(瀬戸内紀行 淡路島編より続く)

 

7月13日、旅に出て4日目の朝は少々寝坊の6時起きで行動開始。前夜は、淡路島から鳴門大橋を渡り鳴門天然温泉あらたえの湯に入って道の駅くるくるなるとで車中泊。食事と温泉と車中泊の場所の確保、そして今回から取り入れた車中でのデータ処理のため時間配分が難しく、作業完了は25時を過ぎていた。

さて、四国最初の目的地である香川県さぬき市の『津田の松原』に高速道路を使わず地道で向かう。寄り道大魔王になって気になる風景があると撮影しながら進み9時ごろに到着。ここでは松原再生計画策定の中心人物である88歳の鶴身正さんにお会いする。さぬき市社会福祉協会津田支所の多田雅裕さんも同席してくださった。最初の1時間は社会福祉協会の建物の中で、後半の1時間は松原を歩き鶴身さんを撮影しながらお話を伺った。松原の歴史からその樹形の特徴である根上となるプロセス、そして保全だけでなく地域資源として経済へ波及させるための思考まで。とても88歳とは思えない記憶力と企画力と行動力。やはり松原の中を歩きながら聴くお話は風景と共に心に沁み入る。

お話を要約すると『津田の松原』は、昭和の高度経済成長の時代には国鉄の駅から人が列をなして海水浴に訪れ海岸線は人で埋まっていた。この周辺には多数の旅館があって関西からも訪れ海の家も10軒ほどあって繁盛していた。子どもの頃に松原に親しんだ人たちが清掃活動を始め、婦人会、老人会などが一緒に取り組んでいる。生活様式の変化で、地域住民の生活と一体だった松葉かきもされなくなり、松原が生活から遠かったのも松原衰弱の要因と捉えて、行政とも一体となってボランティア人材の育成にも力を入れている。応永年間に寺の僧侶が防風、防砂、燃料確保のために植えたのが始まりと言われており、当時の松が樹齢600年になると考えられる。その後、慶長年間に藩主が石清水八幡宮を遷座し、宮司たちが5万坪に数千株の黒松を植樹したものが現在の松原の原型と言われている。その頃に植えた樹齢400年になる老松も、マツクイムシやシロアリの被害やさらには大気汚染の影響で多くは枯れ再生計画に向けて動いた。あるとき子どもたちと伐倒した切り株を数えてみると380ぐらいまでは目視できたがそれ以上は細かくて数えられず、多分にいま残っている老松の多くは樹齢400年クラスに違いない。現在は松原の区画を分けて本数管理をしている。子どもたちに受け継いでいきたいので、地元の小学校でもお話をして松原に親しんでもらっている。

鶴身さんのお宅は松原のすぐ横にあり子どもの頃は良い遊び場だった。松原を開いて建設された小学校は松で机や椅子を作ったのでヤニが出たり重たかった。根上がりの部分を切ると松根油が多く含まれていてよく燃えるから松明にして、松葉かきをするがんじき(熊手)を使ってサワガニを獲った。背の高い松には鳥の巣を見つけて登ったりした。春の雨上がりには思わぬところから生えてくる松露を探しにいったが、家に持って帰ってもあまり料理には使わずでお吸い物に入れたりしていた。少年の笑顔に戻って語る鶴身さん、松原は体力や知恵を付ける場でもあった。さて、鶴身さん、この松原を残していくために子どもたちに400年600年の歴史をわかりやすく話して松と地域の関わりを伝えたり、大人の方には松原は癒しの場としてコースを設定して健康づくりに活かしてもらったり、老松の姿を仰いだり触れたりすることで生きる力を感じてもらいたい、と考えているという。まだまだお元気なのである。さまざまな場所でポートレイトを狙ったが、鶴身さんが最後に選んだ場所は、この地を訪れた版画家の棟方志功が「おお兄弟ここにおったか!」と絶賛した老松で、棟方志功と同じように根元に腰掛けてもらい少年の頃に戻った笑顔で撮れたのがベストだった。そのまま3人でランチを食し、鶴身さんのご自宅までお送りして今後も良きお付き合いをと声を掛け合い別れた。またぜひお会いしたい素敵な方である。

鶴身さんからのインプットにより、松原を見る目が深まるためか、なかなか松たちがシャッターを切らせてくれない。それでも工夫しながら歩き続けると何かが降ってきたようにアングルを見つけることが出来始め手応えを実感する。今日は全体を歩いて多様な視点を持つことに専念。17時に切り上げ翌日は朝から夕方まで日差しを見ながら撮影することとする。さて、夕食はFacebookで連絡をくれた地元テレビ局に勤務する楠原洋一くんとの調整がかなって高松市内に急ぐ。20年近く振りの再会。関西支社と東京でも接点があった貴重な友人。もちろんリクエストはうどんづくし。なんとお土産にうどんと出汁をいただいた。放送局に勤務する人はこういった気配りされる人が多く心に沁みる。『津田の松原』に戻りクアパーク津田の入浴時間に間に合う。遅い就寝となる。

 

津田の松原 棟方志功が絶賛した老松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

鶴身さんの思いがこもる松原を翌7月14日も早朝から夕方まで撮影探究する。自分らしい撮影ポイントがどこにあるか全体を把握できるまでになったと思われる。撮影の息抜きに、「わたしを5分使って下さい」と書かれ松原のそこかしこに立てかけてある熊手を手に松葉かきをした。これも鶴身さんのアイデアである。今日は比較的曇る時間が多く松原の中は涼しい海風が抜けるので汗が出ない。ある程度は撮れたと納得できたので次の撮影地へ移動することとした。移動する前に『津田の松原』から15分程度のカメリア温泉で疲れを癒す。ぬるぬるの天然温泉、サウナとミストサウナもあり、地元の方が利用する場のようだ。脱衣所のニュースで明日から3連休だと知る。週末はこちらも少しペースダウンして観光も楽しんでも良いかなと思いつつ、日が暮れてから一気に高速を走って観音寺市の『琴弾公園』に至ると、ライトアップで浮かぶ白い橋。財田川に架かる三架橋は、鉄筋コンクリートのアーチ橋で日本百名橋に選ばれている。

7月15日、旅に出て6日目は『琴弾公園』の大きな駐車場にて汗だくで目覚める。完全に熱帯夜。暑く寝苦しくとも間違っても窓を開けられない。藪蚊の格好の餌食となる。オートバックスで目にしたドア用網戸をやはり購入すべきである。天気図を見る限り、西日本は梅雨明けしたのではないかと思うような配置でこの天気。瀬戸内は梅雨の天候を期待してこの時期にしたのだが、しかしもう1週間早めたとしてもあまりの悪天候に撮影どころではなかった可能性もあり、これがベストチョイスだと思っておこう。ありがたいことに晴れ男のジンクスは生涯ついて来てくれるのだろうか。日の出とともに撮影開始。ここは銭形砂絵で名が通る。400年前に新しい藩主を迎えるため地域の人が一晩で完成させたと言われており、現在も地域の人が毎年春と秋2回手入れをして維持している。直径は約100m、周囲は約350m、高さは約2mあり壮観。続いて地図に示された根上松に行くとなるほど直下の道路は崖崩れ注意とある。『津田の松原』にも多数あった根上松、鶴身さんは雨で真砂が流され根が徐々に露出して行ったと考えられると言っていた原理で考えると、ここは多分に雨で土砂崩れを起こしてここまで極端な根上松になったのは納得がいく。さてここはお遍路さんの島でもある。この琴弾公園には第68番札所の神恵院と第69番札所の観音寺があり四国霊場唯一の一寺二霊場。そういえば、母親が今は亡き親父と2人で霊場巡りをしていたことを思い出す。ここには来たのだろうか。誰に褒められなくとも自分が納得できる作品を残すことを心に誓い手を合わせる。

昼過ぎ、極めて暑いのだが、雲が多く出てきて日差しが微妙に柔らかくなり撮影条件としては良好と判断し、銭形砂絵の周辺の松原を撮影散策すると巨樹たちに圧倒された。観光ガイドではそこまでアピールしていないのだがこれも十分な地域資源。砂絵が描かれた時代からの松原だと樹齢は400年。それも個性豊かで力強い樹形の松ばかりに撮影のボルテージは一気に高まった。今の日差しが絶妙なライティングとなっている、正直、ここまで魅力的な松が佇んでいるとは思っていなかっただけに一気に撮影して回る。連休だというのにこの猛暑のおかげでか人が極めて少く撮影が非常にはかどる。早速、車でデータ処理を行ってみる。出来栄えに非常に納得でき明日は撮り損ねてしまった東かがわ市の「白鳥神社」の松林に戻ることとする。この日は町の祭りであることは道ゆく人を見て気づいていたが、夕方になって人がどんどん浜に向かうので不思議に思いつつ、今晩は早めに休むため17時半に手打ちうどんのお店に行き、18時には琴引回廊の日帰り天然温泉に行ってみると、連休の混雑だけでなく夜は花火があることを知る。今夜の車中泊と考えた有明浜の北の端っこにある駐車場で地元の人に混ざって花火を見上げる。花火が終わる頃には湿っぽい海風がいつの間にか丘からの涼しい風に変わっていた。多くの人が帰路を急ぐ中、防波堤の上に寝転がり風にあたりながら星空をしばし眺め、いつまでもコンクリートの堤防の上に寝転がっていたい気分を楽しんだ。誰もいなくなって思わず叫んだのは「ああ、自由だ」であった。何にも縛られず自分の意思に従い行動する日々を過ごし、夏の夜にたまたま訪れた海のコンクリート製の堤防の上で花火を終えて寝転がって星空を見上げる今、「自由」という言葉を人生で初めて噛み締めたような気がしたのである。

 

琴弾公園の巨樹(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

7月16日は有明浜の駐車場で4時半起床。朝日があたるまでの間に観音寺の松原を念のため撮影。やはり前日とは違った巨樹が語りかけてくれる。宿題にしていた東かがわ市の『白鳥神社』へ地道で逆行。こちらも3連休モードにしてみるとやはり寄り道大魔王となり金刀比羅宮の看板に従う。琴平駅近くの北神苑内で松に囲まれた高燈籠を見つける。万延元年(1860)の建立で、高さ28mで日本一高い灯籠らしく、瀬戸内海の船からも見え、金比羅山を拝む目標灯にもなっていたという。次に松に囲まれた御神事場に向かう。車窓から見えていた金倉川にかかる鞘橋(さやばし)が気になったのだ。屋根のある木橋で、寛永元年間には存在したらしく現在のものは明治2年(1869)に建てられたらしく神事に使われる。この御神事場は毎年9月8日に潮川神事が行われるとある。続いて国の名勝にも指定され空海も改修したと言われている満濃池の看板が目につき立ち寄る。さらに途中で気になる風景を見つけては撮影。

昼前に『白鳥神社』の駐車場に入る。本殿を始め建物がとても手入れが行き届いており、藩祖に手厚く守られた歴史を感じることができる。それにしてもなんたる猛暑。熱中症対策をして松林に入る。勢力を誇ったであろう広い神社林の松原は、あまり手が入っておらず野趣溢れる空間で不意に樹齢を重ねた松が目に入る。多くは地を這うように伸びており、なんと自らの枝で幹を支えている。人はこの姿を見てつっかい棒を考案したのではないかと思うと同時に自らを支えるその姿を見て生きる勇気をもらった人は多いのではないかと思う。ふらふらになりながら撮影を切り上げる。門前町は寂れた感が否めないが、『白鳥神社』はとても品位があり、何よりも建物が細やかに手入れされ端正で美しく、参道も近くの山の裾野から浜まで続き町の中心を貫いている。このアンバランスがとても切なく感じた。

気がつけばあと1週間で今回の瀬戸内撮影を切り上げねばならない。淡路、四国と巡ってきた日数を考えるとそろそろ本州に渡らなければならない。よって、急ぎ次の撮影ポイントである今治へ向かい、3連休明けには本州に居た方が良さそうだ。この期日が曲者である。これまでと違い長期にわたって撮影に没頭できるのはいいが、それでも期日があると逆算をして行程を調整しなければならない。そうすると撮影のペースも乱れてくる。これは非常に不本意である。ここまでの撮影はとても順調にこなせていると思う。いやむしろ手応えを感じながら撮影のテンションが上がっている。僕は本気で撮っているのだ。趣味や旅行ではない。今後は先々の予定はリモート対応できることに限ろうと思う。コロナ禍で定着したワーケーション対応もできるようにキャンピングカーを仕立てたのだから。16時まで撮影し一気に高速道路で愛媛県今治市の『志島ヶ原』に至る。18時ごろに綱敷天満神社の駐車場に着き、すぐに11haの松原を彷徨い歩いてみると、樹齢を重ねた松たちが西陽を浴びて佇んでいる。1時間ほど撮影して大体の場所の雰囲気がわかってきた。明日の早朝も撮影することとし、10分程度のところにある湯の浦温泉にいき、食堂が開いていたので天然鯛の焼き魚定食を食べるとこれが美味い。天然温泉も連休を感じさせないのんびりとした雰囲気でゆっくりできた。道の駅に車を停めたが賑やかな車が出入りするので『志島ヶ原』の海岸の空き地に移動。

7月17日、旅に出て8日目。5時の目覚ましで目が覚めれば砂浜は美しい一面の朝焼け。見惚れていると真正面の水平線から太陽が顔を出す。絶景であった。丘からの風が涼しく快適なスタート。日差しが強まる前に松原の撮影散策。あっという間に汗ばむ日差しになった頃、事前にメールで連絡をしていた呉市の梶岡さんから電話が入る。このタイミングが絶妙。良い流れである。しばしやりとりをして15時に呉市内でお会いすることとし一気にしまなみ海道を渡って本州に入った。

 

志島ヶ原の松原(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

(瀬戸内紀行 本州前編に続く)