(暖冬の日本海をゆく(2)雨晴海岸、東尋坊、気比の松原へより続く)

 

7日目(2月21日) 初心に戻りエネルギーを充電

 

今日も朝から雨模様。山陰方面の取材日程を調整し今日と明日は自由課題とした。

訪問リストに入れていた福井県若狭町にある「円成寺みかえりの松」にはあなどっていた。お寺の敷地内にある笠松なのでそんなに大きなものではないだろうと思っていたらとんでもなかった。樹高は12mほどだが、四方30mに伸び伸びと全ての枝を伸ばしている姿に圧倒された。切り落とされた太い枝は1本のみ。これで推定樹齢が270年とは思えない太くてたくましい幹。全身が苔に包まれているのも美しさと迫力を増しているのだろう。東西南北どの方向から撮影しても絵になる枝ぶりにも驚く。これまで撮影してきた松の巨樹は、必ずと言っていいほど「表」と「裏」の表情があるような姿を意識して撮影していたが、どこから見ても「表」にしか見えず。土砂降りでの撮影であったが満足でき、これで福井県を心置きなく出発できるので、前回の旅で巡った天橋立や琴引浜を通過して兵庫県に入る。

思えば、去年の2月に兵庫県香美町香住にある「大乗寺」で、円山応挙が描いた襖絵「松と孔雀図(重要文化財)」が客殿に戻され本来の状態で見学することができることを知り、人が少なそうなこの時期を狙って1泊2日で電車とレンタカーで向かったのだった。飛び込みの個人による撮影プロジェクトにも関わらず、山岨眞應(やまそばしんのう)副住職に撮影許可をいただき、本物と向き合えただけでなく応挙の様々な技術や特徴を解説いただきながら撮影したことで、これは後に引けないというか、この撮影ができたことを足がかりに全国へ「日本人と松」をテーマに出会いを求めようと意を決して、この旅を本気で取り組むに至ったのだった。その時のブログはこちら。

福井を出る際に、あと3時間後に大乗寺周辺にたどり着けるのでダメ元で電話をしてみたら、山岨副住職ご自身が電話をとり「今日はいますよ、お待ちしてます」とのお返事。これも間違いなくご縁である。語り合えた1時間ほどは至福の時であった。去年の撮影がこの旅を本気で取り組むきっかけになったことをお伝えし、旅で撮影した作品も一部持ち歩いているので見ていただけたのは願ってもない報告会でもある。

副住職は非常に多くのことを熱く語られたのだが、その背景には、今を遡ること250年前、円山応挙が最晩年に京都に居ながらにして大乗寺の客殿の空間全体のプロデュースを行い、全ての襖絵を息子や弟子たちと仕上げたことを多くの人に知ってもらいたいという思いがある。このような絵画による空間を持つ地方の小さな集落の寺院は他にない。165枚の全ての襖絵が重要文化財に指定され大乗寺の収蔵庫で保管され、通常は客殿にあるのは現在の美術家が再製画したもので極めて残念な全くの別物なのである。

国が指定する重要文化財や国宝は「絵」や「物」など”現物”を指定するもので、世界遺産のように”空間”という概念を指定することができたら、応挙の偉業がもっと理解され大乗寺の真価も伝わるはずである。副住職は、このことを理解してもらうために本物を客殿に戻したいと考えており、そのために客殿を耐震構造、調湿管理ができる器へと改修して、しっかり保存できる環境を整えたいという熱き思いを持っているのだ。そのためには、改めて協力してもらう企業やサポーターを募る必要があると考えている。

昨年、撮影の最後に応挙の本物の襖絵「松と孔雀図」を背景に副住職を撮らせてもらったポートレイトの価値や意味が大きくなったように思う。「この絵は私が守り伝える」というメッセージが明確になったと思ったのだ。この撮影取材プロジェクトの起点でもあり重要な1枚と位置付けたい。微力ながらここに副住職のお気持ちを記しておく。

明日の撮影地「鳥取砂丘」に向かう途中、「諸寄」で思わず車を止めた。ここは小学校の修学旅行で来て、目の前の海で遠泳をした記憶が鮮明に残っているのだ。ここも北前船で賑わった土地であったことを初めて知る。約50年も前に遠泳した海の風景がまるでそのままのようで感慨深い。

恒例の日帰り温泉は鳥取県の吉岡温泉にある源泉掛け流しの「一ノ湯」。久々に熱い湯船もあり雨の撮影で冷えた体を癒してもらった。車中泊は「道の駅神話の里白うさぎ」。白兎海岸は大学2年生の時、バイク一人旅で野宿をした思い出の海岸だ。あの時は、壊れた海の家の床に寝袋で寝たのだが、風がなかったので蚊取り線香を近くに置いて寝た。朝起きたら、寝袋に丸い小さな焦げ跡があり、よくよく考えて冷や汗をかいたのだった。懐かしい思い出である。

今日はなんだか初心に戻るような新鮮な1日となった。

 

穴見海岸(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

8日目 2月22日 雨の鳥取砂丘

 

今日はまさに写真修行の名にふさわしい雨の鳥取砂丘だった。

朝から断続的に降り続く雨が、時々小降りになって上がることもあり、時には青空がのぞき日が差し込んできたりもする。そんな天気に呼吸を合わせるように車と砂丘を行ったり来たり。海から雨が迫るのが見えてきて撮影を切り上げても車に戻るまでには土砂降りだったり、ついつい撮影に集中している間にどんどん土砂降りになっているのに気づかなかったりで、いずれにせよずぶ濡れになる。車に戻るたびにエアコンでダウンやオーバーパンツを乾かして出ていくを繰り返す。

砂防林の松は当然のように至る所にあり、砂丘を被写体とするのではなく砂丘から生活圏を守る松を撮るのだ。鳥取砂丘を表現することには違いないのだが松が主役の写真を探求するのだ。植田正治の作品に見る砂丘を背景とした作品や、北海道は美瑛の丘の起伏を捉えた前田真三の作品をヒントに探求した。この2人の写真家からは非常に強く影響を受けてきただけに幸せな探求であった。

「鳥取砂丘の開発と保全」という報文によると、層序は古砂丘、旧砂丘、新砂丘、現砂丘に分けられる。縄文から室町時代の土器や五輪塔などが出土しているため、飛砂が抑えられ植生で覆われた砂丘で生活が営まれていたが、それ以降は砂丘の動きが激しく生活できなくなった。想像だが、全国各地と同じように戦国の混乱期に鳥取砂丘の海岸植生も伐採などで荒れたのはないかと考えられる。そして、やはり江戸時代に入って新田開発や砂防林の植林も始まり、様々な作物を生産する砂丘開発が手がけられる。

とはいえ、広大な砂丘の大部分は不毛のままで、明治時代から第二次世界大戦後まで陸軍の演習地として利用されるなど、自然のまま放置されていたようだ。戦後の食糧難に対応して、1953(昭和28)年には全国25万haの砂丘を対象に「海岸砂地地帯農業振興臨時措置法」が制定され、砂防造林、砂丘開発が大規模に行われ、現在見ることができる全国各地の海岸林の松は、この時期に植えられたものが多い。

鳥取砂丘も松に守られた作付け地は野菜、たばこ、果物の産地へと進化していくが、この事業によって砂の動きが止まり海浜植物などで砂丘の緑化が進んでいった。しかし広大な砂丘を観光資源とするために緑化を食い止め、1955(昭和30)年に天然記念物に指定され山陰海岸国定公園にも指定され日本有数の観光地となっていった。

この砂丘という名称だが、明治以降に地学や考古学で使用されていたが、有島武郎が鳥取砂丘を訪れた際に「浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしきわれを見出てけるかも」の歌を残し、1ヶ月後に心中したことがきっかけのようだ。

鳥取砂丘では、大きくはこのような歴史を辿ってきているが、現在の植林地に立つ看板には、大正から昭和と意外と近年になってから今の鳥取大学農学部の原勝教授らによって考案された松の植樹方式によって現在の安定した防砂林が育成され現在に至る。しかしその防砂林もマツクイムシ被害が広がり大量の砂が道路や建物を覆うようになったため、2019、2020年に防砂林造成したと書かれていた。時流に応じて砂丘開発や砂丘維持など揺れながら現在に至るが、地元住民にとって砂との戦いは進行形なのだ。

続いて、浦富海岸で松の風景を探求。名勝で天然記念物となっており、山陰海岸ジオパークの中でも岩場に松が佇む極めて日本的で魅力的なエリア。帰路にもっと時間をかけて再撮影をする。

恒例の日帰り温泉は、関金温泉「関の湯共同浴場」で200円。泉質は低張性弱アルカリ性高温泉の掛け流し。湯船は3人も入れば満員。壁に蛇口はなく湯船からすくって洗うパターンの大好物の温泉。車中泊は明日に備えて「道の駅琴の浦」

 

鳥取砂丘の松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

9日目 2月23日 雨は今日も続く

 

今日も雨。午前中に上がる予報だったが夜まで降る。

大山道に植えられた「一町松」に会いに行く。江戸時代、大山への参詣道の鳥取県大山町の関見から中山原を経由する道の脇に、道標として一町(109m)ごとに松が植えられていた。風雪に耐え人々の往来を見守った老松も、マツクイムシの被害などで今日見つけた限りでは4本が残っていた。雪がないのは残念だが、雨に煙る山々を背景にしっとりと佇んでいた。根元には石碑や一町地蔵が置かれ信仰の対象であったことが偲ばれた。

その後、鳥取県琴浦町にある「塩谷定好写真記念館」へ。大正末期から昭和初期に芸術写真が隆盛を極めた時代に、カメラ雑誌のコンテスト上位入賞の常連として山陰から全国へその名を馳せた塩谷定好。静かで端正な構図や対象とする被写体は学び多きものがある。

記念館は、廻船業を営んでいた生家を改装し作品が展示されている。たまたまご案内くださったのは館長でお孫さんの塩谷晋さん。建物の中をくまなくご案内いただき、作品のことから回旋業のことまで様々お話を聞かせていただく。

芦屋出身だと伝えると、芦屋カメラクラブの話になり、中山岩太と同時代を生きたハナヤ勘兵衛のご子息とはよく知った仲であることなどを話し、続いて博報堂を定年退職したことを話すと、琴浦町の参与に来ていた深谷くんの名前が出たり、同期で鳥取出身の中井くんの話が出たりと、とてもご縁を感じ松に関わりはないがポートレイトを撮影させていただく。

記念館が建つ旧国道は観光化とは違い節度ある暮らしが醸し出す綺麗な佇まいで、映画のロケで使えそうな幸せな空気が漂った街並みが続く。その旧国道はバイパスができたことで脇道になり、人や車の往来が途絶えてしまったそうだ。そこへ山陰道のインターチェンジが近くに出来る計画を知り、町を盛り上げるプランの一つとしてこの記念館の設立を思い立って10年前にオープンされたという。記念館は町全体を盛り上げる拠点作りの一つであり手段だという塩谷晋さんのまちづくり事業的な発想に学ばされる。

塩谷定好の生き方は写真家としてとても憧れるような生活と感じていたのだが、戦後からは写真館を経営しながら作品づくりを行なっていたのは、実際には廻船業が厳しくなり決して楽な暮らしではなかったそうだ。多くの素晴らしい作品を残しているが、世界的に評価されるようになったのは一人の海外キュレターが写真集を手に取り見出され、1982年のフォトキナで展示されフォトキナ栄誉賞を受けた頃からで、その評価が逆輸入され国内での評価も高まってきている。大変に刺激を受ける写真家であることを再認識した。

塩谷晋さんとの出会いによって今後の活動に良質なエネルギーをいただけた。感謝、感謝である。

午後は、米子市の弓ヶ浜で「和田町マツ守り隊」代表の安達卓雄さんにお会いする約束で和田公民館で待ち合わせ。弓ヶ浜全体は約20kmで松林は約10kmあり、鳥取県によってエリア分けをしてアダプト方式「弓ヶ浜・白砂青松そだて隊」で最大40の企業団体が受け持って植林や保全活動を行なっている。そのうち1kmを安達さんたちの団体が保全を行なっているという強者集団なのだ。

弓ヶ浜は大山の崩壊や日野川上流で行われたたたら製鉄による砂の流出により形成された日本最大の砂州。このため地形的に灌漑用水が得られず厳しい農業環境であったが、1700(元禄13)年から60年の長きにわたる開削事業を行い約20kmの米川が完成し、水田開発や綿作も盛んとなった。この頃に植えられたであろう砂防林の松は残っておらず、現在残る背の高い松は戦後の昭和23年ごろに地元住民が植えたものだという。以前は民家にも樹齢100年ぐらいの松があり、各家庭で燃料にしていたが今は伐採されて残っていない。

鳥取県がアダプト方式により活動を推進するに至ったのは、2011(平成23)年の元日に降った大雪で多くの松が雪折れてし被害が甚大となったため。しかし、安達さんたちは観光やレクリエーション資源としての松林という視点も含めて2008(平成20)年から保全活動を始めている。

これまでに県からの補助で10,000本を植樹し、樹幹注入を行なってマツクイムシ被害を抑え込んでいる。それでもやはり猛暑であった昨夏の被害は例年よりも多かったそうだ。植林する際に真砂土を敷き詰めたらか松はほぼ全てが活着し、もう植える部分はないので、最近は下草刈り、清掃、枝払いなどを行なっている。

安達さんと話しながら歩くと、確かに幼樹がしっかりと育ち希望に溢れた松林に見える。弓ヶ浜の松林は幅が狭いのだが、それは国有林と県有林からなる松林のため住民の預かり知らぬ状況で国道431号線が新設されたためだ。

83歳には全く見えない若々しい安達さんの最大の課題は後継者探し。安達さんたちの団体は和田町の約15の自治会の会長と副階会長がメンバーになるため常に30名いるのだが、各自治会町の会長職も後継者不足となっている。

明日と明後日は出雲での取材のため、少しでも近づいておこうと考え、恒例の日帰り温泉を探す際に祝日であることを踏まえて少し人里離れた場所はないかと検索すると、山深い「深谷温泉ふかたに荘」に向かう。4人で満員となる湯船で掛け流しではないが気持ちの良い温泉で正解。雲南市が管理する公共施設で指定管理制度。入浴料300円。泉質はカルシウム硫酸塩冷鉱泉。車中泊は、温泉から至近の「道の駅さくらの里・きすき」

 

赤碕の家並み(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(暖冬の日本海をゆく(4)出雲大社の松は炭と菌根でよみがえるへ続く)