べたのが始まりとも、矢島藩主の生駒氏が改易前の四国で兵糧攻めに備えて発明されたとも書かれている。

撮影を終える頃に雨も本降りというか叩きつけるような土砂降りとなり終了。この旅の5日目に行ってとても良かった土佐龍温泉三陽荘の日帰り温泉へ。やはり貸切状態で源泉低温を満喫できた。

 

高知城天守と松たち(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(四国黒潮紀行 和田邦坊に会いにゆく編へ続く)