(四国黒潮紀行 徳島県をゆく編から続く)

 

8月23日、4日目。今日は特に写真の神様の存在を感じた日。

 

昨夜は異様に生暖かい海風でエアコンなしでは眠れないと判断して「大里松原」の東端にある人里離れた空き地で車中泊。まだ暗い夜明け前に起床。明るくなる頃にグランドに立つ樹齢を重ねた松を何度目かの撮影。小雨が降ったり止んだりで三脚を立て数枚撮影すると、なんと朝日が差し込み太く大きな幹を照らし始めて絶好のシャッターチャンス。納得できたところで車に戻ろうとすると豪雨。ー写真の神様に感謝その1。

高知県芸西村の「琴ヶ浜」を目指して移動。芸西村役場産業振興課の山本浩孝さんを13時半に訪ねる約束。飛び込み電話アポに快諾くださった方の第二弾。とはいえ、約束までたっぷり時間があるので得意の寄り道大魔王である。ワイパーを高速にしないと前方が見えない豪雨の中を移動していると、室戸岬の手前にある「鹿岡の夫婦岩」にある一本松が印象的だったので雨ガッパを羽織って撮影をしようとしたら、雨は小降りとなり三脚の位置を決めて何枚か撮り始めると雨は上がり納得できたところで車に戻ると再び豪雨。 ー写真の神様に感謝その2。

せっかく室戸岬まで来たので松の木はないけど車をとめて灯台まで行こうとカッパを着て上がると雨は上がり、カッパを脱いで幻想的な霧に霞む四国霊場24番の最御崎寺を拝むことができた。灯台を眺める場所からは遥か沖から雨のカーテンが向かって来るのが見えたが沖合を通過して青空が覗き始めた。ここ室戸岬灯台にも元会社の同僚の波房克典が手がける灯台プロジェクトの看板が立っており嬉しくなったのだが、誰もいない場所で劇的な天候のため余計に感じ入るものがあった。気分良く車に戻り移動を始めると再び豪雨。 ー写真の神様に感謝その3。

次は石で作られた外壁や水切り瓦など、台風に対応した室戸地区らしい町並みが保存されている吉良川に立ち寄る。ここは古くから木材集積地として栄え、明治以降はウバメガシの備長炭の産地となり大正時代以降は一大産地として繁栄。やはり地域資源を活かすには海運業の存在が大きい。そんなことを把握しながら散歩撮影を始めると再び雨が上がり、撮影ポイントである御田八幡宮への道に来ると日差しまで。 ー写真の神様に感謝その4。

次は国道55号線沿いに比較的しっかりした松林が続く「唐浜」を見つけ、豪雨の中を車を止めて様子を見ていると小雨になってきたので撮影を始めるものの撮るのが難しい立地で、今のタイミングでは無いかなと思っていると豪雨となる。ここ「唐浜」を撮るのは今ではないという写真の神様の判断だと受け止め、ここは何としても必ず出直すこととした。

さて、芸西村役場には豪雨の中で到着。産業振興課の執務室で山本浩孝さんとお会いする。僕の来訪に合わせて、「芸西村史」や近年の施業報告書などに改めて目を通してくださったので一気に情報を得られ理解が進む。村史の「芸西の防潮林」には、「土佐藩林制史」からの引用で1884年に亡くなった古老の口伝として、「野中兼山(江戸初期の土佐藩家老、儒学者)が防風や潮害防止を目的とした浜松林の植樹をはかり、過怠銀(かたいぎん)の代わりに松の植樹を課した」(過怠植林は藩政時代に材木の盗伐者に対する制裁として科した制度)とある。また「浜松林」は「海辺潮霧囲松林」「浜松留林」と呼ばれていたとも書かれており、1684年の記録では30,000本の松原が防砂林・防潮林としてすでに存在し、「琴ヶ浜」の松原は藩当局の積極的な保護のもとに育成されてきた浜松林であったといえ、燃料のための盗伐などから守るために藩が管理していたのである。さらに芸西村の内陸の山にかけて松があり留木として藩当局から保護されていたようである。浜松留林は防風防潮だけでなく道路並木の役割も果たしていたともある。現在は近年のマツクイムシ対策をきっかけに、薬剤散布と樹幹注入などを3年サイクルで行い年に数回下草刈りを行雨ようになっている。これらの一切の管理を村役場で山本さんが担当している。報告書に目を通すと胸高直径90cmのものが数本記述されておりこのクラスが最大。当時も浜松林の若返りを行っていたとの記録もあるので、樹齢を重ねた松が少ないのも理解ができるし、過去の津波などで被害を受けた影響があるのかもしれない。雨も小雨になったので現地で確認しようとなり松原に向かってみると再び豪雨。それでも傘をさして2人で松原を歩きまわるうちに小雨になり山本さんを撮影。もう少し粘りたかったけど時間切れとなったので、天気予報から明日は厳しいとみて明後日に松原で再会する約束を交わした。

再び雨が降り出したのでしばらく様子を見ていると水平線は青空が広がり始め上空も雲が切れてきたので村の中を撮影散歩。和食(わじき)駅から見える松のある風景が良い。一つは水平線を背景に見える松原、もう一つは松原を抜ける線路である。山本さんが気にかけている旧国道にある樹齢数百年はありそうな一本松。これが道路並木の役割を果たしていた浜松林の名残ではないかと思われるが、高台にあり津波被害を逃れた場所ではないかと想像しながら撮影すると雨上がりのいい光。 ー写真の神様に感謝その5。

さて、逆戻りで少し距離はあるがサーフライダーファウンデーション代表の中川淳さんがメッセンジャーで教えてくれた田野町にあるたのたの温泉に向かう。向かう動機の一つが、豪雨で改めて撮影せよとなっていた「唐浜」の松越しに見えていた水平線である。果たして行ってみれば夕暮れに染まる水平線には入道雲がドラマチックに見え隠れ。なるほど今だと納得して撮影。 ー写真の神様に感謝その6。

あまり計画的にならず天候と相談しながら思うがままに、ただし何事も前に前にと行動することで、僕の撮影旅の巡り合わせが良くなって行くように感じる一日であった。

たのたの温泉は美人の湯と言われお肌に優しい泉質でしっかり疲れを癒し、コインランドリーの時間に食事を済ませ再び芸西村の「琴ヶ浜」に戻り車中泊。うっかりガソリンを入れ忘れ21時以降はどこも閉店。今夜はとっても涼しいので雨が降らなければガソリン節約のため、窓を開け放ち涼しく快適な夜を過ごせるのだが睡魔がやってきて判断できないまま眠ってしまう。

 

唐浜からの水平線(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8月24日、5日目。涼しい風が吹き抜けていく朝の琴ヶ浜。

 

5時時半に起床。窓を全開で寝てしまっていた。天気予報は激しい雨だったが雲は多いが青空が望めるではないか。水平線の彼方では雨のカーテンが見えるがこちらに来る気配はない。薄曇りで絶好の撮影日和。6時ごろから「琴ヶ浜」の松原を撮影散歩。

9時に芸西村役場の山本さんに明日ではなく今日に変更依頼の電話をして10時に待ち合わせ。直径90cmの集団がどこにあるか判明したと言うので向かうとブッシュの中で、藪蚊の餌食になりながら確認したが撮影できる状態ではなかった。目的である山本さんのポートレイトは、山本さんの生まれ育った芸西村の子どもの頃からのイメージであるなだらかな丘陵に松原がある風景。「琴ヶ浜」の松原は海岸から15mほどの高さへと斜面になっており、まさに自然の防潮堤。巨大地震のハザードマップでもこの松原は超えない予想。もちろん河川からの流れ込みがあるので完全に防げる訳ではないが頼もしい松原だ。言葉を選ばずに記すと今回たまたま松原を担当している山本さんに会ったわけだが、この機会を得て改めて子どもの頃から慣れ親しんだ松原を捉え直す機会となったとのこと。山本さんは44歳とひとまわり近く若いのだが、ありがたい言葉が嬉しく勝手ながら良き友人が芸西村にできたと返し、再会を約束して握手で別れる。昨日よりも山本さんの柔らかい表情を撮影できたのは言うまでもない。その後、山本さんの子どもの頃からの松原のイメージと施業の証である白いテープをアートのように撮れないか試行錯誤。山本さんが見えている琴ヶ浜の松原、山本少年の物語が他の松原との差別化のポイントにならないかを思案した。

昼を過ぎ相変わらず雨は降らないので先に進めることにして高知市内にある「種崎千松(たねざきせんしょう)」へ。高知県土木事務所からは撮影が有料になると言われたままで、果たして被写体として魅力があるかまずは判断することとした。直径1m前後で高さのある大きな松が同じ方向に傾いて並ぶ姿は魅力的ではあるが、支え棒もあり確かに管理はされているのだが何か部分最適のような印象で、抽象的な言い方になるが風景から愛情が感じられないのだ。この公園には保全計画がなく、松原の歴史も把握されておらず、維持管理という対処業務を委託事業者に仕事として発注しているという。多くの人が散歩をしている市民に親しまれた空間のようだが、立ち並ぶ松たちからなんとも言えない声が聞こえてきそうなのだ。ここを対象にするのか悩みながら対岸の桂浜に向かうと、生まれて初めて対面した龍馬像は松に囲まれて海を臨んでおり何とも嬉しい気持ちで撮影。

結局雨に降られることなく夕方を迎え、日帰り温泉を検索し土佐市にある土佐龍温泉三陽荘を選ぶ。ここは高知県で他にはない源泉のまま楽しめる温泉とある。高濃度で数カ所の傷口に刺激を感じる泉質。ここは宿泊施設でレストランもありフロントでお願いすると幸いにも平日だからか風呂上がりに予約でき、炭火の香ばしさと天日塩の甘さが絶妙でたまらない鰹のタタキ定食を食した。さて雨は行く先々で道路が濡れていたり移動中にパラパラしたが降られずで、車中泊に決めた竜の浜の駐車場でも雷は聞こえるが降らない。外はとっても涼しく、ドアに網戸を被せたまま窓全開で寝るか、諦めて雨が吹き込まない程度の隙間にして寝るか悩ましい。

 

琴ヶ浜の旧道にある一本松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8月25日、6日目。突然に思い出し実現した旧友再会。

 

小雨が降る5時半に起床。パソコンで調べものや資料作成などをしているうちに段々と雲が流れていくなあと思っていたら、突然のように思い出し高知市内にお住まいの30年来の友人の里見和彦さんに電話をした。すると今日の今日でお会いできることになり、高知県立美術館の野町和嘉写真展「地平線の彼方から」を観てから訪ねることにした。

9時半に野町展へ。1970年代からのポジフィルムの展示作品がとてもシャープで美しく迫力がり物語が読み取れ、有名になったイメージも多数あり展示で見るのは初めてで風景も人物も1枚1枚に魅入ってしまった。2000年代前後のデジタルの作品もその緊張感が維持されていてやはり深みがあり丁寧に見ることができた。第二部「シベリア収容所1992」も初めて見たが体当たり感があって見応えのある良い作品揃い。一方でキヤノンカレンダーのために撮影されたという「世界遺産を撮る」は、その視点や技術、美しさは抜群に素晴らしいのだが、何か緊張感が足りないというのか深みを感じることができないというか、依頼仕事でサポートもあり以前の自分の興味のままに厳しい旅を続けながら辿り着いたシーンと比べること自体が間違っているのもかもしれないが、野町和嘉自身が魂を込めて撮りたいものなのかという疑問を持ったまま駆け足で見るにとどまった。この対比は非常に勉強になる。それにしてもダイナミックな写真家人生に頭がさがる思いである。

さて10時半に高知市内の里見和彦さんのご自宅へ。里見さんは設計デザインを生業とし、牧野富太郎に関する展示レイアウトやデザインを手がける方で、五台山の企画展示だけでなく練馬の記念館のデザインなども牧野富太郎のご家族から直接依頼を受けている。僕は1989年に博報堂の業務でご一緒して以来で、このようなお付き合いができているのは他にいないぐらい貴重な存在の人で、1999年に五台山の高知県立植物園に牧野富太郎記念館が開館する際に、宣材写真が欲しいという里見さんのリクエストがありご自宅に泊まらせてもらったことがあるのだがそれ以来の訪問となった。当時、記念館の夜景も撮るため2人だけで居残って広いウッドデッキに寝転がってヒグラシやクツワムシの大合唱を聴きながら星空を眺めたことを懐かしく思い出す。里見さんは記念館にお勤めだったが、現在は奥様と里見デザイン室を運営されている。

2時間ほど居間で語り合ってお庭でポートレイトも撮らせてもらい、近くにあるおすすめのレストランに奥様も一緒に3人で出掛けご馳走してもらった。そしてお二人から、松のことならと「和田邦坊」の松の絵が良いと勧められ、その「和田邦坊」を熱心に研究している灸まん美術館の学芸員の西谷美紀さんを紹介してもらえることになった。この撮影取材の旅の後半で訪ねられるように調整する。加えて練馬の牧野記念館にも良い松の木があるので、ぜひ撮ってほしいと勧められたらのでこれも機会を作って撮影することとした。それにしても突然の押しかけ訪問にも関わらず変わらぬ優しさで迎えてもらえて大感激の再会であった。

気分がとっても良く、お天気も続くのでこれは前進あるのみと判断し一気に四万十町の興津を目指した。すると高知自動車道を降りてからの走りやすい快適な地道が、突然ヘアピン続きの細く長い興津峠を海へと下る山道へと激変。その道を降り立った集落が興津。1700年代に尾池春水という国学者が桜貝を添えて歌った歴史もある「小室の浜」に古くから松原がある。他からの道はなく、興津峠を下るこの1本道のみの陸の孤島でびっくり。間違いなく海路で栄えた町なのだろう。この山道を戻って45分ほど走れば、その名も松葉川温泉に行けるのだが今日はここに留まることにした。というのも、この松原には昭和の香りがする興津青少年旅行村というキャンプ場があり、トイレ炊事場はもちろん温水シャワー100円の看板が目に止まったのだ。いつものように、松原全体を把握するための撮影散歩をしていたら、キャンプ場の受付看板が目に入り一人おじさんが座っていたので、「全国の松原の写真を撮っているので撮影をしても良いですか」と挨拶。この方の話がこの地の近年を知るのに最適な内容であった。

受付にいたのは佐藤恵司さん73歳。「興津峠のあの道は地元の人間が土方仕事でしっかり造ったもので崩れたことがない」「ここの小学校中学校を出て電気工になって横浜で働いていた」「家業の銭湯を継ぐために帰郷したが当時は3軒も銭湯があるぐらい漁師たちが多い町だった」「シイラがよく取れ当時は数十人の漁師たちが夕方まで水揚げしていた」「電気工のかたわら主に九州の主要都市に4トントラックで運ぶ仕事もしていた」「この地域の観光協会のメンバーとしてキャンプ場の運営に関わっていたが人間関係など色々あり、さらに市町村合併もあって今は四万十町の観光協会が管轄し委託事業として請け負っている」「町の予算を使って自分を合わせて5名ほどで運営管理をしているが松原の管理費用は組み込まれていない」「松原は防風林として大事なので自分たちの意思で維持管理をしている」「手取りが少ないので他の仕事もしたいが夏場は忙しく定職に就くのが難しい」「自分はこのままでも構わないが次の世代にお願いするには厳しいのでバトンタッチができない」「毎年海亀が産卵に来るので小学生たちが卵を保護し孵化したら観光客と一緒に放流していたが、人間が保護するとオスばかりになると言われ今は産卵した場所で保護する活動に切り変わっている」「漁港の堤防ができてから海流がかわり砂浜が半分ぐらいに減ってしまった」「堤防に近い側はきめの細かい綺麗な砂浜だが、同じ渚でも離れた場所は目の荒い砂がたくさん堆積するようになった」「サーフィンエリアを区切るロープを海に張っているがサーファーが勝手に動かすので困っている」「15年ぐらい前に大きな松ばかりがマツクイムシにやられ、樹幹注入が良いと専門家が関わったが効果がなく全滅し、散布の方が良かったかもしれず悔やまれる」「この浜は四万十町の財産だと誇りに思っているので愛情を込めて管理しているんだ」、、、この興津地区、現在の人口は興津小学校区で800人を切り、このままでは2060年には100人程度になるシミュレーションもある。

お話を聞いてから佐藤さんのポートレイトを撮影。この砂浜や松原を見ればすぐに佐藤さんの言葉通りの「愛情」が伝わって来る。キャンプ場スペースの松原は松葉かきをして本当に綺麗な砂地なのだ。雨上がりに歩くと自分の足跡しかつかない。その佐藤さんの思いが伝わるように心を込めてシャッターを切った。写真を送りたいので佐藤さんの連絡先をメモでもらうために受付小屋に戻って再び話していると豪雨。しばらく待つと上がったので撮影して切り上げると再びとんでもない豪雨。しばらく雨の様子を見ながら車で自炊し、写真データを整理していたら雨が上がったので100円シャワーを浴びた。夜のキャンプ場で一人で浴びるコインシャワーとは、なんとも懐かしい感じで嬉しくなってくる。その後、車で作業をしていると怖いぐらいの激しい雨とほぼ真上で轟音を立てる雷。松原の横には水位が上がってきている川が流れる。ネットで調べても特に警報が出ているわけではないが、少しでも高い位置に車を移動させた。かなりスリルがある夜である。

 

興津の佐藤恵司さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8月27日、7日目。静かな小雨の興津小室の浜で目覚める。

 

5時半に起床。6時ごろに雨も上がり撮影開始。今日も天気予報は終日雨なのだがどんどん晴れてすっかり青空が広がってきた。キャンプ場の受付に行き、佐藤さんに挨拶して今日は管理業務を行なっている人たちの集合写真をお願いできないか相談をしたら、その心づもりだったのかすぐに集まってくださってスムーズに撮影。というのも、ジェットブローと熊手を持って並んでくださるのだ。昨日、佐藤さんが松葉かきの重要性を語ってくださったので、まさに!と合いの手を打っていたのだった。並んでくださった方は皆さん興津の方で佐藤さんの信頼する仲間たち。田中幸作さん、山本富久子さん、西田庄司さん、それぞれ時間を割いてキャンプ場の管理や松原保全に汗を流される方である。良い笑顔をいただいた。

このまま雨の予報に反して天気が続くようなので、第3の目的としていた黒潮町の入野松原に向かうことにし、砂浜美術館理事長の村上さんにメールをしたところ夕方会えることになった。さらに黒潮町役場の海洋森林課の今西課長と連絡が取り合え、明日の8時半に黒潮町役場の佐賀支所で会ってもらえることになった。

 

(四国黒潮紀行 入野松原をゆく編に続く)