(冬の丹後・若狭・湖西をゆく(3)懐かしい景観が守られている湖西より続く)

 

1日目 2月15日 雪化粧を求めて北上

 

2023年7月から開始した「松韻を聴く旅」も今回で9回目。

38年勤めた会社は、給料をもらいながら現代社会学や人間関係学を実地で教え込んでくれた学舎であり、定年退職はいよいよ独り立ちするための卒業だと気がついた。写真家として思うままに生きている今が、最も実現したかった姿なのだと実感しながら旅先で充実した空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。

そして人生の最後まで向かい合いたいと思える被写体「松」を全国各地に求めている。さらに、その「松」に関わる人々との出会いが、とんでもなく充実度を深めてくれており、加えて微力ながらだとは思うが「励みになっている」との言葉もいただく。

これまで、これほど充実した時間を過ごしたことがあるのだろうか。時間を忘れて公園で友達と遊んでいたあの頃以来ではないか。いやもしかしたら人生で初めてではないかとも思う。

毎月後半を旅で過ごす生活は定着してきたが、帰宅してからは撮影した作品の仕上げと出力、撮影取材した方々へ額装した写真の送付、備忘録として書いたFacebookを骨子にして、現地で提供いただいた資料や、気になったことを調べ直してブログとして肉付ける作業など旅の余韻が続く。

そして毎月前半はSDGs関連の業務を設定しており、むしろそのために帰宅するのだが、旅先の現場で肌で感じた日本各地の課題や解決に向けた動きを新たな引き出しとして活用している。これに加えて、次の旅の下調べや取材先との調整なども重なり、意外とゆっくり過ごすことができないまま次の旅に出ている。

今回もそんな落ち着かない日々を過ごしながら、雪化粧をした松の木を撮影したくて天気予報を眺め、取材先候補になっている新潟県から山口県にかけての日本海側のどこに行けばいいかを悩んでいたが、とにかく北からとシンプルに考え東北道を走り始めた。

この旅は、一般財団法人日本緑化センターの皆さんの多大なるご協力のもと取材先リストを作成しつつ、Webサイト「全国巨樹探訪記」など全国の松の巨樹情報を頼りに訪ねたい老松を特定している。

栃木県矢板市にある山縣有朋が開いた山縣牧場だったエリアに佇む推定樹齢500年の「二本木の笠松」。立て看板によると、矢板市の天然記念物に指定されており、幹回り3.1m、樹高7.3mながら、東西16.3m、南北9.2mも枝を伸ばす。のどかな風景の中で斜めになった巨体を人々が用意した支え棒にゆだねながら伸び伸びと枝を広げている。地中の根はどこまで伸ばしているのだろう。大正5年に山縣有朋がよんだ歌が看板に記されていた。「かえりみぬ 人こそなけれ 伊佐野原 世に珍しき 松の姿を」

福島県白川郡西郷村の旧道に佇む推定樹齢200年の「高清水の松」。旧道のため除雪されておらず付近に車を止め少し雪道を歩く。その昔、このあたりに一軒茶屋があり湧水は清爽美味であったと看板に記されている。幹回り4.1m、樹高20m、枝ぶり18m。

さらに北上して山形県あたりから日本海を南下するつもりだったが、新潟で明日の取材が確定したので、磐越道で日本海に抜けることとし猪苗代町に佇む松の巨樹を訪ねながら向かう。

国道115号の旧道に佇む推定樹齢300年の「大原観音の松」。幹回り4.2m、樹高29m。町の天然記念物。元禄年間に硫黄採掘と温泉の権利をめぐる境界線の争いに勝訴したことへの御礼に植えた松であると看板に記されている。いかにも旧街道という雰囲気に佇むが撮影するには難しいロケーション。

白津集落に佇む推定樹齢450年の「白津の唐笠松」。樹高23m、幹回り3.8m、枝張26m。城主の重臣の邸内にあった松と看板には記されている。ずっと眺めながら走ってきた磐梯山をようやく背景に取り込むことができた。

今日は終日気温が高くトレーナーを着るだけで充分な春のような陽気で雪化粧は全く期待できず。恒例の日帰り温泉は阿賀野市の村杉温泉にある共同浴場「薬師の湯」で350円。ラジウムの含有量が日本一とも言われ、杉村温泉では医者が育たないとの言い伝えがある温泉地。地元の人で賑わっており芯まで温まってきた。

車中泊は「道の駅あがの」。到着と同時に強風が吹き始めたと思ったら土砂降りの雨が降り始めた。

 

矢板市に佇む「二本木の笠松」(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

2日目 2月16日 新潟市の海岸林での魅力的な動き

 

昨日の春の陽気から冬に戻ったように小雪ちらつく新潟市周辺。

まず「道の駅あがの」から20kmほど北上し聖籠町の次第浜にある「根上がり松」。推定樹齢800年、樹高14m、幹回り5.3m。町の天然記念物。新発田藩主が松の見事さを褒め庭師に手入れをさせたとの言い伝えがあると看板に記されている。周辺の防風林はほとんどがマツクイムシの被害を受けて悲惨な光景が広がっており、暗雲とカラスの群れがその印象を強めていたが、そんな流行りものに影響されず生き延びてほしい。

800年の老松をどう捉えるのか一息ついた9時ごろ、「新潟県護国神社」の松林管理をされている禰宜の伊藤豊彦さんに電話をしたところ、今なら時間があるとのお返事。30kmほど西に走り10時から1時間ほどお話を伺い境内で伊藤さんを撮影。

2016年ごろからマツクイムシ被害がひどくなり新潟市役所に相談したところ、風致地区ではあるが敷地内は神社で対応をと聞き、薬剤の空中散布は周辺の住宅地への影響があると考え自己負担による地上散布から始める。しかし背の高い松には届かず被害が収まらないため樹幹注入に切り替え被害を抑えてきた。

その後、新潟県庁の地域農政推進課や地域政策課と話をしたら、民有地であっても自然保全に関わることは国、県、市が1/3ずつ負担して、政令都市である新潟が実施することになると聞く。自己負担をしなくてもよかったわけである。しかし新潟護国神社だけで行政に働きかけるより、地域全体の総意でお願いすることでより強い説得力を持たせることができると考え、周辺の5つのコミュニティである町内会の会長一人一人に相談した。

新潟県護国神社を守る松林は、空が見えなほど黒々と元気であったが1/4は枯れて伐倒した。周辺の町では錆びなかった自転車が1年で錆びてしまうようになり、明らかに影響が出ていることを町会長は理解をしていたため全員から快諾を得た。町会長の中に元議員がいて、その指導のもと市長への嘆願書を伊藤さんが書き上げ全員で表敬訪問を行なった。

行政担当の属人性に左右されることなく、いかに市が本気になるかが問われる問題でもあるので市長への直談判が大事であった。その後、市長には何度が足を運んでもらい状況を理解してもらうに至る。新潟護国神社の禰宜である伊藤さんが、新潟大学農学部の中田誠教授と語らうことで知見を深め説得力を向上させ、地域コミュニティの代表者と団結して行政への働きかけを行なったことに感銘を受ける。

海岸の防砂防風防潮には松はしなるから良いのであって、コンクリートなど強靭と言われる人工物のインフラではビル風のような弊害が起こすと伊藤さんは考えている。また、ニセアカシアが繁茂してしまい日差しを遮り悪影響が出ていたので、神社職員総出で2年かけて伐採して低木の広葉樹を含めて元気を取り戻すなど健全な松林へと再生。林業従事者のごとく松の健全な環境を理解し率先した保全活動を行なっている。

新潟県護国神社創祀150年祈念に造営された回廊の柱165本には、伊勢神宮からひのきが贈られたことも教えていただく。循環共生、自然資源への深い理解を熱く語り続ける伊藤さんに大いに魅力を感じ、その思いでポートレイトのシャッターを切ったことはいうまでもない。

新潟の海岸林では先人に「川村修就(ながたか)」がいる。伊藤さんが守る新潟県護国神社の松林に銅像が立ち、伊藤さんの話の中でも度々その名前が出た。

1843(天保14)年に初代新潟奉行として着任し、足掛け10年で異国船に対する海防強化、砂防林の植栽、火消し体制強化から物価の安定まで、まちづくりの基盤事業を行っている。特に砂防林は、着任早々に砂丘地を視察し飛砂被害を目の当たりにして、翌年から足掛け6年をかけて26,000本余りの松を植えた。その偉業を伊藤さんはもちろん新潟県地域振興局が継承している。

午後は「海辺の森のキャンプ場」の指定管理団体である「NPO法人森の会」理事長の関本圭佑さんと工房長の落合誠さんにお会いする約束。20kmほど東に戻り15時からお話を伺う。

落合さんは「新潟市北区海岸林保全計画」の委員を務めるなどこれまでの多彩な経験を活かしてキャンプ場周辺の松原再生を実現してきた。関本さんは一級建築士の資格を持ち木工からリフォームまでをこなすが、落合さんたちの活動に魅入られNPOに参画し世代交代のバトンを受け継いだ。他の地域では後継者の担い手不足というよりも担い手そのものがいない問題ばかりを聞いてきたので、関本さんの存在に勇気付けらる思いである。

関本さんは、落合さんから刺激を得ることで海岸林を地域経済循環の中に組み込むアイデアを多数持っていて行政にも掛け合って具体化をしようとしていた。キャンプ場の施設の充実により利用者を増やし収益性を高めることや、松葉や枝などを再生可能エネルギーの資源にすることで、海岸林保全そのものを経済循環に入れ込み観光資源でもある海岸林を守ることを本気で考えている。これこそ各地では話を聞いては妄想してきたことだったので、40代のリーダーが牽引する「海辺の森キャンプ場」のこれからに大注目である。

すっかり日が暮れてから、新潟まで来ているのに何も連絡しないわけにはいかない新潟の大事な友人である大和夫妻の家に押しかけた。2人のお子さんたちのことでバタバタされている最中に夕食をいただきながら旅の話をして慌ただしく出発するという迷惑極まりない自称友人であった。にもかかわらず歓迎してくれたお二人と楽しくお話してくれたお子さんには感謝感謝。

大和淳さんとは、15年ほど前に生物多様性の普及啓発に没頭していた頃に出会った。都内で開催する会議に新潟から通ってくれて、その熱意に感じ入っていた。それから10年ほどが経ち、大和さんの娘さんのひなたちゃんが小児がんで入院生活をしていたのだが、小さな体で難敵に立ち向かう姿に都会で喘ぐ大人は何度となく励まされていた。

2017年6月3日、大和さんの勤務先である「マリンピア日本海」で奥様の紀子さんとひなたちゃんの3人が過ごす姿を撮影。撮影したデータとフォトブックをプレゼントさせてもらった。家族愛に満ちた笑顔の大和ファミリーに感謝や応援を込めて。しかしその3ヶ月後にひなたちゃんは帰らぬ人となってしまった。大和さんご夫妻は水族館で撮影した写真を遺影として今も使ってくださっている。

さて恒例の日帰り温泉は、明日の取材場所である上越市に近づくために多宝温泉「だいろの湯」。ここは1号源泉、2号源泉、3号源泉と3種類の源泉掛け流し!特に50畳もある露天は硫黄の香りの1号源泉で、足裏から背中から身体中からジンジンと温泉を感じ芯から温まった。車中泊はさらに南下し見附市にある「道の駅パティオにいがた」

 

素敵な世代交代をした関本圭佑さんと落合誠さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

3日目 2月17日 新潟から富山の海岸線をゆく

 

今日は春の陽気が戻り2月の新潟とは思えない風景を眺めることに。見附市から北陸道を使って60kmほど走り上越市の柿崎漁港に近い直海浜へ。9時に「直海浜の保安林を守る会」会長の木下高重さんにお会いする約束。

上越市柿崎区から大潟区にかけて広がる犀浜と呼ばれる砂丘の飛砂で農作物の被害が続くため、江戸時代の中期に藤野条助が家財を投げ打って黒松林を作り上げたと顕彰碑にある。

松の植林事業が一定の成果を見たのが今から約230年前の1791年とされており、藤野条助は22代目で現在は28代目を数える。2011年に27代目の世代である川室優、あきご夫妻によってこの顕彰碑が建立され、現在も定期的に功績を祝う会が行われているそうだ。

木下さんの子供の頃も旧国道には砂が堆積するため少し内陸に道路を付け替えたり、木下さんのお母さん達の世代も松の植林をして黒松林を維持してきた。しかし10年ほど前からマツクイムシの被害が広がりあっという間に松林全体が枯れてしまう。

そんな中で顕彰碑が建立され、地元でも忘れられていた条助の植林事業を再認識することとなり、付近の環境整備の機運が高まったことで「直海浜の保安林を守る会」を2012年に設立。

決して広い範囲ではないが、行政による保安林の植林事業を受け定期的に草刈り雑木伐採を行い、大事に管理してきた松がようやく育ってきている。条助の功績によって現在に至る暮らしが守られてきたことを再認識するだけでなく、その心を継承し地域の子ども達にも伝承していくことを大切にしてきた。しかし、どの地域とも同じで後継者探しが最大の課題となっており、木下さんの優しい笑顔にかげりを見た。

まだまだ新潟県内に留まりたいのだが、取材の日程調整がうまく運んでしまい再び北陸道を使って一気に120kmほど南下して富山県に入り滑川市の吉浦町へ。吉浦町に入ると海側に田んぼが広がり海岸沿いに松が点在し、振り返ると僧ヶ岳や立山連峰がクッキリとダイナミックに眺望できる。

13時半に吉浦町内会長の浜浦正博さんにお会いする約束。やはり10年ほど前にマツクイムシ被害が広がり、以前は海側には松がビッシリ並んでいたそうだが今は点在するだけになり、日本海からの冷たい風が直接吹きつけてくるが、足元には町内会で植樹した若い松たちが元気に育っている。

浜浦さんは、家族と共に数年前にこの地に引っ越してきたのだが、今では息子さんも敷地内に家を建て一家で根を下ろしている。風光明媚な風景に一家が過ごす幸せのお裾分けをしていただいた気分である。そんな空気感であれば、町内会で力を合わせて健全な松林を維持し、若い松も成長し暮らしを守ってくれることになるであろう。

取材の後はゆったりした気分になり、魚津市周辺を行ったり来たりしながらリストアップしていた巨樹を巡った。黒部市「謙信手植え松」、入善町「上原の丁松」、朝日町「ヒスイ海岸の松」。

「謙信手植え松」はYKK株式会社の工場敷地内にあるが、駐車場があり松の周辺は空地で開放されており誰でも入ることができるのが素晴らしい。戦国時代、僧侶姿の上杉謙信が病のため歩行困難となり、神のお告げによりここに湧き出た霊水に浸かって治癒したため、感謝の意を表して黒松を手植えして去ったと看板に記されている。推定樹齢は400年、幹回り6m、樹高18m。

「上原の丁松」は、旧北陸道にある街道松とされており、1丁ごとに植えられたものではないかと言われている。推定樹齢は370年、樹高25m、幹回り3.4m。

朝日町の海辺には縄文時代の遺跡があり、ヒスイ原石を使った装飾品が発掘されていることから、ヒスイが流れ着く海岸を「ヒスイ海岸」と名付けられ佇む松も老松が多い。

黒部市と魚津市の境にある片貝川の土手に佇む松や、魚津市と滑川市の境にある早月川の土手に佇む松も存在感があったのだが、気になりつつ先を急ぐためにいずれも通過。明日は他にも気になる場所があるので各所で撮影してから雨晴海岸に向かうこととし、車中泊は「道の駅くろべ」に。

恒例の日帰り温泉は往復1時間かけて富山市の「日方江温泉」へ。地元の人御用達の共同浴場で470円、地下1300mから湧き出る源泉44.3℃の掛け流し。ナトリウム、カルシウムに加えて鉄分が多いからかコーラのような色で肌に柔らかい泉質。しっかり芯まで温めてもらった。

 

直海浜の木下高重さん(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(暖冬の日本海をゆく(2)雨晴海岸、東尋坊、気比の松原へ続く)