GW恒例の車中泊による海岸林の撮影旅

 

2013年から2019年までは東日本大震災で津波被害にあった海岸林を訪ねることをテーマにして継続。2020年はコロナ禍のため止む無く中止。しかし足掛け7年の成果として写真集「松韻を聴く」を2021年の2月に蒼穹舎から出版し写真展もギャラリー蒼穹舎で開催。多くの人に足を運んでいただいた。

これにより一区切りついたので、次は全国各地の「松韻を聴く」ことを考え始めた頃に、とてもタイミング良くハッセルブラッドから念願の、本当に念願のデジタルバックCFV II 50Cとカメラボディ907Xが発売され、レンズのXCD45Pと合わせて2020年の秋に購入。これまで撮影してきたシリーズ「松韻」は、1991年に親父から譲り受けた1971年製造のハッセルブラッド500Cに標準レンズのプラナー80mm1本で、それにフジフイルムのACROS100を入れ愛機としてきた。これからの「松韻」は最新鋭のデジタル愛機に世代交代してみようと考えたのである。

その試みの第一弾として、2021年のGW(4月30日〜5月3日)にレンタカーで車中泊をしながら沼津御用邸跡から伊良湖岬に至る約250kmを撮影。主な撮影ポイントには、日本緑化センターの「身近な松原散策ガイド(109箇所)」を頼りに、湘南から西へ向かい静岡県の「千本松原」「三保の松原」「浜岡砂丘」「中田島砂丘」、少し距離があるが愛知県の「恋路ヶ浜」を訪ねた。旅を終えて、デジタルデータの現像はできるだけフィルム時代のようなナチュラルな仕上がりにしたくてパソコンに向き合い一つの手応えを感じていた。中でも「三保の松原」で撮影した1枚が新たな旅への扉を開いてくれるような作品になった。そこへ、たまたま日本緑化センターから季刊誌「グリーン・エイジ」の寄稿を依頼されたので、この新たな旅への気持ちを「松韻を聴く旅へ」という文章にすることで心の整理ができ、妄想から構想へと進化したように感じている。

そして、今回は第二弾として、藩政時代から動く砂を止めるため松を植え続ける地域である東北の日本海側を考えた。「身近な松原散策ガイド」で見ると、能代市の”風の松原”から村上市の”お幕場”あたりを対象とした。こちら方面はまだ一度も訪ねたことがない土地でもあり好奇心がそそられたのだ。

 

松林に囲まれた沼津御用邸(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

5月1日 1日目。風の松原まで700kmを走る

 

雨の具合を見ながら新潟に向かった。小雨なら新潟から北上も考えたが、市内の雨脚が強く明日以降は秋田の方が晴れ間の確率が高そうだとわかり、迷ったが一気に能代まで駆け上がった。山形辺りから圧倒的な松のある海岸風景に、これほど松が多いとは、というより松以外の木立がほとんどない、とは知らず心が躍り始めたのだが、北に向かうほどそのほとんどが赤茶色に立ち枯れているのだ。これは間違いなくマツクイムシの影響だと思うが、これほど被害が広がっているとは知らずとてもショッキングな光景で、”失われた50年の風景”とも言えるかもしれない。

荒ぶる日本海から暮らしを守るために、藩政時代から築かれてきた松による海岸林。しかしこの松がある風景の歴史も、時代の変化に応じて紆余曲折してきたことも知った。能代市の風の松原に関する「砂防林の今昔」という資料によると以下の通りである。

飢饉による生活のための伐採や、明治時代は製塩のための乱伐、食用にする海浜植生の盗掘により砂留め機能の低下などあり、大正時代に再び植林事業が活性化したが、昭和時代に入って戦争での燃料のために乱伐される。戦後になってようやく安定した植林事業が始まった。しかし、今度は臨海工業団地など開発事業により松の伐採計画が持ち上がるが、市民運動によって松の保全とのバランスをとった計画的な開発となり現在に至る。しかしながら、次はマツクイムシ、マツノザイセンチュウによる壊滅的な被害が始まる。さらには自然の遷移の問題も議論されている。

松だけだった林が広葉樹林化していくのだ。今は混交林のような状態だが、手をつけないと松が負けて広葉樹林となってしまう。そうなると潮風に弱い広葉樹では防砂機能がなくなり再び砂が押し寄せる。松葉の絨毯が広がる松だけの風景は、美しいだけでなく防砂林機能が最も強く発揮されている状態とも言える。もっと言えば、常に何らかの人の手が入ってこそ暮らしが守れるということを、この地の歴史が教えてくれている。

山形県と秋田県の県境あたりの羽後三埼灯台の足元に、石組みの旧道があり”奥の細道”の看板がある。これは、芭蕉が目的地としたと言われる象潟に急ぐ道だった。考えてみれば、僕の撮影旅は奥の細道と重なる部分も多く、芭蕉についてもっと知っておくと撮影にも深みが出ることに今頃になって気が付く。そもそも象潟とはなんたるかも知らなかった。奥の細道や芭蕉を解説する読み物を探そう。なんとか日没までに北能代にある道の駅みねはまに着くことができた。自宅から700km、寄り道なしだとしても11時間の距離だったが、実際は5時に出発して18時の到着だった。車中泊は、道の駅から海岸に向かい誰もいない巨大な風力発電施設の近くにした。

 

広がる松枯れの風景(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

5月2日 2日目。巨大風力発電に圧倒される

 

気持ちよく朝焼けが始まる4時に起き、能代市にある風の松原を散策。道路沿いに樹齢を重ねた松が林立し魅力的な風景。散策路に入ると確かに混交林となっている。朝日が美しくフォトジェニックではあるが複雑な気持ちになる風景である。ここからひたすら八郎潟の海側を南下して、巨大な風力発電の風景に圧倒されつつ秋田市下浜、由利本荘市道川などの海水浴場や芦川の集落など立ち寄る。自称「寄り道大王」となって一向に進まずだが、欲しいアングルを発見する喜びに勝るものなし。夕暮れが迫り西目の道の駅を起点に考え西目海水浴場で車中泊とする。今日はわずか125kmなり(笑)。

夜中、きっと誰でも目が覚めてしまうような強烈な雷雨が何度も屋根を叩きつけ、雷が目の前の海を横切るように鳴り響きちょっと緊張。

 

5月3日 3日目。芭蕉の象潟、土門拳の酒田

 

4時半起床。夜明けの清々しい風景。しかし雨雲が迫る。午前中は雨雲に追いかけられ、時にスコールのような雨に降られながら、季節の変わり目らしい天気に翻弄され、雲待ちが多い気長な撮影となる。しかし結果として空の表情が豊かな作品が得られる。

黒々とした松林に囲まれた西目中学校の校庭が、雨上がりの朝日に照らされ美しい。次に、海沿いの里道地区の家並みは黒光する瓦が美しく、この方面はいずれの集落も同じように連なる黒瓦のハーモニーが美しく感じる。脈々と受け継がれるコミュニティ力の証と言えるのだろうか。コンパクトで絵になる金浦漁港で納得できるアングルを得てしばし佇む。そして、走る車窓に不意に現れたのが芭蕉が奥の細道の一つの目的としたと言われている象潟。

象潟とは、鳥海山の山体崩壊で出来た地形で、その頃は九十九島という名の通り水没しており、江戸時代には”東の松島、西の象潟”と言われていたが、1800年ごろの地震によって隆起。陸地となったため、本庄藩の干拓事業で水田開発されるところを、地域にある蚶満寺の住職が命をかけて守った。何の知識がなくとも珍しい風景で立ち止まる場所。そこかしこに被写体となりうる場所がある。

象潟漁港は鳥海山を仰ぎ見るロケーション。残念ながら雲がかかり麓しか見えず再訪を誓いたくなる場所である。そして往路で見つけた枯れた松が印象深い風景に戻った。朽ちていく松によって、海沿いにへばりつくように並ぶ集落の行く末を考えさせられてしまう光景だ。結果的に、今回の車中泊でも最も印象深い光景となった。遊佐町にある青山本邸というニシン御殿に立ち寄る。大きな松が背景となる邸宅である。

いよいよ酒田市にある土門拳記念館。写真家なら必ず向かえという場所であるが待望の初訪問となった。ライバルと言われた木村伊兵衛との作風を比較する展示が良かった。いずれの個性も理解でき、それぞれの”集中力”の発揮の仕方が見えてきた。軽快なフットワークを感じる木村伊兵衛でも、全体を俯瞰しながらシャッターを切る”瞬間の集中力”が見える。一方の土門拳は、フレーミングからシャッターを切る瞬間まで隅々までこだわる”継続する集中力”が見える。

僕は何を表現したくてどう撮るのか、自分のたしなみ、ポリシー、被写体への敬い。どのような”集中力”で、撮り手の思いを感じる作品づくりをするのか。人間性、人間力、そして哲学。とてつもなく刺激を受ける時間となった。

R112で南下すると、庄内空港を抜けたあたりに続く松並木をどうしても被写体にしたくなり足止め。そのまま海沿いをいくと、ダイナミックな光景に由良の街並みが小さく佇む。18時半ごろに道の駅朝日に着き温泉があったが18時で営業終了だったため先を急ぎ、一つの目的地であるお幕場に近い道の駅神林まで向かう。すでに真っ暗になってしまっていたので、安全を考えここの駐車場を宿とすることとした。今日は170km。

 

象潟の晴れ間(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

5月4日 4日目。新潟の松原

 

4日目は4時半起床。村上市のお幕場でスタート。ここは村上藩政のお殿様や奥方、奥女中の遊園として使われ、現在に至るまで地域を風や潮から守ってきた。珍しく赤松だけの林で、朝日を受けてさらに赤く輝き本当に美しい。当時を思いながら散策し撮影ポイントを探す。少し海辺の集落に足を伸ばすと映画のセットのような佇まいに出会う。胎内川の辺りにある荒井浜森林公園では、この方面らしい白砂青松を感じる光景を見つける。この出会い頭があるから寄り道はやめられない。荒川を渡ると海側に船小屋が並ぶ。都市生活で考えると道具で埋め尽くすガレージを連想する。漁師たちの思いが詰まった空間なのだろう。生業と自分の世界観。外観にもそれが現れているように感じ撮影する。ようやく新潟市内に入る。マリンピア日本海近くにある護国神社の松林も、「身近な松原散策ガイド」にある目的地の一つ。境内に入ると結婚式の記念写真。松林に囲まれ安心できる空間で迎える晴れの日を象徴的に表現できる。

神社境内の東側にある松林の中に一人の銅像があった。初代新潟奉行川村修就とある。長岡藩から天領になったことで赴任し、在任九年で海防、消防、物価の安定など、地域の暮らしの向上に尽力したとあり、また多くの才を持ち、習俗・風景などを絵や随筆に書き歌に詠み、これが幕末の新潟を知る資料となっているようである。在任中に3万本の松を植林したとあり、地域を俯瞰する中に海岸林の保全もしっかり位置付けられている。ここでは松韻が優しく響く。

新潟市内に住む友人の大和さんからFBにコメントがあったので連絡を取り合い、ダイナミックな砂丘風景が残る小針海水浴場の駐車場で待ち合わせ、海から1km以内の立地にあるご自宅に伺う。紀子さんの手料理をいただき、大和さんの炒れるコーヒーもいただき、1時間ほどの滞在で密度の濃い会話。大和さんの母校である坂井輪中学校の校歌の出だしは「青松白砂あやなすあたり緑ヶ丘の丘の上」である。最後に砂丘点景を撮りたくなり何かを感じて止めた場所にフォトジェニックにも小舟が砂に埋まっている。ここから茅ヶ崎の自宅まで360km、順調に走れば5時間以内の距離。しかし、なんとも懐かしいと感じる高速渋滞が高崎あたりで40km90分。レンタカー返却時間ギリギリで帰宅できた。

今回は特に感じたのだが、きっと僕には、写真の神様が、きっといる。出会い頭、何かを感じて立ち止まるなど、撮りたい!という気持ちが引き寄せるのか、ワクワク好奇心で風景を見ているからなのか、そういう何かを授けてもらっているのか。こうなったら”信ずるものは救われる”という言葉通り、”写真家として生き、写真家として死ぬ”という気持ちを強く持ち続けたい。

 

護国神社、晴れの日(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(松韻を聴く、静岡で学びの旅へ続く)