(暖冬の日本海をゆく(3)いよいよ山陰海岸へより続く)

 

10日目 2月24日 出雲に至る

 

いよいよ出雲だ。旧暦10月の神在月には全国の八百万の神が集う国。とても神聖な気持ちを抱くのだが、写真でこの空気感を表現できるようになるには、まだまだ修行不足であろう。出雲に向かう途中で目にした雲南市では石見の赤瓦の家並みが美しく普通の家並みが絵になる。本来の日本の風景はこのような魅力があったに違いない。

今日は昼から出雲大社に近い丘陵である「浜山」で「浜山を守る会」の皆さんに会う約束なので、午前中は週末で賑わう「出雲大社」の松に会ってきた。参道に樹齢を重ねた松が佇み、本殿の背後の山の稜線にも松が見える。大きいものは推定樹齢300年とされているが、マツクイムシの被害はないようだ。

「浜山」は出雲市と大社町の市街地の中にある115haもの松林の丘陵である。ここはその昔、海からの飛砂によってできたものらしくきめ細かな砂で出来ている。そのため江戸時代は「高浜山」といい、草木も生えていない大砂丘で、風が吹くと飛砂が田畑を埋めたり、雨が降れば砂が流れ出したりと災害続きだったという。このため松江藩は2年かけて植林事業を行なったのだが、砂には勝てず一度は諦めるほどだったようだ。

その後、松江の武家に奉公していた井上恵助が故郷に戻り、1757(宝暦7)年から研究を重ね22年かけて90万本の松や他の樹種1万本以上を植樹。その際に、古老が田んぼの深いところから掘り出して畑に使っている「もかす」の存在を知り、松の植え穴に入れたところ多くの松が根付いた。成長にするに従い防風・防砂林として機能し農作物ができるようになり、松葉をかき集め家庭の燃料にもなり、地域の暮らしを安定させることとなる。

それ以降、昭和30年代までは家庭のエネルギーに松葉を使っていたためか、浜山には200人の地権者がいるようだ。今は誰も浜山の松に手をかけることはなく荒れ放題となった。このためマツクイムシ被害が広がり、薬剤の空中散布をしたところ直接の原因かは判明しなかったが、地元の子ども達の健康被害が出たため中止。その後マツクイムシ被害は拡大する。

この状態を見かねた市民の有志による植林活動が始まり、今日お会いした「浜山を守る会」は2010年に発足し現在に至る。これまで数多くの植林を行ない、1年に一度は400人ほどを集めた大清掃を行うなど広報活動と維持管理に努めている。

皆さんと一緒に現場を歩くと、ニセアカシアが繁茂して手がつけられないエリアがある一方、松林の中には公園遊具が多く、週末ということもあり本当に多くの家族連れや子どもたちのグループが多数遊び回っている。その足元はきめ細かな砂が露出している理想的な松林である。また遊具のないエリアもモデル地区を設定し雑木の大掛かりな伐採を行い人が歩き回れる健全な松林を取り戻していた。実生発芽も多い。この辺りでは自生松のことを「おのればえ」というらしい。「松葉かき」のことは「こでかき」だそうだ。

しかし課題は山積で、県は間伐をせずヒョロヒョロの松にまで樹幹注入を行なっており計画性があるとは思えない。守る会も高齢化が進んでおり後継者がいない。地権者全員が保全活動を了解しているわけではないので活動場所が限定される。しかし解決の糸口はあると思う。全体が県の防風保安林に指定されているので、県の意向で手がつけられるのではないかということだ。市民側から働きかけ、官と民の有識者や地元住民で委員会を構成し浜山の松林再生計画」を策定することで継続性を確保することだと、他の地域を見てきて思い至った。

「浜山を守る会」会長の錦織稔さんは出雲市議会議員なので、取っ掛かりを作ることができる立場にあるのではないかと思い、あくまでも一つのアイデアとしてお話をして、各地の再生計画のリンク先をメールでお送りした。是非とも踏ん張っていただきたい。

夕方の撮影時間帯が確保できたので「出雲日御碕灯台」に向かった。流紋岩による縦に連なる断崖の上に、日本で一番美しいのではないかと思える灯台が佇む。その周辺にある樹木は松のみで期待以上のロケーション。この灯台は、1900(明治33)年から3年にわたる大工事で完成したもので、石材は島根県八束郡森山から切り出し境港から海路で運んでいる。明治政府が招聘した灯台の外国人技師はすでに帰国しており、設計から施工の全てを日本人が手がけた純正国産灯台だ。高さは43.65mあり当時から最も背の高い灯台として君臨し重要文化財に指定されている。国内で最も会いたい灯台であった。学生時代のバイク旅は漠然と岬やそこに佇む灯台に行くのが目的になっていたが、大学2年の時の初めてのバイク野宿旅ではここには来ておらず、なんだかその頃に戻ったような感覚で無邪気に旅情を楽しみながら撮影に没頭。なんと言ってもロケーションが素晴らしく平和で幸せな夕暮れであった。

今日の日帰り温泉は、いつもの嗜好とは違って出雲市駅前で賑わう「らんぷの湯」に。泉質は地下1800mからひくナトリウム・カルシウム塩化物泉。厳選は低温のため加熱。意外とゆっくり湯船に浸かり疲れを癒せた。明日は夜明け前から出雲大社に行きたいので車中泊は「道の駅大社ご縁広場」

 

出雲日御碕灯台(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

11日目 2月25日 出雲大社の松は炭で菌根で復活

 

まだ暗いうちに小雨が降る「出雲大社」の駐車場へ。拝殿の目の前にある銅鳥居からは入れないようになっているが撮影には好都合。拝殿前の濡れた石畳が光り、手前に立つ松は街灯の光を受けて存在感ある構図を得ることができて納得度が高く気分が高揚する。6時に開門となり、それに合わせて何人かやって来るが、地元の人のようで拝殿に手を合わせたあとは本殿に足早に向かっていく。そのためほとんど撮影に影響がなく有り難い。時間と共に観光客も混じり始めると、当然ながら皆さんスマホで撮影するので立ち止まる人が増えてくるが、ちょうど切り上げるのに良いタイミングとなった。

感激の撮影の余韻に浸りながら神在月には神様をお迎えする「稲佐の浜」でも撮影して休憩。その間にFacebookの友達で出雲出身の方から「築地松も是非」との情報をいただき、そうだ忘れていたと膝を打って「築地松」のサイトで調べると20分程度のところに散見されるエリアがあることがわかる。視界が開け、風が伸び伸びと吹き渡る風景で数件のお宅を拝見したが、かなりの樹齢を重ねた築地松の姿形が本当に美しい。これを維持することのご苦労を勝手ながら思う。ぜひ末長く残していただきたい。

13時から出雲大社の第一駐車場で出雲大社の松の保全を行なった「出雲土建」社長の石飛裕司さんと、しまね樹木医会理事長の佐藤仁志さんにお会いする約束。石飛さんは、建築資材として調湿効果が得られることで評判の「出雲屋炭八」の社長でもあり、炭と松との関係も勉強されている。出雲大社の松の保全に関わったのは、この炭八を開発したことがきっかけであった。当時の管長のお宅に床下調湿材として炭を納めた石飛さんに「拝殿前の松が弱って来ており、ある方から炭がいいそうですよと言われたので何とかならないか」と管長から相談があった。

石飛さんは、出雲市の日本海側にある外園海岸の松林に守られたところにお住まいだが、マツクイムシ被害で枯れていくと強い風が吹き付けるようになり「外園海岸整備推進協議会」を立ち上げて保全に取り組んでいた。加えて昨日取材した「浜山」の松林の保全も手掛けている。ある会議で松の根に炭や菌を入れることで松の育成が良くなると語る今は亡き小川真さんにアプローチされ懇意にされていたので、小川さんにお運びいただき出雲大社の参道の松の再生事業を手がけることになる。

小川真さんは、1937年生まれで2021年にお亡くなりになっている。農学博士で炭と菌根に関する大家で森林のノーベル賞「国際林業研究機関連合ユフロ学術賞」を受賞されている。一方で「白砂青松再生の会」を立ち上げ会長として松林再生のノウハウを伝えるため全国各地を行脚。東日本大震災で被害を受けた海岸林にも足を運び多くの関係者と交流されていた。

2011年4月から海岸線のグリーン復興を目指し、東北大学や環境省の皆さんと環境省「グリーン復興プロジェクト」に取り組んでいた頃に思いを馳せる。名取市閖上の海岸林を復活させるため奮闘していた「ゆりりん愛護会」大橋信彦さんと懇意になったのだが、連携されていた小川さんを紹介していただき「白砂青松再生の会」のメンバーにしていただいた。福島県の松川浦での植樹活動にも大橋さんと一緒に参加し小川さんが指導される姿も拝見した。2012年に小川さんが共著で出版された「海岸林再生マニュアル」をメンバーの一人としてお送りいただいたが、添えられたサインは今となっては貴重なものとなってしまった。

その小川さんの著書「炭と菌根でよみがえる松」に各地のエピソードが残されているが、石飛さんとの出会いや活動も8章「出雲大社ー炭と菌根でよみがえるマツ」に丁寧に記されている。その中で、出雲大社の当時の管長のご親戚が天皇陛下とお親しく、その方に皇后陛下から「宮崎の一つ葉の松が元気なのは炭やキノコに詳しい方の指導の賜物のようですよ」と話されたことが管長から石飛さんに伝わり小川さんが出雲大社に足を運んだ理由だと記されている。この経緯は当事者の石飛さんご本人からも生々しくお聞きした。

今の上皇陛下に出雲地方のハゼについて2回もご進講をしたのが佐藤仁志さんだ。上皇陛下はハゼの研究者として研鑽をされているが、各地の生態については地域の研究者からお話をお聞きになっていたという。出雲大社の参道を散策した後、出雲大社に近いカフェでコーヒーを飲みながら話を聞いて仰天である。佐藤さんから「あなたとはお会いしていますよ」といわれ話を辿っていくと、2010年に名古屋で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の際に、日本野鳥の会の理事長だった佐藤さんとご挨拶をしていたことを思い出す。神聖なる出雲大社で高貴なお話に聞き惚れながら語り合えた充実の時間となった。

今回の旅はここで終了にしようと考えた。山口県萩市の菊が浜の活動も取材予定だったのだが、これからの走行距離を考えると厳しいと判断。少しずつ東へと向かうことにして、宍道湖の観光シンボル「嫁ヶ島」は松だったことを思い出し夕暮れ時の撮影を目指した。明日はその名も「松江城」と松を探求しようと思う。

恒例の日帰り温泉は週末と観光地ということもあり、少し離れた「鹿島多久の湯」に行ってみたがやはり混雑していた。しかし、泉質は低調性弱アルカリ性高温泉で源泉は50.5℃。冷えていた手先や足裏からジンジンと温まるのが嬉しい温泉であった。車中泊は、宍道湖畔にある「道の駅秋鹿なぎさ公園」

 

出雲大社の参道で石飛裕司さんと佐藤仁志さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

12日目(2月26日) 新潟から山口まで日本海縦走

 

夜明けと共に「松江城と松」を探求。国内5つだけの国宝天守閣に松を絡めるアングルを粘り、せっかくかので天守閣にも登った。

ここで撮影取材の旅を折り返そうと山陰自動車道に入り東に走り始めてから、急に「本当に積み残していいのか?」と自問自答を始めgoogle mapで取りこぼしている萩市までの時間を見ると4時間で午後には着ける距離。まだ迷いながら取材予定の方に連絡すると、明日でも明後日でも都合は付けられるとのお返事をいただき踏ん切りがついて向かうことにした。

今日中に萩に着けばいいので気持ちに余裕ができ、撮影リストに入れていた大田市三瓶町の三瓶山の麓にある「定めの松」へ。すでにマツクイムシの被害を受けて枯れているのだが、亡骸というか勇姿に会いたくて向かった。江戸時代に石見銀山の初代奉行が一里ごとに植えたものと言われ看板には推定樹齢400年とある。生きた姿に会いたかった素晴らしいロケーションに佇む松である。この松も出雲土建の石飛さんたちが再生に努めていた。

三瓶には日本で最大の埋蔵林があると佐藤仁志さんから資料をいただいていたが先を急ぐことにした。しかし、1998年に発掘調査を開始した物語も素敵で、悠久の時を経て今に姿を現した大木たちに浪漫を感じる場所なので次回には足を運ぼうと思う。

快調に走っていると、生活感があるのに素敵な佇まいの集落が目に入る。確認すると石見銀山で賑わった大森地区で、江戸時代の佇まいが延々と続き、リノベーションして活性化しているのにはびっくり。こんな観光資源になっているとは知らず、先を急ぐので少しだけ迷い込んでみたが、ここを目的にゆっくり旅するのも良さそうだ。

この大森地区の中に、島根県立大学の講師で「雨上株式会社」の平井俊旭さんが手がけた「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」があると平井さんから連絡をもらっていたので行ってみたら閉まっていた。残念。なお、この施設は今年の「しまね景観賞」優秀賞と「しまね建築・住宅コンクール」最優秀賞を受賞しているのだ。素晴らしい。みたかった。平井さんとは三重県の速水林業で開催される「林業塾2013」でお会いして以来のお付き合い。当時はSoup Stock Tokyoで木材を活用したデザインプロデュースを推進していたが、豊富な知識と抜群の行動力であれよあれよいうまに展開され今に至っている。

日没前に萩市を目前としたところで、国道191号線はJR山陰線と並走して日本海に沿って走るのだが、沖合に浮かぶ小島に松が佇むのが見えて、木与駅周辺にある「北長門海岸国定公園」のパーキングエリアに寄り道。恒例の日帰り温泉は「道の駅阿武町」にある「日本海温泉鹿島の湯」。カルシウム・ナトリウム塩化物温泉。貸切状態でゆっくりと体を温めてきた。この道の駅の目の前に仲良く浮かぶ男鹿島と女鹿島を夫婦島と呼ぶらしく男鹿島に鹿島神社があり、松のシルエットがとてもいい感じに浮かび日没間際に撮影。そのまま車中泊。ここは道の駅発祥の地とある。

 

定めの松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(暖冬の日本海をゆく(5)萩で松との新たな出会いへ続く)