(「リュウキュウマツの原風景を探す(1)」より続く)

 

6月30日 4日目 伊平屋島へ渡る

 

明け方に名護市内から今帰仁村に移動し「仲原馬場」へ。朝の日差しに浮かび上がるリュウキュウマツの並木を探求する。7:30からOpenしているSoma Cafeにパートナーを送り届けてもう少し撮影してからCafeに戻りモーニングを食す。

11:00に運天港を出港するフェリーに乗るので10:00に乗船の手続き。車は事前に電話予約して往復の確保済み。ここでは車も人間も一緒に手続きを行い、往復24,560円は電気系統の不具合がなければカード決済可能。1時間20分の適度な船旅で沖縄県の最北端に位置する伊平屋島に着く。運天港からは伊平屋島に隣接する伊是名島へのフェリーと2航路が発着している。

出航すると見えてくるのは瀬底島。開業早々の「ヒルトン沖縄瀬底リゾート」に、コロナ禍の2020年10月に2人でワーケーション滞在したことを懐かしく思う。そして異国感満載の伊江島の城山(伊江島タッチュー)がいつ見ても存在感抜群。

12:20に伊平屋島の前泊港に到着。まえどまりスーパーでお手製のお弁当とドリンクなどを仕込んでのんびりとした農村風景を走り「念頭平松」に向かう。広々と公園整備され本当に気持ちの良い場所である。「念頭平松公園」に設置された案内板の説明文から抜粋する。

 

今帰仁村のグランド(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

伊平屋島の念頭平松(国指定天然記念物のリュウキュウマツ)

 

高さ約8mで幹周りが約4.5m、枝ぶりは東西約28m、南北約24mの傘を広げたような姿で1700年代後半に植えられたと考えられている。県内最大級のリュウキュウマツであり、大きさはもとより枝ぶりの美しさで古くから地域の人々に親しまれ保護され、2016年に国指定天然記念物に指定された。地元では「ヒラマーチー」や「マーチー」と呼ばれている。

念頭平松の名前の由来は詳しくわかっていない。現在の念頭平松は2代目の松でその前にも念頭平松のように美しい優美な松があった。諸説あるが、一つには今の念頭平松が植えられた後、朝夕お祈りし念願を掛けた。それをいつしか人々が”ニントゥウ”、”ネントウ”と呼ぶようになったという云い伝えがある。また、念頭平松一帯の地名「俗称ネント」原に由来して念頭平松と呼ばれているという説もある。

現在の念頭平松は樹木医の指導の下、台風時の強風から松の枝を保護する目的で支柱を設置。松の根を保護する目的で保護柵を設置。マツ材線虫病の原因となる線虫を運ぶマツノマダラカミキリの防除のため島外からの松の苗木や材木等の持ち込みは禁止。

伊平屋村に古くから伝わる古歌「大田名節」に念頭平松の様子が歌われている一節がある。

「念頭平松ぬ 枝持ちぬ美らさ 田名の乙女ぬ 身持ち美らさ」

以下はレキオ島唄アッチャーというサイトより大意と歌の由来など抜粋して記す。

「念頭平松は枝ぶりが美しい 田名の乙女は身持ちが美しい」

「大田名節」は“伊平屋島で最初に人が住んだ”と言われる田名集落に伝わる古い歌で作詞作曲者できた年代は不明。伊平屋島ではとても名高い曲で「大田名節大会」が開かれ、子どもたちも演奏しておりこの曲がとても大切にされ長く歌い継がれてきたことがわかる。

 

駐車場の前に「にんとうまーちーやー」という東屋がある。壁面には昔の写真と島民の言葉が記されており、いかにこの松が島の人の暮らしの中にあったのかがよくわかる。素晴らしいのだ。「にんとうまーちー」は先述の「ヒラマーチー」や「マーチー」と同様に地元での「念頭平松」の呼び名で「やー」は家をあらわすそうだ。観光交通課の紹介文をそのまま記載する。

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かっての「念頭平松」は子供たちの遊び場であり、青年たちの語らいの場でもありました。現在は根の保護のため柵が設置され松に近づくことが出来ませんが、往時の松との関係性を伝えるような写真やエピソードをここに展示することにしました。エピソードはあえて校正せず、はなし言葉のまま掲載しています(2019年間取り実施)。

「通学路でいつも見ていた念頭平松」

以前の僕の家は念頭平松の1kmほど北にあって、10年くらい毎日傍をとおって学校(田名分校)まで通っていましたよ。夏の登下校は暑くて、帰りに松の下で涼んでから帰りました。冬は寒さがあって、年頭平松の近くはススキ道でしたから、ススキに隠れて寒さをしのいだのを覚えています。正月の頃の松の花がとても綺麗で目に焼き付いていますよ。 田名区 男性(1948年生)

「手をつないで松を囲んだ」

私が小学校4年生の時(1970ころ)に島出身の先生がいて、理科の授業で念頭平松の幹を測ってきなさいと言われて生徒だけで歩いて行ったことがあります。手をつないで何名で囲める崩かを試してみると、6名で囲めました。※2016年時点の幹間りの長さは約450cm 田名区 男性(1958年生)

「松にのぼって鬼ごっこ」

子供の頃は、遠足で来て松の枝に登って鬼ごっこをしました。てっぺんまで登るんです。今は松の枝は垂れているけれど、昔は上がっていました。ガジュマルでも松でも木の上で鬼ごっこをしました。てっぺんのユラユラする枝をつかんで、また次の枝に飛び移るんです。昔の子供たちの鬼ごっこはみんなこうでした。 島尻区 男性(1959年生)

「青年の頃の思い出」

僕が青年の頃は、十五夜や豊年祭、村で陸上大会などがあると2次会に念頭平松のところへ繰り出して、夜通しやっていました。三味線やギターを弾きながら明け方まで念頭平松の下で飲んで楽しんでいました。 田名区 男性(1958年生)

「生活に欠かせなかった松」

松からは灯の燃料になる松脂が取れます。老木の松は斧で削っておくと松脂が出てくるんです。その松脂を集めて筒状にして家庭で蝋燭のように使っていました。それ以外にも、イザリの時に灯にしていました。タコとか魚がよく獲れました。念頭平松の枝からも昔の人は松脂を取っていたのではないかと思います。取った跡がありましたよ。※イザリは夜間引き潮時のイノー(礁池)内の生物を採捕する沖縄伝統の漁法 田名区 男性(1932年生)

「念頭平松の伝説」

念頭平松の兄松は、伊是名のヤマトチクドゥンという人が盗んだという伝説がありますが、これは違うと思います。昔は松脂を取って灯に使っていました。だからみんなが松脂を取るために傷つけてある日突然枯れたというのが本当ではないかと。あの時代に松を盗んで船に乗せて伊是名に持っていけるわけがないだろうと仲間と話していました。 田名区 男性(1948年生)

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以上のような聞き取りを書き起こした文章と、想像を膨らませてくれるような当時の写真(色褪せたカラーや味わい深いモノクロ)も掲示されている。島の暮らしに「念頭平松」が寄り添いイキイキとしているのだ。沖縄の離島でも「日本の暮らしと松」はしっかりと語れることを教えてもらえた。心が震えるほどの感動だ。そんな感動を抱いてアングルを探求する。

15時過ぎから、思い切り美しい沖縄の原風景を眺めたくて「念頭平松」に近い島の最北端に向かった。伊平屋村の観光パンフレットには「原風景の島伊平屋」とあるのだ。くまや洞窟、潮下浜、九葉(クバ)山周辺の景観には心を奪われる。水平線に浮かぶ入道雲、抜けるような青い空と海。白い砂浜と岩場のバランスも良くエメラルドグリーンに輝くラグーン。そして山を覆うのはクバ(ビロウ)のみという特別な風景なのだ。ただ眺めるだけ。その場にいること自体に感動である。

 

「伊平屋島教育委員会」係長の嘉手納知子さん

 

17時に「念頭平松」を管轄されている教育委員会の嘉手納さんにお会いする。前泊港に近い離島振興総合センターの2階で早速お話を伺う。嘉手納さんが話してくださったことをそのまま書き出してみる。

島では風が強いせいか背が伸びない。風の要素だけでこのような笠の形になるのかは不明だが横に広がる傾向がある。畑の畦道に生えてくる松も笠のようになる。リュウキュウマツの葉は柔らかく本土の人が喜んでくれるので、見学に来られた方には積極的に葉に触ってもらっている。樹形はアカマツのように女性的で沖縄歌には女性に例えて歌われている。

この島では1972年の日本復帰まではプロパンガスが導入されず薪の生活をしていた。アメリカ世(アメリカユー)では脱脂粉乳とパンが給食の基本で、それを温めるために薪を使うので給食費は薪で払っていた。各家庭で風呂を沸かすのは80年代まで薪の世帯がほとんどで、どこの家でもヤギを飼っていたので子ども達が面倒を見るときに薪を拾う習慣が定着していて、薪の生活も慣れていると苦にはならないことから切り替わるまで20年ほどかかり、全世帯が化石燃料に切り替わるのは90年代までかかった。

薪とりは地区によって割り当てが違っていた。家ごとに場所を決めて管理する地区と、地区全体で場所を特定し時期が来たら移動してまんべんなく資源を消費していく地区と、だいたいこの2つの方法があったと思う。ただ、山の決まりを破ると山札をかけさせられる罰則があった。これは名護市でもやっていたと聞いたので、たぶん沖縄県全体で行われていたのではないかと思う。伊平屋島は山が深く湧き水もあるが、隣接する野甫島(のぼじま)は、湧き水がなく山もないため薪のために木を切ることを禁じ拾うだけで薪と水は貴重だった。

薪は樹種を気にせず使ったり一律の価格で出荷していたが、薪を取るために植樹したのは松だけだったようで、いつ頃どこに植えたかなど話してくれる島民が多い。松だけ植樹したのは、どこでも育つというパイオニア植物の特性と、成長が比較的早く火力が強いなど総合的に使い勝手がいいためだったと考えられる。沖縄の中でも伊平屋島は離島のため、生活習慣が切り替わるのが遅く今でもこれだけ松の風景が残っている。(嘉手納さんは)2010年に本島から移住したが、その頃と比べるとこの15年で自然遷移が進んできて、少しヤンバルらしい雰囲気になってきていると感じている。

伊平屋島では、まだマツクイムシ被害は確認されていない。人の移動に伴うものなので厳密に管理するのは難しいと考えているが、条例で苗や材木の持ち込みを禁じている。島の人口は1,200人前後で移住者は1割を超えていないのではないかと思われ、結婚などではなく縁もゆかりもなく移住する人は人口の5%前後ではないかと思われる。移住を希望する人がいても住宅確保が難しいことと移住者コミュニティが育っていないことも理由にあると思われる。

伊平屋島は沖縄の原風景と言われており、80代の人は戦前の緑豊かな沖縄の風景を思い出すようだ。山の崖地にウバメガシが生え斜面が緩やかになるとリュウキュウマツに変わり山裾や田畑との境目には松林が広がる。田名(だな)地区や島の南西側に松林が目立つと思う。そして浜にはアダンとユウナが海岸林の機能を果たす。これが伊平屋島の風景でありリュウキュウマツが生活に寄り添う状態だと思う。それに加えて島の北端にある九葉山(クバやま)のようなクバ(ビロウ)だけの山は伊平屋島だけではないかと思われる。近くの伊是名島は伊平屋島の半分ほどの大きさだが、農地の面積は同じぐらいで伊平屋島はそれだけ山が深い。

嘉手納さんは本島から移住されているので、沖縄戦の話も聞いてみたところご家族から聞いている話を教えてくださった。

一族は早い時期に北部に疎開して難を逃れたそうだ。運よく旧日本軍がいない場所に疎開したので一族全員で投降して収容所に入った。おじいさんが五男だったためペルーに出稼ぎに行った経験があり、そのため英語やスペイン語が理解できたため、米軍がまいたチラシが読めたり捨てられている缶詰の内容が読めたらしい。その語学力を活かして地域を代表する交渉役となって条件を引き出したようだ。旧日本軍の進路からちょっとズレただけで理不尽にも生死を分けたという。これまでの戦争報道はオブラートに包まれ情報と現実の格差があるという。

 

さて、嘉手納さんを伊平屋島らしい松のある風景で撮影をするため、フェリーが前泊港に入港する際に正面に見えていた「虎頭岩(とらずいわ)」に案内してもらう。駐車場から階段を上がると岩場を登りウバメガシの群生をかき分け頂上に辿り着く。すると360°伊平屋島を見下ろす大パノラマが広がりその目の前にリュウキュウマツが立ち並ぶ。気温は少し下がり風も涼しくなり良い時間を過ごせた。

この「虎頭岩」は戦争遺跡でもあった。2020年6月13日の沖縄タイムスで「島のランドマーク「虎頭岩」で目撃された巨大な穴 知られざる戦争遺跡だった」という記事がある。この遺跡を紹介しているのが嘉手納さんだ。「戦争を語れる人が少なくなっている。虎頭岩に砲弾が撃ち込まれるところを直接見た人を探すのは難しい」とのコメントがあった。またこの記事に「1945年6月3日早朝、伊平屋島の東海岸を米軍艦100隻以上が黒く覆った。海からは艦砲射撃、空からは米軍機による爆弾投下が始まり、島は約2時間にわたって激しい攻撃にさらされた。住民は混乱に陥り47人が死亡。島を占領した米軍は家を焼き払い、住民を字田名(あざだな)集落に強制収容した」との記述もあったことを書き添えておく。

夕食はフェリーターミナルにある「お食事処みなと」でチャンプル定食と伊平屋そばをパートナーと2人で分け合うが安くてボリュームがあって何より美味しい。

地図情報では島にコインランドリーがなかったのだが、「まえどまりスーパー」の向かい側にある「ホテルにしえ」の24時間のコインランドリーを発見し安堵した。車中泊は「念頭平松公園」のトイレも完備された広い駐車場。道路に1つだけ非常灯があるだけで月も沈み真っ暗で、ランタンを点灯しないと「念頭平松」のシルエットすら見えない。近づいてしばらく暗闇に佇むと、目が慣れてきて少しずつ「念頭平松」が浮かび上がってくる。星空撮影と夜明けの撮影に備えるには最高の環境。もしかしたらこれまでの撮影で最も素敵な車中泊の場所かもしれない。

 

朝日に照らされる念頭平松(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

7月1日 5日目 仲原馬場での語らい

 

5時はまだ暗いが「念頭平松」の前に立ち涼しい風に吹かれる。少しずつ明るくなり沖縄地上戦も生き抜いてきた巨大なリュウキュウマツのディテールが広大な風景の中に浮き上がってくる。とても静かで神秘的な時間だ。5:30を過ぎると赤い光が幹を照らし始める。水平線からほぼ何も障害物なく届く朝の日差しだ。美しい。1時間ほど経つと昼の色味に変わり撮影を終えた。

島の農村風景に佇むリュウキュウマツを探して移動を繰り返す。畦道で枝を広げ、山の稜線に立ち並ぶ。リュウキュウマツたちが作り出す風景。それは本土にもあった風景なのだろう。琉球文化でも「日本の暮らしと松」というテーマは違和感なく、むしろ伊平屋島にその風景は残っていたのだ。

せっかくなので島の南部にも足を伸ばしてみると野甫大橋からの海の色にパートナーと二人で思わず声を上げた。対岸に浮かぶ伊是名島との間に広がる色はターコイズブルーのグラデーションが素晴らしい。そこを横切る小さな舟が空中に浮かぶかの如く透明感もすごい。

フェリーターミナルに行き「お食事処みなと」で伊平屋島そば定食で満腹。名残惜しいが乗船し運天港を目指す。下船したら今帰仁村の社会教育課歴史文化センター玉城館長に連絡する約束。15:00に「仲原馬場(なかばるばば)」でお会いすることになった。

 

「今帰仁村歴史文化センター」館長の玉城靖さん

 

玉城さんは今帰仁村の出身。県内の大学で考古学を専攻し2003年に今帰仁村役場に就職。ずっと今帰仁城跡等の発掘調査に関わってきた。そして2019年に今帰仁村歴史文化センター館長に着任。今帰仁村の文化財を一手に引き受ける組織をまとめる立場だ。重なりもあるが指定文化財の数は、国指定は「今帰仁城跡」を含め3件、県指定は「仲原馬場」を含め9件、村指定は7件ある。これらは、史跡・建造物や、植物などの天然記念物、伝統行事の無形民俗文化財まで多様で、考古学を専攻して発掘調査に邁進していた頃とは違い、今の玉城さんの管轄領域はとても広いという。大変そうだが故郷の財産を語る玉城さんの目は輝いている。

「仲原馬場」は昭和34(1959)年に県指定の文化財となった。このため歴史文化センターで管轄しておりマツクイムシの駆除防除や年間を通して10名ほど雇用し清掃活動を行っている。一般財団法人日本緑化センターHPなどによると、かつての地名である謝名(じやな)村字仲原(なかばる)、現在の字越地(こえち)の小字与比地原(ゆぴちばる)に位置する馬場でこの名が付いたようだ。地元では単にマーウイ(馬場の意)とも呼ばれるらしい。現在は今帰仁村の公共的な施設として行事が開催されることもあるそうだ。

「仲原馬場」は標高 20m の石灰岩台地上に立地し、長さ約250m幅約30mあり一部に当時の石垣が残る。玉城さんの話では往時の馬場は現在並走する国道505号線を横切るように伸びさらに長かったそうだ。松はその両側に林立し、樹齢を重ねたものが「蔡温松」だと思われる。文化財でもあるため台風で倒木した際には報道され記録が残った。例えば2002年に折れた「蔡温松」は2本あり樹齢250年前後、幹の太さが40cm-50cmほどで高さは約10メートルで2本とも幹の中心は空洞となっていた。

沖縄には昔からこのような各地に馬場があり集落内の競馬場として利用されていたが、アブシバレー(虫払いの儀式)や原山勝負(農作物や家畜の品評会)や間切(現在の村)行事として活用される憩いの場で、今も残る石垣は来賓席として使われていた。

各地の馬場ともいつ頃造られたのかはっきりしないが、『坑球諸島航海日誌』(1614~15年)に競馬が行なわれていたことが記されている。「仲原馬場」の起源についても今のところ定かでないようだが、沖縄戦で多くの馬場が破壊され耕地や宅地に代わり姿を消していったため、県内でも数少ない往事の面影を残す馬場なのだ。

競馬は「琉球競馬」といい、玉城さんの話では馬は沖縄で飼育されていた小型の在来馬で「宮古馬」や「与那国馬」だったそうだ。この在来馬についてはOKITIVE(オキティブ)から抜粋すると、体高(首の付け根から蹄の先までの長さ)120センチ前後、体重200キロ前後で、サラブレッド(体高170センチ前後、体重500キロ前後)よりも小柄だが足腰が強く粗食にも耐える農耕馬。この在来馬が最初に史書に登場するのは1383年の『明実録』で「内官・梁珉が貨幣をもって琉球に行き、馬と取り替えて帰る。馬983匹を得る」とある。当時は沖縄本島の三大勢力(中山、北山、南山)が拮抗する三山時代で、中山は「牧」と呼ばれる直営の牧場を読谷や嘉手納の周辺に設け1500頭以上の馬を明国へ送り、競い合うように北山、南山も明へ馬を朝貢したとある。

「琉球競馬」とは着飾った在来馬が2頭併走で速さと美しさの両方を競い合う「ンマハラシー」というものだったと玉城さんはいう。OKITIVE(オキティブ)から抜粋すると、他に類のない「琉球競馬」は士族の娯楽として創設され、沖縄戦の直前まで連綿と受け継がれていた。当時は使節の御用馬を選ぶ馬揃え(審査)が娯楽化、競技化したもの。そのための会場の一つが「仲原馬場」だったというわけだ。基本的に、「琉球競馬」の馬場は松並木に囲まれた200メートル前後の直線走路。上り下りの勾配があるとリズムを崩しやすい馬の習性から全て平坦になっているのが特徴だそうだ。

なぜ松並木だったのかは想像の範囲だが、建物や造船のために山に木を植えさせ、海岸にアダンを道路にはリュウキュウマツを植え、緑豊かな島にしていった三司官(さんしかん)を務めた蔡温が生きた1700年代前半に整備された「蔡温松」と考えると合点がいくし、それ以前から痩せた土地でも育ち日陰を作ってくれる松の性質を理解していて植樹していた可能性もあるだろう。

この松並木なのだが、玉城さんの話を聞いて思わず声を上げた。沖縄県内の至る所の「宿道」と呼ばれた旧道には松並木が多く残っていたというのだ。玉城さんのフィールドでもある今帰仁城が権勢を振るい浦添・大里と合わせて三グスクを中心にまとまった時代。この三山鼎立(さんざんていりつ)の時代が終わり、1429年に首里城を中心とした尚氏による琉球王国時代となると、首里からの伝達である「宿次」制度は「宿道」と呼ばれた街道を通って各地の「間切番所(=現在の役場)」に伝えられていた。ちなみに王府時代の道には「宿道」「脇道」「原道」があり、「宿道」が今の国道としたら「脇道」が県道、農道にあたるのが「原道」だったそうだ。政治的にも人々の暮らしにも主要な道だったこの「宿道」に、リュウキュウマツが植えられ松並木を形成していた。

例えば、琉球国王が普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まる「普天間宮」を参拝するための参道が、宜野湾から普天間に通じる「宜野湾並松街道」があった。約5kmの両側には王の命で植えられたリュウキュウマツが林立し、木陰が普天間宮参りの旅人に涼をもたらした。この松並木は、戦前まで国の天然記念物に指定されていたが、旧日本軍に切り倒され戦後は米軍普天間飛行場として滑走路の下に消えた。わずかに残った松並木も時代とともに失われ今は存在しない。宜野湾市は「普天間飛行場跡地利用計画」でこの並松街道の再生を計画している。

玉城さんが小学生だった1980年代の頃まで、この「宿道」の松並木が多く残っていたそうだ。その多くは「蔡温松」だったのだろう。沖縄の戦前戦後の写真を見ると松の風景がたくさん残っていたことがわかるという。「仲原馬場」に近い国道505号線や、運天港に続く幹線道路に沿って伸びる旧道にも、かろうじてその名残のリュウキュウマツの老松が点在していると教えてもらった。確かに意識するとリュウキュウマツが道沿いで目に入ってくる。これまでも沖縄には観光や仕事で足を運んでいたが、今回のようにリュウキュウマツが記憶に残ることはなかった。やはりビロウやアダンなど南の島を演出してくれる植物を意識して見ていたように思う。今回の旅では、これほどリュウキュウマツがあるのかと思うほど目に入ってきて、1966年に県の木に選ばれるのは当然だっただろうとしみじみと思ったのだ。

そんな最近まで松並木が多かったのも薪の暮らしがあったからのようだ。玉城さんのひいおじいさんは薪の生活をしていたという。松の落ち枝や松葉を焚き付けに使っていたのだろう。松が暮らしの中にあったのだ。近所にもそういった家庭はあったそうで、これは伊平屋島で聞いた話とも重なる。離島だけでなく薪の暮らしに慣れていた人たちは、本島でも多くいたことだろう。今帰仁村では各地域ごとに海から山にかけて土地を確保して薪を始め山と海の資源を共有していたそうだ。これも伊平屋島で聞いた話と重なる。

ところで、と玉城さんが運天港の地名の由来を教えてくれた。昔、源為朝が島流しになり漂流して島に着いた。それが運天港で運を天にまかせたからその名前がついたというのだ。松から話が逸れてしまうが、興味が湧いたので琉球アーカイブスから「為朝伝説」を抜粋する。

保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出を試みるが潮流に流され運を天にまかせてたどり着いたのが今帰仁だった。その地に運天(うんてん)と名づけ南部に移り住み、大里按司(おおざとあじ)の妹と結ばれて男児をもうけるが為朝は妻子を残して本土に帰った。妻子が為朝の帰りを待ちわびたところが牧港(マチナト・まきみなと)と名づけ男児が、後の琉球王府の正史「中山世鑑」に記された琉球最初の国王の舜天王(しゅんてんおう)だという。この伝説の背景は17世紀初頭に島津氏によって侵攻された琉球が従属する理由づけを必要としたためで、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用し、為朝伝説が琉球最初の正史に記されることになったとされている。

まだ強い日差しが差し込む「仲原馬場」で、玉城さんとの時間はリュウキュウマツの話を起点に縦横に沖縄の歴史散歩をするようであった。沖縄県でも古来より松の機能を期待した生活文化は色濃くあり、時代によって翻弄されてきた国境線とは違い、日本在来の「二葉松」の3種を指標植物として考えると、クロマツ、アカマツ、リュウキュウマツの自然植生地は青森県から沖縄県であり植林地域を加えると北海道から沖縄となり、”松から見つめる日本”と言えるのだ。自然はなんと平和な気持ちにさせてくれるのだろう。現在の47都道府県は、「日本の暮らしと松」という生活文化を語れる「松の国・日本」であると結論付けたい。

 

今夜は畳を求めて今帰仁村にある「古民家ぷからーさ」の一棟貸し。本部町備瀬地区にあった築62年の沖縄の伝統な「ヌチヂャー」という工法で建てられた古民家を移築したもの。釘や化学物質を一切使わず赤瓦の屋根には琉球漆喰を使用した自然素材のみ。ガラス窓がなく網戸もなく大きな開口部を閉ざすとしたら雨戸だけだ。電気を付けているとバンバン虫が入ってくるので蚊帳を吊るして過ごす。この蚊帳が自然素材でとても優しい空間に。熱帯夜だったがひさしに隙間があり室内に熱がこもらず夜は涼しく感じるぐらいで熟睡できた。

そして、今更だが気候変動の元凶の一つと言えるエアコンで室内を冷やして室外機で熱風を室外へという人間中心発想に頼る自分の日常を恥ずかしく感じてしまった。リュウキュウマツを通して沖縄の歴史文化に触れてきたのでこの宿で過ごして心置きなく完結する旅となった。二葉松と松に関わる人と出会う旅を通して、日本ならではのサステナビリティを考える旅をしてきたが、沖縄でもその方法に間違いはなかった。

 

仲原馬場の朝(撮影:Hasselblad 907X CFV II 50C + XCD4/45P)

 

7月2日 6日目 リュウキュウマツの原風景を探す旅を終える

 

夜明け前に「仲原馬場」に到着し、少しずつ明るくなる松並木を眺め続ける涼やかで静かな時間を過ごして今回の撮影を終えた。浦添市のAsovivaWorksにレンタカーを返却し那覇空港に向かった。観光旅行とは程遠い気合の撮影取材旅にも関わらず終始笑顔で過ごしてくれたパートナーに感謝。撮影の成果もまずまずだろう。

足掛け2年を要した「松韻を聴く旅」も古都の奈良市内・京都市内や、東京都中心部などを残しほぼ全国を巡った。今回の沖縄県で、現在の47都道府県は「日本の暮らしと松」という生活文化を語れる「松の国・日本」であると結論付ることができ安堵した。もう一踏ん張りしたい。

 

(「晩夏の東北」へ続く)