(「九州・四国、心残りの場所へ再訪(4)」より続く)

 

いよいよ沖縄、リュウキュウマツの原風景を探す旅

 

2023年7月に開始したこの「松韻を聴く旅」も、撮影期間としては当初から一区切りと考えていた2年の節目を迎える。その区切りに沖縄へ「松」を求めて向かうことにした。沖縄ということもあり、飛行機+レンタカーの旅とし初めてパートナーに同行してもらった。

 

「松韻を聴く旅」の被写体は”二葉松”

 

撮影旅のテーマ「日本の暮らしと松」の「松」は、「松」と言って多くの人が思い浮かべるのは基本的に”二葉松”と考えている。一般的に「マツ」と呼ばれるものは”マツ科マツ属”で、各種資料で確認すると日本では「クロマツ」「アカマツ」「リュウキュウマツ」「ゴヨウマツ」「ヒメコマツ」「ハイマツ」「チョウセンゴヨウ」「ヤクタネゴヨウ」の8種があるとされ、その中で”二葉松”は「クロマツ」「アカマツ」そして「リュウキュウマツ」の3種だ。なお、「クロマツ」と「アカマツ」の交雑種があり通常「アイグロマツ」と呼ばれるが、他に「アカクロマツ」「アイアカマツ」「アイノコマツ」などとも呼ばれる。そのほかの5種は”五葉松”のためこの旅での撮影対象からは外した。「クロマツ」「アカマツ」の自生エリアは北限は青森県で南限は鹿児島県となる。植林されたものを加えると北海道にも植生地は広がる。「クロマツ」はえりも岬の海岸林を始め道南に多く点在し、「アカマツ」は函館市の五稜郭や七飯町の街道松が主に知られており、「松韻を聴く旅」でも撮影してきた。

2年間の旅で北海道から鹿児島県まではほぼ撮影を終え、いよいよ琉球文化の中で育まれた「リュウキュウマツ」を撮影する段階となったというわけだ。「リュウキュウマツ」はトカラ列島から先島諸島に自生する固有種で沖縄県の県の木でもある。ちなみに、都道府県の木に”二葉松”を指定している自治体は沖縄県の他に、岩手県「ナンブアカマツ」、群馬県「クロマツ」、福井県「マツ」、島根県「クロマツ」、岡山県「アカマツ」、山口県「アカマツ」、愛媛県「マツ」がある。

これまで北海道から鹿児島県で撮影してきた「クロマツ」「アカマツ」はいずれも推定樹齢が数百年を数えるものや、江戸時代に各藩主が防風防砂防潮のために植林した海岸林や街道松が主だった。つまり「日本の暮らしと松」と考え出会ってきた松たちには少なくとも数百年を遡る歴史文化的な背景があるわけで、「リュウキュウマツ」となると琉球王朝時代に遡ることになる。本土と同様の歴史文化的な背景があるのか準備段階では興味と不安が交錯した。

(注釈:沖縄県から見た北海道から九州までを表す言葉が大変に悩ましく、沖縄県のさまざまな文章を確認したところ「本土」と記載されており、納得はできていないが今回はそれに合わせた。)

 

沖縄県の県の木「リュウキュウマツ」

 

「リュウキュウマツ」の特性だが、沖縄県のHPより抜粋すると、沖縄の自然を彩る代表的な高木。木肌はやや黒色で本土のクロマツとアカマツの中間くらい、針葉は本土のマツに比べて柔らかく細長いのが特徴。どんな土質にも比較的よく育ち、20~30年で伐採でき沖縄県の重要な造林樹種。土木建築材、盆栽として利用され、街路樹や防風樹としても古くから植栽されている。琉歌にもよく歌われ年を経るにしたがって美しい樹冠を形成する、とある。

沖縄県の県の木に指定されたのは1966年の復帰前。1966年12月21日の琉球新報に記載された選定の理由は、1、郷土特有の木であること。2、沖縄全県に広く分布し育成していること。3、風致観光および経済価値の高い木であること。となっている。なお、琉球新報が呼びかけた県民投票が参考にされている。内訳は総投票1,375票の中で「リュウキュウマツ」580票、「ガジュマル」472票、「フクギ」217票だった。これらの情報から、もしかしたら本土以上に「リュウキュウマツ」は地域に根ざした歴史文化があるのではないかと期待が膨らんだ。

 

「リュウキュウマツ」撮影場所の設定

 

事前調査で勝手ながらこの旅の「リュウキュウマツ」の名所を設定してみた。選定のポイントは沖縄らしい空気感が伝わる撮影地であることだ。沖縄本島は読谷村の「座喜味城跡(ざきみぐすくあと)」、今帰仁村の「仲原馬場(なかばるばば)」の2ヶ所とした。離島では久米島の「久米の五枝のマツ(くめのごえのまつ)」と伊平屋島の「念頭平松(ねんとうひらまつ)」で2ヶ所とも推定樹齢200年を数え、沖縄県が誇るリュウキュウマツの2大名松なのである。取材先も一般財団法人日本緑化センターの協力を得てリストを作成し飛び込み電話をしたところ、直前の連絡にも関わらず調整していただき各地で松に関わる人に会えることになった。

 

旅を通して各地で耳にした「蔡温松」について

 

沖縄総合事務局などによると、沖縄県各地に残る松並木は、尚敬王代(1713-1751)に 三司官(さんしかん)を務めた蔡温(さいおん)(1682-1761)によって整備されたものが多い。蔡温は、琉球名を具志頭文若(ぐしちゃんぶんじゃく)といい、中国から琉球に移住した人々の子孫で、中国留学中に学んだ儒教思想や風水地理学を政治の場で活かした。蔡温は、建物や造船のために山に木を植えさせ、海岸にアダンを道路には琉球松を植え整え緑豊かな島にしていった。これらの松は「蔡温松」として今も各地に伝えられている。老いた蔡温は政治哲学や農業政策などを著書として残し80歳で没したが、後世の政治家たちの手本となり首里城には常に蔡温がいるかのようだったという。この「蔡温松」の存在から、この頃の本土と同様に松を活用した政治家がいた証であり、”二葉松”は北海道から沖縄まで日本全国で同様の期待をされ機能を発揮したということが見えた。これは今回の旅の大きな収穫である。

 

6月27日 初日 「座喜味城跡」とリュウキュウマツ

 

那覇空港から移動し浦添市のAsovivaWorksでハイエースのキャンピングカーをレンタルして旅はスタート。最初に向かったのは読谷村にある「座喜味城跡」だ。

「座喜味城跡」は読谷村観光協会HPなどによると、琉球王国が、日本、中国、東南アジア諸国との交易を通して繁栄した十五世紀初頭、統一国家へ向けた争いの多い最中の1420年頃に築城の名人と言われた読谷山按司護佐丸によって築かれたと言われている。標高120m余の丘陵地に立地しており、最も高いところからは読谷村のほぼ全域を眺望することが出来る。「座喜味城跡」の城壁を上空から観ると、いくつもの曲線が組み合わされるようにできている。この曲線構造は、現在の黒部ダムのようなアーチ式ダムの構造に似ており、当時の築城技術の高さをしのぶことができる。門は中央にくさび石をはめて2つの石をかみあわせることで造られているアーチ石門が特徴で、くさび石を用いる方法は他のグスクには見られない。石材は地元で採れる琉球石炭岩が使われ、その積み方は「野面積み」や「布積み」が進化したとされる 「あいかた積み」手法を用いられているところが多い。1945年の沖縄戦中は日本軍の高射砲陣地として利用され、その後は米軍のレーダー基地が設置されたが、1956年に琉球政府の重要文化財に指定され、日本復帰の1972年には国指定史跡となり、1973年から1985年の間に城跡の発掘調査や城壁修理が進められ再生。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産のひとつとして世界遺産に登録された。

この「座喜味城跡」がリュウキュウマツのほぼ単一林に囲まれるように佇んでいるのである。その美観に惚れ惚れとした。読谷村は「読谷村第4次総合計画基本構想(2008-2017)」と「景観法」に基づき平成21(2009)年3月に「読谷村景観計画」を制定している。計画の体系で5つの全体方針を示しており、その1つ目が「座喜味城跡をシンボルとする景観形成」であり①座喜味城跡の存在を際立たせる周辺景観の誘導、②座喜味城跡からの眺望景観の保全、③座喜味城跡周辺一帯の環境整備、が記されて非常に注力していることがわかる。なぜリュウキュウマツ単一で整備しているのかの記述はないが、「城跡へのアプローチとなる座喜味集落一帯は世界遺産緩衝地帯としての役割」「沖縄の伝統文化を感じさせる集落景観の再生をテーマ」「城跡公園と一体的に格調高く統一感のある景観づくり」などの記述を踏まえてこの景観が守られていると理解しておく。

午後の日差しから夕暮れまで、まさに沖縄ならではの松の景観として城壁とリュウキュウマツの組み合わせを探求しこの日の撮影を終えた。

 

座喜味城跡(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

6月28日 2日目 久米島に渡る

 

抜けるような沖縄の青空のもと、初めての久米島である。那覇泊港9:00発のフェリー乗船手続きは事前に電話予約していたのだが、地方色豊かでほのぼのとした気持ちになった。人だけならとまりん事務所で8:00から乗船手続きを行うのだが、車で乗り込む場合は、運転手と車の費用は貨物事務所で8:15までに受付を済ませるようにと指示されていた。その貨物事務所の場所がどこにも表示がなくわからないのだ。仕方がないので、きっとフェリーに乗り込むであろう雰囲気が漂う大型トラックの運転台に座る男性に声をかけて聞いてみたところ、車から降りて丁寧に場所を教えてくださった。教えてもらった貨物事務所は建物ではなくコンテナハウス。中に入ると初老の男性が一人で受付しており、手書きの往復乗船券を発行してもらった。車は鍵を付けたまま指定された場所に停める。係員が運転して詰め込むのだ。確かに貨物の扱いである。車と運転手と同乗者1名で合計45,940円の支払いは現金のみである。

久米商船のフェリーは慶良間島を横目に走り渡名喜島を経由して久米島に向かう。このため3時間半かかるが直行でも3時間だ。距離にして約100km。ケラマブルーを突っ切るのである。甲板に出ると風は気持ちいいが日差しが強い。船内に入るとエアコンが強い。時々、日陰の甲板で涼しい風に吹かれながら極めて美しい海を眺める。入道雲が浮かびトビウオが跳ねる。久米島に近づくと水平線が長く真っ白に見える。「はての浜」だ。ハテの浜、ナカノ浜、マエノ浜島の3つの無人島からなり白い砂浜の距離は7kmある。まるで南海の蜃気楼だ。久米島から船で30分。撮影の日程に余裕があれば是非とも行きたいのだが今回は断念した。

昼ごはんは後回しにして上陸早々に「久米の五枝のマツ」に向かう。出発直前の下調べの際に久米島町の6月18日のニュースを見て驚いていた。マツクイムシ被害に遭っているというのだ。以前より幹や太い枝は空洞化しており、過去のシロアリ等の被害もあり、マツクイムシが蔓延する以前から危機的な状況が続いていた。「久米の五枝のマツ」は、老木のため負担がかけられない状態でもあることから、松くい虫対策としてできる手段は限られているが、今後も薬剤散布などできる限りの対策を継続、とあった。これまで被害木を見てきた経験からこれはかなり厳しい状況だと思わざるを得なかったので、少しでも早く会いたいと願ったのだった。

2025年1月23日の沖縄タイムスによると、久米島にマツクイムシが侵入したのは2021年と推定している。この年の被害量は219立方メートル、2022年は2,373立方メートル、2023年は10,864立方メートルと爆発的に広がった。「久米の五枝のマツ」は防除に徹していたが遂に被害を受けてしまったというタイミングに撮影が重なった。沖縄県のマツクイムシ被害は、日本復帰翌年の1973年に公共事業で使用される木材に紛れて本島に侵入し米軍基地内でまん延。久米島への侵入はカミキリムシの幼虫が入った木材がフェリーか飛行機の貨物として持ち込まれたと考えられているようだ。皆さんの努力もあって現在は沈静化してきているという。

 

久米島の戦争被害

 

今年は戦後80年の節目である。ここで久米島の戦争被害についても触れておく。6月14日にNHK WEB掲載されたNHK沖縄の記事「旧日本軍による住民殺害いま改めて伝え残す」がある。山に潜んでいた旧日本軍「鹿山隊」30名ほどの部隊が、アメリカ軍の久米島上陸後にアメリカ兵と接触したと思われる20名の島民をスパイの疑いありと老若男女問わず敗戦後にまで及んで次々と殺害したという愚行を生々しく伝えている。

また、総務省HPには敗戦前の昭和20年6月26日から敗戦後の10月1日までの警防日誌が掲載されている。旧日本軍の愚行も淡々と記しているが、7月16日の記述に「今後、連絡所を五枝松と決める」とある。島民にとって安全な場所だったのだろう。愚行の犠牲者となった島民のフルネームを見るのはあまりに悲しく歯がゆいが、五枝松の記述にはいかなる情勢でもこの老松は人々に安心を提供していたのかと思うと安堵する。

 

久米の五枝のマツ(国指定天然記念物のリュウキュウマツ)

 

「久米の五枝のマツ」は、沖縄県環境部HPによると、根元から枝が分岐し、地面を這うように広がり、樹形は傘状に約320平方メートル近くあり形態的にも貴重な個体。今から250年前に「土帝君(農業の神)」を祭ったときに植えられたとされ、現在の松は上江洲家の「家記」によると、1839年に上江洲智俊の頃に2代目のマツとして植えられたとの記録があるとし、以下の歌も紹介している。

久米の五枝の松 下枝どまくら 思わらび無蔵や 我腕まくら

(久米の五枝のマツは、枝が四方に広がってちょうど下枝を枕にしているような 格好で美しい。私のいとしい人は、私の腕を枕にしている。)

「久米の五枝のマツ」に実際に会って感じたのは、この巨樹の全容を外から捉えるよりも、複雑に広がる根元と背の低い太い幹からあらゆる方向に長く複雑に伸びる太い枝を捉えたいということだった。本土で見てきたクロマツとアカマツの巨樹たちとは明らかに違う、南の島らしく湿度を多く含んだ重たい空気に育まれた濃厚な生命力に、圧倒された印象を表現したいと思ったのだ。

 

遅めの昼ごはんは港に近い「お食事処ゆき」で牛肉もやしそばを食す。並びにある久米島のコカコーラ総代理店だった「與那嶺商会」には1960年代に撮影されたモノクロの写真がある。店先に配達に使った三輪トラック。これがあまりにカッコいいのだ。この写真に導かれて店に入るとオリジナルTシャツがあったので記念に購入。

夕方の撮影までの間は島巡りと考え秘境感漂う「ミーフガー」「アーラ浜」「畳岩」と巡るが、濃い緑の中に赤く枯れ上がったリュウキュウマツが山の斜面を覆い白骨化した枯れ木が佇む。皮肉なことだが、マツクイムシ被害がなければこれほどリュウキュウマツが多いとは気づかないだろう。無念の気持ちで車を走らせた。久米島の被害については、この「松韻を聴く旅」で2024年5月に出会って懇意になった森林総研の中村克典さんがシンポジウムで発表された「久米島に「侵入していた」マツ材線虫病」が樹木医学研究28館2号(2024)に掲載されており、これを読めば実態が把握でき大いに学びになる。

美しいイーフビーチの近くにあるとてもセンスのいい「BACKSHORE RANCH」で水分補給。好みの色のマグカップとセンスのいいイラストのTシャツを購入。ところがTシャツのイラストをよく見ると見覚えのあるタッチ。茅ヶ崎の自宅近くに住むアーティストRyu Anbeさんだった。昼ごはんとこのお店はパートナーの誘導に従って大正解であった。

18:00に「久米の五枝のマツ」に戻り撮影。しばし没頭してもまだ残照があり近くの海岸「シンリ浜」で20:00の日没を過ごす。島には日帰り温泉がないので水で体を洗って「久米の五枝のマツ」の駐車場で車中泊。星空撮影にもトライしやすく夜明けも即撮影が可能で理想的な車中泊である。

 

日本の境界線と「松」

 

ところで、久米島は球美(くみ)=米の島と呼ばれていたという。この球美という地名が歴史書に初めて出てくるのは「続日本記」で、和銅7(714)年に球美の人が奈良を訪れたことが記されていると久米島を紹介する文章に散見される。果たしてこの頃はどんな時代だったのか興味が出てきたので少し調べてみた。

柿沼亮介さんの研究論文『「日本」の境界としての南西諸島の歴史的展開 』によると、「縄文文化の南限は沖縄諸島まで、弥生文化の南限は大隅諸島まで、古墳文化の南限は九州島までと、先史時代においては日本列島で展開された文化の南限は北上していった。南西諸島の島々は古代国家によって「南島」として認識」されており、「古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)まで、南西諸島にヤマト政権の勢力が直接的に及んでいたわけではなかったが、7世紀初頭から南島との通交が史料にみえるようになる。少なくとも九州島の南方に島々があり、それらがヤマト政権の勢力圏外であることは認識されていた」ようだ。

そして「続日本紀」に「和銅七年(714)十二月戊午(5日)条 少初位下太朝臣遠建治等、率二南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人一、至レ自二南嶋一」「霊亀元年(715)正月朔条 陸奥・出羽蝦夷并南嶋奄美・夜久・度感・信覚・球美等、来朝各貢二方物一」といった”球美”を含む”南島”からの来朝記事が出てくるのだ。

1972年の日本復帰までの歴史を踏まえて、「南西諸島は現在では日本の国土の一部とされているが、歴史的に日本の南の境界は南西諸島のなかで遷移しており、一貫して日本の国土として認識され続けたわけではない」と柿沼さんは述べており、沖縄県に異国情緒を感じ憧れを抱く心理を裏付けられたような気がする。そんな風土にリュウキュウマツは固有種として生息するが、本土のクロマツ、アカマツと同じ「マツ科マツ属」の二葉松であることに安堵するし、自然植生によって一つのテーマ「日本の暮らしと松」を成立させることに意義を感じている。

 

久米の五枝のマツ(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

6月29日 3日目 「久米の五枝のマツ」の物語を聴く

 

日の出は5:30ごろ。5時はまだ暗いが起床してスタンバイするが「久米の五枝のマツ」の周りには垣根があり風通しが意外と悪いため藪蚊の餌食となる。少し車を走らせると、見通しの良いサトウキビ畑の中に所々に畑を整地して出た瓦礫を積み上げた小高い丘があり、その上にリュウキュウマツのシルエットが浮かぶ。残念ながら半数以上が立ち枯れているが、この島ならではの特徴的な風景なので撮影する。強くて優しいパイオニア植物である松の特性そのものでもあるのだ。「ナガタケ松並木」は半分ほどが被害を受け枯れているが、入道雲が立ち上がり沖縄の夏に佇むリュウキュウマツの原風景を探求する。

 

「久米島ホタル館」館長の佐藤文保さん

 

今日は9:00からお会いする約束。日本緑化センターから提供を受けた沖縄各地のリュウキュウマツに関わる人のリストにお名前があったのでご連絡をしたのだが、なぜ「久米島ホタル館」の館長さんなのかという疑問は開口一番のお話で理解できた。

ホタル館の入り口近くに蛍が乱舞する美しい写真がある。この写真は「久米の五枝のマツ」で撮られたものだというのだ。20年前、「久米島ホタレンジャー」の子どもたちと一緒にホタルを復活させようと活動を始めて増やし最盛期は2011年だった。無念ながらその後の環境悪化により見ることが難しくなっていった。この写真は最盛期の頃に撮ったものだという。

写真を撮った時に五枝のマツの近くに住むおばあちゃんにも来てもらったら「飛んでるねー」というだけで感動しない。「いっぱい飛んでいますよね?」と問うと「こんなの少ないよ」と笑われたという。なぜかと聞くと「五枝のマツはクリスマスツリーだったよ。クリスマスツリーよりもっと綺麗のよ。この辺りはホタルがいっぱいで当時の集落の建物は開けっ放しだから部屋の中にも入ってきたのよ。だから五枝のマツにホタルがいっぱい止まるまで頑張ってねー。」と言われたという。

久米島は、遙か昔は3000m級の火山だった。それが300mの島になったのは東シナ海の沖縄トラフが陥没し火山が崩落。残った山体は溶岩と火山灰の堆積で水を通さないためどこでも水が湧き出し田んぼが作れる島で、15世紀ごろからは中国で養蚕産業を学んだ島の人によって紬つくりが行われていた。1609年に薩摩藩が首里に入り中国との二重支配を受けるようになると稲作と養蚕を促することになる。久米島紬の最盛期は大正時代だったが、昭和の戦後復興を歩み現在の久米島紬事業協同組合が結成され、平成16(2004)年に伝承技術が重要無形文化財に指定される。

同様に盛んだった米作りは1972年の日本復帰と同時に始まった減反政策(本土では1971年開始)によってサトウキビ畑に転作されていく。沖縄県で初めての土地改良事業による水田からの畑地化がなされ、山の赤土を削り出したために田んぼの生物多様性は崩壊し多くが絶滅した。こうして久米島にも広がっていた日本の田園風景が壊滅し、まだ発見されていなかったクメジマボタルも絶滅危惧種となっていたのだ。そして、急速にサトウキビ畑や牧草地など近代化経営が進み、絶滅危惧種となってしまっていたホタルは種の保存法による保護を必要とする、絶滅が心配される希少種へとさらに追い込まれていく状況だったと佐藤さんは語る。

そんな中、1993年に「久米島で新種のホタル発見」の報道があった。島の人たちは改めて島の自然の大切さと誇りを意識し、当時小学校の先生を中心に土地改良事業の尽力者であった人や役場職員数人が集まり「久米島ボタルの会」が結成された。「久米島ホタル館」は、クメジマボタルが消滅してしまった敷地内を流れる浦地川にクメジマボタルの保護観察施設として2000年に建てられた。佐藤さんは当初から施設管理をしてきた生き字引な人でもある。

現在「久米島ホタル館」では、「久米島ホタレンジャー」や久米島高校の生徒(インターシップ)と一緒に作った人工の小川ビオトープで、数は少ないがクメジマボタルを発生させ続けている。しかし、「久米島ホタル館」に流れる浦地川の中下流域ではクメジマボタルは激減したままでほぼ壊滅状態だという。上流域の発生地から流れ下るクメジマボタルの幼虫やエサとなるカワニナが、周辺の農地から流れ出る汚れや農薬によって生き残れない状態が続いている。

「久米の五枝のマツ」のホタルは復活していない。その理由は水の汚れ方だという。久米島では牛をたくさん飼うようになってフンを土にすき込むようになって水が汚れ始めた。ホタルは人里の影響で少し汚れた水に育つが汚れ過ぎたらいなくなる。本土のホタルは過疎化で水が汚れなくなっていなくなったが、久米島は農業の変化で水が汚れ過ぎていなくなったのだ。

久米島では、昔から集落の周辺を人力で何世代もかけて棚田や段々畑を広げ、丘の一本松や松並木、そして「久米の五枝のマツ」を大切に育んできた。戦後のアメリカ世(アメリカユー)ではブルドーザーで、日本復帰後はショベルカーで自然林を乱伐した開発時代を経てその代償として植林された松たちと、島の人々が長年にわたって育み久米島の歴史を刻み込んだ松とは存在意義が違うと佐藤さんはいう。

ホタルと松の物語。これは日本の里山風景そのものだという。久米島でもエネルギー革命前までは薪炭材を作るため山で炭焼きをして周りに田畑が広がっていた。その中で利用されなくなった荒地に自然植生のリュウキュウマツが育つ。久米島の植生は西日本と同じで亜種か固有種。リュウキュウマツやタブの木は線香に、硬くて持ちが良くて煙も出ないオキナワウラジロガシは家庭でも使われ、火鉢の炭はシイノキなどを使っていたそうだ。

人の生活圏で育った松をはじめとする久米島に確かにあった伝統的な文化的風景。これは自然との共生による文化的風景を守る必要がある本土と同じなんだと佐藤さんは語る。それを島そのものの成り立ちから語るスケールの大きさ。松と共生する人の暮らしの成り立ちを振り返る原点を佐藤さんから学んだ。「五枝のマツはクリスマスツリーだったよ。」というおばあちゃんの話のように、久米島でも本土と同様に松は暮らしの中で語られてきたのだ。

 

「久米島博物館」学芸員の山里直哉さん

 

11:00からは山里直哉さんにお会いする。「久米の五枝のマツ」は国の天然記念物に指定されているため「久米島博物館」が文化財として保全管理し、山里さんは天然記念物担当として「五枝の松」を担当しており、前部署の産業振興課から足掛け10年ほど関わっている。ご自宅も「久米の五枝のマツ」の近くにあり少年時代から親しんだ松でもあるそうだ。

文化財ではない久米島の松は環境保全課が受け持っている。島全体に目を向けると「ナガタケ松並木」や「タキンダの松並木」など久米島に限らず旧道には松並木も多い。「蔡温松」の時代は風水に頼ることも多く、松は「吉祥木」と言われ悪運を防ぎ良運を呼び込むとされてきた。

地域の老人が子供のころは今のような柵もなく枝に登り放題で「キーワタイ」といって鬼ごっこをしていたそうだ。沖縄の言葉で木登りのことを「キーヌブイ」という。木が「キー」で登りが「ヌブイ」。山里さんが古老に聞き取りをした際に木登りをして遊んだ思い出がよく出てくるという。その場合「キーヌブイ」ではなく「キーワタイ(木渡り)」と表現する人が多くて印象に残ったそうだ。鬼ごっこをしたり、木から木、枝から枝に渡って遊んだということらしい。これは後日、伊平屋島の「念頭平松」でも同じ話を確認した。そんな遊びが常態化していたので、根っこや枝が弱った可能性もあるかもしれないそうだが、何より地域の暮らしに溶け込んでいる様子は素敵だと思う。大人になった時に、思い出の木は故郷の大切な資産だと感じ大切にしていると思うのだ。

リュウキュウマツは横に枝を張り木陰を作るので地域の人に親しまれ、久米島には文化財に指定されていない名もなき”一本松”が集落ごとにあった。枝が水平に伸びるので見張り台などにも使われたようだ。儀間という集落から是非とも守りたいと連絡があった一本松の「ウシデー松」も枯れてしまったが幹周り4.3m、直径137cmあったそうで集落では誰もが知る松だったという。

沖縄言葉で演じられる沖縄芝居に「丘の一本松」という人気作があることを教えてもらった。1000回の公演を数え沖縄芝居の金字塔とまで言われ親しまれている。この親子の情愛を描いた「丘の一本松」は大宜見小太郎(おおぎみこたろう)が、大阪の庶民生活を笑いで描いた家庭劇「丘の一本杉」を1941年ごろに沖縄芝居として改作し、彼の劇団、大伸座で上演した人情喜劇とのことだ。”一本杉”を”一本松”に変えたのは沖縄各地に残っていた”一本松”が庶民の暮らしに根ざしていたからだろうか。そんな想像が楽しい。

山里さんから博物館の展示も少し説明してもらった。久米島が米作で盛んだった頃の”きね”や”うす”などの使い込む農機具には加工しやすいリュウキュウマツが使われていたそうだ。しかし高温多湿の気候のためシロアリ被害を恐れて建材には使われなかったが、その特性を活かしてシロアリを誘き寄せるために自宅の敷地内の四方(建物から離れた場所)にマツ材を埋めていたそうだ。いわばシロアリトラップだ。長崎県壱岐島では島のクロマツを建物の梁に多用していたのを見てきたので地域特性に合わせ生活に寄り添うマツにより親しみを感じた。加えて本土と同様に「歩いて漁する人がカゴのようなものに入れて松明として使っていた」「焚き火の着火剤に松ぼっくりを使ったよー」といったように身近な灯りとしても使われていた話も聞けた。

山里さんは、先週、先々週と被害が明らかな長さ8m直系20cmほどの枝の4本の切除に立ち会った。この旅の直前に読んだあのニュース記事のことだ。あの記事の発信元は山里さんだったのだ。切った枝は全部空洞化していてドリルで穴を空けると貫通してしまう。何より樹形が複雑すぎて水分の通り道がわかりずらくなかなか薬が入れられなかったそうで、枝先の反応を調べると薬効が届いている枝と届いていない枝があり効き具合にムラがあったそうだ。老木であることと樹形の複雑さが対策の障壁になっている。つまり、被写体としてはそれだけ魅力ある樹形であるということだ。マツクイムシ被害であれば本来は一気に枯れ上がってしまうが、複数の株による成り立ちで生き残る部分がある可能性を願わずにはいられない。

もしもの場合に備えて「久米の五枝のマツ」の実生発芽の松苗を保全しているそうだ。あの独特の形状になったのは地形的な影響やこの島特有の強風の影響もあるだろう。高木になった老松は空洞化により倒木することで命を終えるものが多いと聞く。「久米の五枝のマツ」は多くの部分は空洞化していると思われるが、上に伸びずに横に枝を複雑に伸ばし支え合っているので、倒れにくいのも幸いしているとのことだ。

山里さんは、「久米の五枝のマツ」に被害が及んできたので、五枝のマツに因む商品を探している。久米島町は平成14(2002)年に具志川村と仲里村が合併して誕生したが、具志川村時代には「久米の五枝のマツ」が”随一”の観光資源だったそうだ。このため商品化されたものが多かった。地元の米島酒造が泡盛『五枝の松』を製造していた。現在は泡盛「久米島」のラベルに「久米の五枝のマツ」が描かれている。レンタカーが普及するまでは大型観光バスで老人会が訪れることが多く、観光土産は「久米の五枝のマツ」のペナントや提灯がもてはやされたようだ。

山里さんからは帰宅した後も続報をいただいている。再び「久米の五枝のマツ」を大きく切除したという。この夏を持ち堪えるかどうかの状態になっているという。かろうじてその勇姿を撮影することができたということだろうか。間に合ったということだろうか。前述したが、「久米の五枝のマツ」は本土で見てきたクロマツとアカマツの巨樹たちの生命力とはまた違って、南の島らしく湿度を多く含んだ重たい空気に育まれ、さらに地上戦をも生き延び人々に平和な場所を提供してきた濃厚な生命力を感じたのだ。きっと生き延びてくれると信じたい。少年時代から親しんできた山里さんは担当者として英断を迫られていることを思うと心からエールを送りたい。またお会いして「久米の五枝のマツ」を眺めながら語らえたらと願う。

 

14:00に久米島兼城港ターミナルから乗船。往路と同じく渡名喜島を経由して那覇泊港まで3時間半の船旅だ。泊港に上陸して名護市に向けて走り出す。明日は今帰仁村運天港から伊平屋島に渡るのだ。途中、日没間際にスコールが降る読谷村に立ち寄り雨あがりの「座喜味城跡」を再撮影。その後、沖縄に来たら必ず食べたいハンバーガーを探してアタビーズで食す。

 

※7月31日に山里さんから一報があった。「久米の五枝のマツ」全体が一気に真っ赤に枯れ上がってしまったと。写真も見せてもらった。あまりに悲しい姿だった。山里さんや島の人々の気持ちを思うと言葉がない。今後も山里さんと連絡を取り合いお手伝いできることがあれば全力で取り組みたい。

 

サトウキビ畑とナガタケ松並木(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(「リュウキュウマツの原風景を探す(2)」へ続く)