(暖冬の日本海をゆく(4)出雲大社の松は炭と菌根でよみがえるより続く)

 

13日目(2月27日)松で焼く萩焼と感激の出会い

 

いよいよ今回の最終目的地の萩市内へ。

明治政府によって、1874(明治7)年に取り壊された5層5階の天守閣があった萩城址の石垣と松の組み合わせを探求し、その石垣が見える白砂青松の菊が浜に出ると弓形の地形が優しく特徴的な指月山が佇む。老松と校舎との組み合わせが美しい旧萩藩校の明倫館にも立ち寄ってみた。萩市内では比較的樹齢を重ねた松が各所に多く残っており、マツクイムシ被害をかなり抑え込んでいる印象だ。

10時に「菊ヶ浜を日本一美しくする会(菊一会)」会長の小茅稔さんとお会いする約束。早速お話を伺うと、何か少し違うかなと思っていると砂浜の清掃活動だった。砂浜の背後の松林がとても美しいのだが全く関わっていない。ありゃ、これは手違いと思ったが、とても熱心に活動され多くの方を巻き込んでいるので引き続きお話を聞かせていただく。

2003年に有志の会が立ち上がり、約1kmほどの砂浜を3つの班に分けてそれぞれ浜に近い地域の方が受け持つ。当初は個人と団体を合わせ総勢100名が参加。毎年清掃カレンダーが発行されている。現在は毎月第1、第3日曜の朝9時に集合。このカレンダーは「菊一会」が制作しているが「NPO萩城郭保存会」が相乗りしているのが微笑ましい。

20年間、地元の方々と活動を継続しているが、小茅さんは海風がやむと必ず浜に出て、流れ着いた海藻や海洋ゴミを拾っているので年間50日は活動しているそうだ。言ってみれば毎週定点観測をしている状態なので、砂がえぐられる部分と砂がつく部分の両方があり全体的には砂浜は減っていないことや、近年は磯焼けの影響なのか流れ着く海藻が圧倒的に減ってしまったことなど把握されている。松林に関しては萩市が樹幹注入や林内清掃、マツクイムシ被害木の伐採などを行っているのは見てきたそうだ。

「菊一会」は、永年の活動が評価され2022年には環境省の「地域環境美化功労賞」を、2023年秋の褒章では「緑綬褒章」を受賞されている。素晴らしい。小茅さんは今年83歳。やはり後継者問題が目下の最大の課題だ。

昼過ぎに良好な通信環境を確保するため「道の駅萩しーまーと」に停めた車の中からウェビナーで講演。テンションが上がる。このまま萩を去るのはもったいないので、大学2年生の時にバイクの一人旅でも歩いた江戸時代の面影が残る武家屋敷エリアを40年ぶりに歩いてから帰ることとした。

何年も前に購入した淡いピンク色の萩焼の茶器セットが好きで、今回も良いものがあれば買いたいと思っていたら素敵な店構えの「波多野指月窯」を通りかかり、ショーウィンドウに置いてあった器があまりにも美しく好みだったので引き込まれるように入った。

お店の女性が「全て登り窯で焼いていて、薪は松にこだわっている」とさらりと話す。むむ?と思って「松ですか?」と聞き返すと「松です」というではないか!しかも40年前に建てたお店の大黒柱など構造体は全て「松」だという。なんたる出会いと思い、「全国各地の松と松に関わる人を求めて撮影取材の旅をしています」と話したら、「今は生活習慣も変わって街中では登り窯が使えなくなってしまいましたが建物の横にあるのでみてください」と敷地に入れていただき撮影させていただく。

一息ついて、お店の棚にある萩焼無形文化財の波多野善蔵さんの作品を眺めていたら、なんとご本人がお抹茶とお茶菓子をお盆に乗せて「松を求めて全国ですか」と来られるではないか!もちろんご本人が作陶された湯呑みとお皿で。「松のことならちょっとお話しないと」と言って会話が始まる。「松は火力が強いだけでなく炎が優しいのが良い」「窯の中は場所によって温度が違い1300度から1380度ぐらいまで上がる」「薪は投げ込まなければならないので真っ直ぐにしておかないと器を壊してしまう」などなど素人にも関わらず松へのこだわりを語ってくださる。善蔵さんの次男の英生さんが後を継がれ、今も親子で年に2回ほど窯に火を入れているという。

たまらずお店の横にある登り窯の前で善蔵さんの写真を撮らせてくださいとお願いをしたのは言うまでもない。夕方になって少し気温が下がってきていたので3枚だけシャッターを切った。お店で対応くださったのは善蔵さんの奥様であった。善蔵さんの作品はちょっと手がでない金額だったので、英生さんの大きめの湯呑みと職人さんの大きめの茶碗を買うことにした。いずれも淡いピンク色で土の荒さを生かした鬼萩にした。

また必ず来ますと伝えてお二人に見送られてお店を出た。松に関わる新しい物語を得て「松韻を聴く旅」がさらに深まりとても幸せな気持ちで萩を出発できる。何事も歩みを前に。興味のままに行動することの大切さを善蔵さんご夫妻から学ぶことができた。

そういえば善蔵さんが「最近はマツクイムシも収まっている」とおっしゃったので、全国的には猛威は変わらずあり、山形は今年の猛暑によるカミキリの活動時期が長かった影響で被害は甚大で、萩市内は不思議なぐらい被害木が見当たらないとお伝えした。改めて萩の松の保全現場を取材したい。

明日の夜明けは出雲大社の参道を再撮影したいと考え、夜のうちに着いておけばよいから途中で日帰り温泉をと考えた。関西人なので子どもの頃から「温泉津(ゆのつ)温泉」という地名がずっと気になっていながら一度も訪れたことがなかったので行くことにする。温泉の津なので、温泉のある港という意味だと思うのだが、それを「ゆのつ」と読むセンスに参っていた。

約140kmを一気に走り、21時閉店20時半受付終了でギリギリ間に合った「薬師湯」にはノックアウト。レトロな外観の中は大好物の浴室。自然湧出で源泉脇の正真正銘の源泉掛け流し。生の温泉のため湯船に入った途端に全身がピリピリとしびれるように芯から温まるのがわかる。普段は混雑していて順番待ちもあるそうだが脱衣所も浴室も展望室も、つまり建物全て貸切状態で過ごすことができた。とても幸せだったので記念に手拭いを買った。

さらに温泉津から約60kmほど走り、22時半に今夜の車中泊、出雲大社に至近の「道の駅大社ご縁広場」に到着。心地よい疲れと共に結構な達成感があり、迷いながら足を伸ばして大正解だった。出会いに感謝、感謝。

 

波多野指月窯の登り窯(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

14日目(2月28日)山陰ジオパークでエドワード・ウェストンを想う

 

まだ暗いうちに出雲大社の駐車場へ。25日の早朝の撮影で、十分に撮れていなかった参道を再撮影。これで安心と思えたところで切り上げ、往路の22日はリサーチ不足で撮りきれていなかった鳥取県の浦富海岸周辺を深掘りすべく先を急ぐ。

途中、大山が雲間から顔を出していたので、23日に撮影した「一町松」と大山との絡みが撮れないか確認に向かったが、松の背景に大山が来ないことがわかり撮影できず。言ってみれば空振りなのだが、被写体の周辺環境は足を運んで自分が確認するのは当然なので、空振りではなく前進と捉えるのだ。

気がついたら旅に出て2週間が経っていた。本来は雪化粧の日本海を求めて北に向かったのだが、全く雪のない新潟市内から南下をはじめ、被災地となっている石川県は改めて訪ねるとし、富山県、福井県、京都府、兵庫県、鳥取県、島根県、山口県と巡り、多くの松や松に関わる人々との出会いを得て鳥取まで戻ってきた。名付けて「暖冬日本海紀行」となった。

今回の旅の最後の撮影ポイントとなる「山陰海岸ユネスコ世界ジオパーク」の浦富海岸周辺。花崗岩が日本海の荒波に削られ、痩せた場所こそが住処である松が佇みダイナミックな景観を形成している。撮影ポイントにしたのは鴨ヶ磯、城原海岸、菜種五島。この季節で平日ということもあり無人。落ち着いて撮影に集中できる。

鴨ヶ磯や城原海岸に降りていくとまるでカリフォルニア州カーメルにある「Point Lobos」のような景観に見えた。写真家を志し始めた1990年頃、仕事を終えた深夜に当時は朝5時まで営業していた六本木「青山ブックセンター」に行っては明け方まで写真集をめくっていた。その時に初めて購入した海外の写真集がEdward Westonの「California Landscape」だった。その中で特に印象的だったのがポイント・ロボスで撮影されたシリーズだった。ウェストンは1927年、41歳の時にカリフォルニア州カーメルに移住し1958年に71歳で亡くなるが、徹底してポイント・ロボスを撮影している。風景を撮っているのだが、そこに情緒はなくStill Life(静物写真)のような冷徹さで被写体のディテールと質感に迫るカッコいい作風に魅せられた。パーキンソン病を煩い息子のサポートを得て最後に撮影したのは1948年。1950年に本人の意思で編集された写真集の存在を数年前に知り購入した。2001年にアート・インスティテュート・オブ・シカゴなどで開催されたThe Last Years in Carmelはポイント・ロボスの集大成と言える。ウェストンは最初の結婚のあと、モデルであり愛人である女性と息子を伴ってメキシコへ撮影の旅に出たり、51歳になって年の離れた助手と再婚したりとワイルドな人生を歩んでいるのも後になって知った。

ジオパークの看板にQRコードを貼り付けている男女2名がいたので「レンジャーの方ですか?」と聞くと自治体の岩美町の職員だった。最近、韓国からの観光客が増えているため改めて各国語のサイトへ誘導するのためのQRコードを用意したのだという。ちなみにこの周辺の松の手入れに関して聞くと、部署は違うが岩美町の職員が散布と樹幹注入を定期的に行っているそうだ。次回は山陰海岸ジオパークをもっと探求し、松に関しては岩美町の職員を取材できたらと思う。

岩場や砂浜で松が痩せた土地を好む強い植物であることが表現できるだけでなく勝手ながらウェストンへのオマージュとなるような構図をワクワクしながら求めた。岩と松と海。有り難い被写体。ウェストンを意識するとLandscapeというよりStill Lifeという感覚になるのがわかるような気がした。被写体として足りないのは海に漂う海藻であるが、気候変動の影響なの海流の問題なのか海藻はなかった。傾いた日差しがジオパークを美しく照らし日没まで探究を続け納得して終了。

恒例の日帰り温泉は、日本海側を進むより内陸に入った方が確実にあるので、兵庫県民なら誰もが知る湯村温泉に入るか迷いながらやり過ごし、少しでも先を急ぎたく源泉掛け流しの村岡温泉を目指したらなんと臨時休業。湯村にすればよかったと思いつつさらに前進して「とがやま温泉天女の湯」へ。車中泊は「道の駅ようか但馬蔵」

鳥取県から兵庫県に入り新温泉町の浜坂漁港の周辺にになんと「芦屋」という道路標識やバス停を発見。故郷の芦屋市、福岡の芦屋町、そしてここ新温泉町芦屋。3つ目の「芦屋」という地名に驚いた。

 

山陰海岸ジオパークでウェストンを想う(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

15日目最終日(2月29日) 日本海縦走その足で長野へ

 

これだけ移動してくると日本地図が少し小さく見えるようになってしまったのか、大胆にも兵庫県から北近畿、北陸、東名、中央と自動車道をひたすら走り、長野県伊那市の山中に佇む推定樹齢400年「長谷のからかさ松」に会ってから帰宅しようと思ったら、あと数キロのところで積雪のため通行止め。念のため伊那市役所長谷支所に連絡をして状況を聞いて断念。ずっと雪のない旅だったが最後の大きな寄り道で雪に泣かされる。しかし来月は長野県と心に期することとなったので、薄暗くなってきたが茅野市にある「傘松」の下見に立ち寄った。車を止めて少し山道を歩いたが雪が深くキョンと鹿が駆け抜けていく。来月のなごり雪のタイミングに合わせて長野の巨樹を訪ねることに心が固まった。

今回の走行距離は3,812km、森林クレジットを購入してカーボンオフセットを行う。

 

(信州の老松たち(1)長野の雪山で老松たちに会うへ続く)