(信州の老松たち(4)より続く)

 

1日目(4月15日)伊豆半島の付け根から松越しに望む富士

 

例年ならGWごろに富士山の残雪のバランスが良くなるはずだが、今年は暖冬の影響ですでに微妙に少なくなっているため予定を変更して、昨晩から急遽で静岡に向う。近場なので2日ほどで切り上げて、数日おいて東北の太平洋側に向かうつもりだ。

今回は、松越しに富士山を望むポイントで大のお気に入りの2カ所が目的地と絞った。西伊豆の「御浜岬」と対岸に位置する静岡市清水にある「三保松原」である。昨晩、西伊豆は沼津市戸田に入り、4時半起きで御浜岬からの富士山を撮影。ここ「御浜岬」は、google mapで松の巨樹が多数林立していることを把握して、2022年11月に初めて訪ねて虜になった場所である。その時に見つけたお気に入りの松の撮影ポイントがあり、今回も好天のもと雪を冠する富士を取り込み撮影。鳥のくちばしのような地形と例えられる「御浜岬」の地形は、駿河湾の海流によって運ばれた土砂が堆積してできた砂嘴で、そこに樹齢を相当重ねた老松が林立し美しい景観が成り立っている。この砂嘴に守られる形となっている戸田の港は天然の良港となっており、日本で最も深い駿河湾に生息するタカアシガニなども水揚げされる。春の平日はとても静かで穏やかな空気が流れ、各地から訪れる釣り人の数も少ない。あまりに穏やかな午後、名残惜しいが先を急ぐ。

「三保松原」。日本人と松をテーマに撮影するこのプロジェクトの原点のような場所である。2021年のGWに初めて撮影に訪れ、三保灯台と羽衣の松何度も往復して見つけたポイントからの松越しの富士を撮影できたことが、このプロジェクトへと歩みを進める大きな動機となった。今回は「三保松原」らしい景観とその撮影ポイントでの再撮をすることが目的である。夕暮れの時間になっても羽衣の松の周辺はインバウンドの観光客がとても多く賑やかな中で撮影。清水港に世界の豪華クルーズ船が相次いで入港するようになり、三保松原もコースに入っているようだ。

恒例の日帰り温泉は「あおい温泉草薙の湯」。ここの露天風呂は地下1500mから汲み上げる源泉は30℃のカルシウムナトリウム塩化物泉。加水なしで加熱のみ。少し塩っぱくて確かに芯から温まり疲れを癒してもらう。

その後、三保松原から御穗神社への参道「神の道」の夜景を撮影。気温が高く海からの夜風が気持ちがいい。

御浜岬の駐車場に佇む老松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

2日目(4月16日)松越しの富士、王道の三保松原

 

日の出前の4時半から撮影開始。曇天だったが富士山は綺麗に望め、前回見つけたポイントで松越しの朝焼けの富士を撮影。そのほかにも新たなアングルを探すが納得できる場所は見つけることはできず。ランチは静岡市が直営する「みほしるべ」の山田祐記子さんと三保松原から御穂神社への「神の道」を歩き地魚「御穂鶴」へ。昭和初期に建てられた酒蔵をリノベーションした店構え。油がのったぶりかま塩焼きを堪能。三保松原周辺は古い街並みが残り味わい深く気持ちの良い散歩が楽しめた。

山田さんは静岡市役所の文化財課で三保松原を長年担当し、この静岡市三保松原文化創造センター「みほしるべ」の計画段階から関わって現在に至り「三保松原」に関する生き字引的な存在。樹木医、松保護士、森林インストラクターの資格をお持ちで、展示からイベント、普及広報から維持管理まであらゆることをこなす。話の内容も歴史的背景から地理的なこと、地元のNPO活動からインバウンド事情まで多彩。豪華クルーズ船によるアジアや欧米から多くの観光客が足を運んでいるので、例えば中国の人たちが何に関心を示したかをSNSなどにアップされた情報を調査し把握と観光マーケティングそのもの。そして価値観の違う観光客の行為に対する地域住民からの苦情の対応まで。史実で興味深かったのは今川家が賓客をもてなす際に清水側から船で三保に渡り松原を案内していたという話。話題が尽きることはない。

2013年に世界遺産の構成資産に登録されたことなどから2019年に「みほしるべ」は開館した。ここでは富士山と関連付けて「三保松原」の魅力を国内外に発信することが当たり前と考えがちだが、そもそもは大正11年に天橋立と共に初めて海浜風景として名勝に指定されていることが基点となる。その背景となった芸術性、鑑賞性の高い優れた国土美を表現する文化財として魅力発信することが本来だという。その指定基準は「緑樹などの叢生する砂嘴、海浜」で、なるほど富士山と組み合わせた景観美は入っていない。つまり松原そのものをコンテンツとして情報デザインすることが文化財として期待されているということだ。とはいえ、古くは雪舟が描いた富士山と海と松の景観美を描いた「三保松原」が古典となって、日本人が求める景観美の基本となっているので悩ましい課題でもあるようだ。

改めて「三保松原」だが「みほしるべ」のサイトによると、松原のある三保半島は、海流によって運ばれた大崩海岸や安倍川河口からの土砂の堆積と、有度山の海食崖から削り取られた土砂の堆積によって細長く成長した大きな砂嘴である。富士山は古代中国思想の影響により蓬莱山とも呼ばれ仙人が住むとされ、その富士山と人間界とを結びつける架け橋として「三保松原」は捉えられた。このため古来より「三保松原」は富士山と共に描かれるようになった。佐賀県の「虹の松原」、福井県の「気比の松原」と並び日本の三大松原の一つとされている。

江戸時代の「三保松原」は、御穂神社の領地として徳川家康をはじめ歴代の将軍によって庇護を受け松並木の伐採は禁じられていた。明治時代に入り御穂神社の領地は一般に払い下げられ売却を目的に多くの松が伐採されてしまうが保安林に指定されたのち名勝指定され保全される。しかし第二次世界大戦時や戦後は燃料や製塩のため大量の松が伐採され激減。同時に地元民によって植林された松が現在に残り約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂る。この中に天女が衣に枝をかけて水浴びしている時、漁師が衣を取り上げ、返す代わりに天女の舞を披露してもらった羽衣伝説の松もある。現在は3代目で推定樹齢300年の黒松で、初代の羽衣の松は1707(宝永4)年の富士宝永山噴火の時に海に没したと伝わり、2代目の羽衣の松も推定樹齢650年を超え衰弱した。この松は御穂神社のご神体となっており、祭神の三穂津彦命・三穂津姫命が降臨する際の目印とされ、およそ500mの松並木の「神の道」を経て御穂神社へと通じる。羽衣伝説は、日本全国にとどまらずアジアにも類話が見られ、なんとヨーロッパにも似た話はあるそうだが三保を舞台としたものが本曲といわれているようだ。

これだけの逸話が広がる「三保松原」。そして松越しの富士。「日本人と松」の原風景に相応しい場所であり眺望である。「三保松原」の懐の深い背景に導いてくださった山田さんを松原の中で撮影。その後も夕方の松原から「神の道」の夜景まで撮影。この「神の道」だが、約500mの松並木に推定樹齢200-400年の老松が並ぶ。以前は参道と呼んでいたが神が通る道なのだからと「神の道」と命名された。老松たちの根を守るためボードウォークが整備され足元の照明が雰囲気を出してくれている。「三保松原」から自宅まではノンストップだと2時間ちょうど。今回は2泊3日のミニトリップ。また機会を見つけて原点回帰と撮影修行のために足を運ぶ。2日間の走行距離は395km。

 

三保松原の鎌ヶ崎から望む富士(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(春の東北(1)津波で流された松原を復活させる熱意へ続く)