(信州の老松たち(3)引き続き長野の老松を巡るより続く)

 

3日目(3月22日)木曽の中山道

 

氷点下の朝、いつの頃か思い出せないのだが確実に一度だけ行った記憶がある奈良井宿へ数ある宿場街の中から選び向かうことにする。人影のない街並みを歩いていると印象的な松が佇んでいた。有り難い。しかし晴天で背景の山々も被写体の松も順光を受けてくっきり青々としており、モノクロ写真では被写体の松が浮かび上がってこない。必ずしも晴天が好天とは限らないのである。この松が木曽宿場街の撮影ポイントとして超有名であることは後で知ることとなる。

今日は10時に「長野県林業大学校」教授の岡田充弘さんにお会いする約束。岡田さんは長野県林業総合センターなどで現場を見てきた人で樹木医でもあり、長野の森林に関して多数の論文もあり幅広く長野の山を見て来た人。大変に心強い人に取材させてもらえるのは有り難い。

長野は寒冷地ということもありマツクイムシが侵入して来たのは意外と遅く1981年ごろだという。当初の長野県は、全量処分と徹底的に防除を試み全面的に被害に立ち向かったそうだ。しかし、被害木が線ではつながらずあちこちで点在して出現するため、これはマツノマダラカミキリの自力の移動というよりも人間活動の影響が大きいと判明。つまり被害木と知らずに薪、家具、工事現場の丸太などに使いマツノマダラカミキリの移動を促してしまっただろうということだ。

さすがの長野県も人的にも予算的にもとても追いつかず、2000年ごろから広がらないように叩くなど対策地を設定するゾーニング対策に移行する。方法としては、場所によっては杉、ひのき、または広葉樹などに樹種転換を進めたり、抵抗性の赤松を用いるなどだが、当然ながら赤松林として維持しなければならない場所もある。由緒ある場所であったり、地質的に水分が少なかったり岩場だったりと赤松しか育成しない場所であったりだ。

岡田さんの話の中で、当たり前の話なのだがとっても納得したのは海岸林と違って内陸の山の中は急峻であったり広大であったりと人が簡単に立ち入れず目が完全に届かないということだ。これまで「松韻を聴く旅」では、その多くは海岸林の黒松の取り組みを撮影取材してきた。そこで語り合い色々な解決策を妄想してきたが、国土の67%が森林であり急峻な山脈を擁する日本という国土を俯瞰すると、これまでは国土のヘリを走り見てきただけであり、そこで組み立てた理想は全体論としては使えないということを思い知る。

松のある風景の全てを意地でも残そうとすのではなく必要なところに残すという発想。先駆植物の松の特性を考え、人間と良好な関係を維持できる場所に残す。松の古事にならって必要な場所に残す。などだ。それでも風光明媚な場所には何としても松を残すことにはなるので、日本の風景の代名詞である松の存在は変わらず残すことができるだろう。インバウンドで「Japanese Landscape」を求める人々への期待にも答えることができるだろう。

この考え方は、山形県の庄内砂丘の海岸林保全を進める梅津勘一さんからも聞いた話だった。庄内砂丘の海岸林は日本最大規模であり、松の海岸林に関してありとあらゆることを経験し研究してきたのが梅津さんであり、だからこそこの考えに行き着いていた。

長野も遅れて入ってきた被害に対して、各地の対策から学ぶことも多かっただろうと想像する。その中で体験と研究を通して身につけた岡田さんの話には重みを感じた。大変に学びと刺激多い時間となった。岡田さんのポートレイトは、学びの空間と思っていたのだが、大学校の裏を流れる川沿いから木曽駒ヶ岳が見えると教えてもらった。

午後は明日の取材も考え、国道361号線で木曽町から伊那市へ向かいお気に入りの高原地帯で少しのんびりしようかと思ったのだが、先週も行った「長谷溝口のカラカサ松」がどうなっているのかと頭に浮かび向かうことにする。昨日の雪がどの程度こちらでも降ったのか不明だが、なんといってもわずか7km弱を30分弱もかかってしまう山道を行かねば会うことができないのが魅力だ。道は先週と同じか少し溶けていたが、まだ積雪があり慎重に運転して向かった。根元の雪はかなり減ってしまっていたが、先週撮れていなかったアングルにこだわって撮影でき結果的には行って良かった。その行程といい佇むシチェーションといい何度でも会いたい松である。

さて恒例の日帰り温泉は「高遠温泉さくらの湯」にした。泉質はph9.6の強いアルカリ性単純泉で独特のぬめり感があり肌に良さそうである。源泉は28℃程度で加熱。内湯も外湯も42℃前後で気持ちよく疲れを癒してもらった。車中泊はこれまで何度も休憩してきた「道の駅南アルプスむら長谷」

 

長野県林業大学校の岡田充弘さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

4日目(3月23日)伊那市の松茸名人と安曇野市の里山スペシャリスト

 

いつもなら数台はある車中泊の車が1台もない駐車場。寝る前におぼろ月だなあと見上げていたのだが、空が明るくなって雪が舞い降り始めみるみる積もり始めた。

今日は9時に伊那市の松茸名人「藤原儀兵衛さん」のお宅に伺う約束だったので満を持して木曽からこちらに移動して備えていたのだが、昨日の奈良井宿の松を撮影する絶好の条件だと思い始めると気持ちは奈良井宿に飛んでしまい往復90分をかけて向かうことにした。

昨日走ってきた国道361号線を、伊那市側から軽快に権兵衛峠を越えると一気に積雪が増え慎重に運転をする状況に急転。奈良井宿は音もなく雪が降り続き予想以上のコンディションで待ってくれていた。昨日と同じアングルを得られる場所に三脚を立ててカメラを据えると、被写体の松だけが黒々と見え背景の山はうっすらと稜線が浮かぶ。願ってもない状況であったので、時間を忘れて撮影に没頭してしまい、気がついたら約束の時間には到底間に合わなくなってしまった。

慎重な運転で再び権兵衛峠を越えて伊那市に戻り儀兵衛さんのご自宅に30分遅れで到着。緯度経度の座標がなければ到底探し当てることができない場所にご自宅はあり、こちらもすっかり深い雪化粧となっていた。調整をサポートしてくださった長野県上伊那地域振興局の清水香代さんと後任の熊谷和広さんも同席。儀兵衛さんと奥様の和子さんの5人でこたつに入ってのお話会となったが、恐縮にも儀兵衛さんの横に座らせてもらった。清水さんは年度末で異動のため挨拶も兼ねて来ていただけたのだった。

昭和13年生まれの儀兵衛さんは50年以上にわたって松茸づくり一筋。つまり赤松林の維持管理を50年以上行ってきた名人でもあるということだ。その経験と知恵は著書で全て公開しているが、著名は「藤原儀兵衛 マツタケ山づくりのすべて 生産技術全公開」とそのものである。松林を維持することだけが目的ではなく、健全な松林を維持することで作物を得るなど環境・社会・経済の循環も目的であるということが、この「松韻を聴く旅」で最も期待する物語でもある。

儀兵衛さんの話は、松林が存在する環境全般に思考は行き届いており、その一つ一つの全てが経験で得たもので机上論ではない。何より基本となる「芝かき=松葉かき」についてだ。常に痩せた土地にすることで赤松と松茸の良い関係が維持され生産量も安定するが、この「芝かき」が機械を使うと松茸を痛めてしまうので人力のみの重労働。以前ならどの家庭でもエネルギーにするので生活のために「芝かき」をしていたというのは海岸林も同じであり、松の健康を維持するためには「芝かき」が欠かせない。全国各地から呼ばれて松茸生産の現場をご覧になってきたが、この「芝かき」をしていない山が多かったという。日本人が高度経済成長ですっかり自然と共に生きる知恵を失ってしまった象徴的な証であろう。人間と松が頃合いよく共生して来た江戸時代から昭和30年代。日本の風景は美しかった。その中で美味なる松茸も生産されていた。

松の巨樹も撮影していると話すと、近くに赤松の巨樹があるとおっしゃたので、伊那エースカントリークラブの脇にある「久保田のアカマツ」ではないかと聞き返すとそうだという。すでに撮影したと写真を見せると「これだこれだ」となったが、どうも枯れているようだったと話すと「それなら若木を横に植えて根を繋いでやると樹勢を取り戻すかもしれん」と。これなのだ。ここが大事なのだ。松茸を得るためには地下での松との共生関係を知って守ることなのだ。「芝かき」をしないと松葉や枝などが堆積し地上で腐葉土となっていく。このため放置した松林で松たちは致し方なく地上の腐葉土で関係を作らざるを得なくなるがこれでは松にとって富栄養化で健全な関係は構築できない。松茸の育成に欠かせない「シロ=赤松の根と松茸の菌糸が一緒になった塊」は、地下の痩せた地面で互いに求め合う健全な関係によって成長する。

おん歳86歳の儀兵衛さんだが、話が溢れるように出てきて尽きずあっという間に2時間が過ぎていた。気がついたら和子さんが薪ストーブでお餅を焼いていて良い香りが部屋に漂い始めた。手ぶらで伺ってしまったのに有り難くご馳走になる。この雪で山は20cmほど積もっているので行くことは叶わず室内と玄関先で儀兵衛さんの撮影をした。改めて5月の新緑の頃に山に案内していただける約束となった。有り難い。儀兵衛さんは、赤松林の生物多様性を保全することで健全な松茸生産につながるとして、その一つの手段として養蜂も行っている。車中泊をした「道の駅南アルプスむら長谷」のパン屋さんで販売していると聞いたので購入したが、さすが”ローハチミツ”であった。

今日で撮影取材を切り上げる予定だったので、安曇野市役所の佐藤明利さんとの調整がうまくできておらず諦めようかとも思ったのだが、ダメもとで電話をしてみたらなんと今からなら時間があるとの返事。ナビで時間を出すと安曇野市役所まで約70kmで1時間半で着けるので3時半にお会いする約束をした。これがご縁というものだ。有り難い。

佐藤さんは農林部耕地林務課の生え抜きのような経歴。担当時代にマツクイムシ被害に直面し手探りで動き始め現在は課長で新年度からは農林部長である。2015年に「環境基本計画」に基づく行動計画の位置付けの一つとして「里山再生計画」の立案を足掛け3年で作成し、その具体的なプロジェクト管理から普及広報事業まであらゆることをこなしてきた。さらにいつも専門家に意見を聞くなど他者を頼ることも多かったが、自ら経験から得た知見を持ち行政マンとして地域生活にふさわしい発想や判断が必要だと感じていたので、まず「松保護士」の資格を取り、続いて「樹木医」の資格も取得して自らが専門家として対応するようになっている。専門知識をベースにした計画の作成から、多様な経験に基づくアイデアによる実践まで、全てをこなす筋金入りの基礎自治体の職員なのである。こんな基礎自治体の職員に会うのは初めてで勝手ながら意気投合したつもりである。都道府県の職員経験者だと山形の梅津勘一さんが思い浮かぶ。やはり勝手に意気投合したつもりの人である。

佐藤さんの話で印象に残っているのは、当時の責任者が「環境基本計画」に基づいた行動計画が必要と言い出し、誰がつくるのかと問われた担当者だった佐藤さんは職員自らが率先してと答えた。そこから佐藤さんの今の歩みが始まった。協議会的に官民の人材で議論をするがなかなかまとまらず3年をかけた。途中、佐藤さんが他部署に異動したこともあり座礁しかかっていた業務だったが、佐藤さんが復帰したことで再び動き出したという。他の職員の皆さんも優秀で一生懸命だったと思うのだ。しかしその違いは”愛”だろうと思う。松に関わる人に共通するのは”愛”を語るかどうかなのだ。この「松韻を聴く旅」では、各地でこの”愛”を公言する人に出会ってきた。佐藤さんにも同様の空気を感じたのだ。

安曇野市の「里山再生計画」には具体的な取り組みを推進する「さとぷろ。」と銘打った4つのプロジェクトがある。「里山まきの環プロジェクト」「里山学びの環プロジェクト」「里山木材活用プロジェクト」「里山の魅力発見プロジェクト」であり、このステークホルダーは「山林所有者」、「里山活動者」、「さとぷろ。サポーター(さとぷろ。の取組に賛同する仲間)」、そして「さとぷろ。」全体の総合調整機能を持つ「安曇野市里山再生計画推進協議会」である。事務局機能を佐藤さんが引っ張っているが、ステークホルダーは事業者、ボランティアなど、自然共生社会を構成するあらゆる立場の人が関わっている。環境保全や里山保全の週末ボランティアではないのだ。「さとぷろ。」が示しているのは安曇野市の自然資源を基盤とした社会・経済活動の見える化とも言える。

この普及事業で佐藤さんが熱く語ったのは、認定こども園などで行う読み聞かせの絵本「くくじぃとあかまつ(あずみの里山物語)」と絵本に登場する「くくじぃ」こと赤松の被害木で作った「積木」を活用するキャラバンだった。小中高への出前授業はもちろんだが、赤松被害木の再利用である積木を活性化することが目的でもあり、それに加えて園児だけでなく自然体験が少ない中で育ったと思われる若き父母への啓発も目的でもある。プロジェクトの行動計画が佐藤さんの頭の中で整理できているから普及戦略のコアが明快である。これが「松韻を聴く旅」で捉える”愛”の形なのだと思う。さて、このような佐藤さんを赤松林の中で撮影するというのは違うように感じていたら、市庁舎の屋上から北アルプスが展望できるというので撮影場所は決まった。

長野県における赤松の最新状況について、県全域・基礎自治体・生産者の視点を通して確認できた。それもピンポイントでスペシャリストにお会いでき多様で深い視点で話を聞くことができた。これでひとまず長野の撮影取材は一区切りとする。もちろん儀兵衛さんの収穫や善光寺の大晦日など再訪する要素は多数ある。安曇野市から自宅まで休憩しながら走り22時半ごろに到着。今回の走行距離は1,084km。7月からの旅の走行距離はいよいよ3万キロを越えた。

 

安曇野市役所の佐藤明利さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(松と富士残雪へ続く)